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戦場乙女3

彼が提示した着想は、誰がどう考えても無理難題とした言い表せないものだ。

瀬戸がそれこそ年単位で積み重ねた作戦の、その【総て】を————深山がたった独りで、実行に移そうというのだ。

それはこの場にいる誰も、『剣豪』瀬戸でさえも実行不可能と匙を投げるほど。ひとつでも失敗すれば、まさに総てが水泡に帰す。

この作戦を実行するというなら、小田原藩総員が綱渡りに参加しなければならない。

しかし深山であれば、もしかしたら……などという淡い期待を抱いてしまう。

深山がいなければ……彼でなければこの作戦は立ち消え、敗戦までの時を絶望に伏して待つだけだった。

僅かに覗いた希望の芽は、拭いようもなかった諦念の色に染められていたはずの小田原藩総員の心を震わせた。

瀬戸の作戦に深山の無茶な着想を加え、新たに形を整えて準備に移った本陣。

その慌ただしさのなかで、八重はたった独り俯いていた。

手には相変わらず桜色の簪を握り、孤独と戦っているような眼差し。

守護役が《最上の戦巫女》の側から離れるとあって、彼女の周りは瀬戸を始めとした強豪たちで守りを固められていた。

しかしそれでも、数えでたった十五歳の少女には、不安な状況に間違いないだろう。

「八重は強いよ」

「————!」

深山のたった一言を受けて、八重は弾かれたように隣へ目を向けた。

戦場に吹き渡る風は驚くほど穏やかで、辺りに響く怒号はどこか遠く聴こえる。

吸い込まれそうなほどに美しい、深山のその横顔は。

不用意に彼女の側へ寄り添ったり、優しく抱き締めるようなことは決してしない。

ただ隣に立ち、同じ景色を望む。

「きっと、君自身が思っている以上に」

確信しかないと断言するような彼の言葉に重圧はなく、かといって無駄な優しさで包み込むことはない。

「深山……」

まだ深山が離れる不安を払拭し切れない、前日に見せた『強さ』とはかけ離れた————年頃の少女という、等身大の八重がここにいた。

不安定で未完成、揺れる瞳。

八重の唇が自分の名を呼ぶのは、随分と久しぶりのような気がする。

嬉しさを感じた深山は、素直にほんの少しだけ微笑んだ。

その陽だまりを思わせる穏やかな微笑みに、八重の心は揺れた。

これほど険のない深山の笑顔を見るのは、もしかしたら初めてのことかもしれない。

こんなにも彼から《離れたくない》と願う心。

『側にいて』————叫んで縋りたい心はしかし、この戦場に……《最上の戦巫女》には許されざる甘えだった。

深山を呼ぶ忠愨公の声が聴こえる。作戦決行の合図だった。

「じゃあ、俺はもう行くよ」

「まって!」

踵を返す深山の背中を、八重の叫びが引き止めた。

「八重?」

振り向く前に腰へ回された八重の腕は、普段よりもずっと頼りなげな乙女の細腕。

幼いあの日からなにも変わらない、清らかで純真な少女のもの。

長い戦が鎮まった春の日に交わした約束を、思い返しては求めていた。

離したくない。

『頑張って』って言いたい。

わたしのことを守るって、言ったじゃない。

涙を堪えて、送り出さなきゃ。

離れないで。

どこかに行かないで。

————もう離したくない。

鬩ぎ合う心から溢れ出た感情の帰結は、昔から決まっていたのかもしれない。

戦い続ける彼の背中は、いつだって逃げたりしないから。

「深山の————あんたのために、祈らせて」

もう決して揺るがない、その切なる心。

堪える気持ちも幾らかあるけれど、それでも彼への祈りと願いはひとつだけ。

「随分と大袈裟だな」

八重の決意をどう受け取ったのか、深山は苦笑しつつ振り向いた。

「命を懸けて君を守ると、約束した。破ったりしないよ」

決して逸らさない瞳の色はやはりどこまでも澄んでいて、計り知れないほど深い翠緑で満ちている。

再会した春の日は、いくら鮮明に思い出しても幼少のあの日と違う暖かさだった。

二度目の約束こそ果たそうと決めたのは、幼い君が忘れられなかったから。

深山はきっと、本当の意味では理解していなかった。

目の前の少女が抱える苦しみを、背負っているものの重みを、本当に欲しかったものを。

「命なんて、簡単に懸けないでよっっ!!!!」

戦場に反響した八重の叫びは、ひりつくほどに痛くて苦しくて、雨空のように淋しさを抱えた色彩。

感情の激流は天を泳ぐ龍のごとき逆鱗を孕み、しかし彼女の持つ優しさが隠し切れない。

それでもいまは泣くまいと懸命に堪えるのは、果たして誰の為なのか。

「わたしのせいで、誰かがいなくなっちゃうなんて……もう嫌なの!」

お母さま、薄桜……そして今度は深山までいなくなったら、今度こそわたしは立ち直れないという強い確信。

今度こそ本当に独りぼっちになるという巨大な恐怖が、八重の頭を支配する。

わかっている振りをしてきたんだ。

戦場が広がるこの世界では、今日にも誰かが急にいなくなるなんて当たり前。

戦巫女の運命からは逃れられず、戦場という楔は付いて回る。

誰かが死ぬたびに移り変わっている世界は、しかし真の意味での変革を呼ばない。

狭い籠のなかから望む世界はどこだって、なんの色味もない枯れた空洞でしかないのだ。

【死】という別れはあまりにも空虚で、目に見えないなにかが絡まってこびり付いて。

そのくせ『もう会えない』という実感なんて簡単に湧かないから、その大きな穴に気づくのはいつも遅い。

心を鈍らせるものがなんなのか。

考えてもわからないのに、拒絶だけがどんどん大きくなっていく。

それが【死】への恐怖というものなのだと、知らされるのはいつだって……誰かが側から消えた『日常』のなか。

手のなかにあるはずの簪も、いつか溶けるように消えてしまうかもしれない。

消失を感じるその瞬間に、残るものはあるのだろうか。

縋りつく八重の腕を、深山は拒めない。

いま拒絶したらきっと彼女の心は壊れると、想像がつくようなか細い声だった。

「約束なんて守らなくていいから、死なないで……ずっと側にいてよ」

約束なんていらない。

優しさも愛も、自由も求めたりしない。

もうなんにも望まないから、どうか。

わたしを独りぼっちにしないで————。

「————わかった」

深山の声が穏やかに応えたことで、瞳と瞳が交錯した。

荒れ狂う戦場を撫でる風の音、そして飛び交う怒号はなおも止まないのに、深山の声だけが八重の耳にしっかり届く。

「約束事を変えよう。『俺は死なない、必ず君のそばに戻ってくる』」

桜の簪を頑なに握り締める八重の右手を、深山の左手が包み込んだ。

この確かな温かさは、八重が渇望してきたもの。

深山の手の温かみが簪を消失から守ってくれるような、そんな気さえ湧き起こる。

大きすぎて独りでは立ち向かえない恐怖さえも、いつも彼が溶かしてくれた。

薄桜との優しい思い出のなかに、彼もいつも一緒にいてくれる。

騒がしくて、腹が立って、喧嘩もして、でも確かに笑えていた日々。

あの笑顔が嘘なんかじゃなかったことは、八重自身が一番わかっている。

そしてこれからも、きっと。

彼が側にいてくれると、信じることができるから。

「これでご満足頂けましたか、八重さま?」

空気を変えるように戯けた態度へ切り替えて、仰々しい素振りと似非臭い笑顔を向ける深山は。

いつも通りの彼だと思う反面————ここ数日、自分の弱さを見せた暮らしぶりを思い出し、なんだか照れ臭さを感じてしまった。

「死んでも守りなさいよ、深山」

頬の紅潮を自覚して恥じ入りつつも、誤魔化すような強気の視線と語調の八重を見て。

ようやっといつもの彼女に戻ったようだと、深山は内心で安堵した。

「言ってること矛盾してるなぁ」

「うるっさい!いいから持ち場に行きなさいよっ!」

照れ隠しに深山の背中は滅茶苦茶に叩かれ押されるが、八重の力が本気ではないとわかっている。むしろ照れる彼女はいじらしいとさえ思った。

強い彼女の背中に『守る』ことは必要ない。

だけど常に淋しさを抱えた彼女の側を、決して離れてはいけない。

もう二度と後悔はしたくない、八重を悲しませるものは自分自身であっても許さない。

————だから。

多くの人を殺してきた愛刀に、そっと右手を添える。

いままでごめんな、という心を込めて触れる刀の感触は、頼もしくもあり優しく感じられるもの。

人の命を奪うものではなく、 自分の信念を貫くために振るうものにしたい。

その第一歩として。

「君との約束は、二度と違えたりしないさ」

誰にでもなく自分自身に言い聴かせるように、ぽつりと漏らした決意。

しかし八重の耳には届いており、彼女は疑問で小首を傾げた。

「……それって、どういう————」

八重の言葉はその先に続かなかった。

答えの代わりに深山の手が伸びて、八重の頭をくしゃりと撫でる。

「さぁね」

ひと言だけ残して、深山の背中は戦場に消えていく。

肩越しの微笑は、八重がこれまでに見たどの笑みよりも、凄絶な美しさと貴き強さを感じるものだった。

深山の不敵な横顔には、やはり見覚えがある。

幼かったあの春の日に『母親の故郷に咲く桜を見に行く』という、約束を交わした年上の少女。

彼女の長い髪と瞳はまるで宝石のようで、光を通すと青にも翠にも見えて美しかった。

花のように可憐な美しさを備えているのに、どうしてか時折……無邪気な『少年』にも見える不思議な少女は。

————やっぱり……

ずっと燻っていた疑問が解消されて、見上げた空は海よりもずっと澄んでいる。

本当は言われなくても、わかっていた。

はじめて出会ったあの日から、ずっと、ずっと。

「ずっと……こんな近くに、いてくれたんだね……『深山』」

幼いあの日に並んでみた、大島桜を思い返す。

本当に見たい景色とは違うはずなのに、こんなにも大切に持っていた。

————「いつか、私が。八重と一緒に、その桜をみる」

『深山』の幼い指は、いまよりもずっと細かった。

『深山』と離れ離れになったあの日から、期待は捨てたはずなのに、思い出だけは棄てられなくて。

約束された居場所を与えてくれるのは、あなただった。

だけど同時に……約束なんてなくてもあなたは、きっと。

わたしを捜してくれたでしょう。

こんなにも広い空のした、出逢わない運命の方が大きいはず。

『孤独』という運命に打ち負かされたわたしの側に、あなたたちは来てくれたの。

ずっと孤独だと嘆いていた。

わたしには側にいてくれるひとなんていないと、そう決めつけて、強がっていた。

だけど本当はこんなにも温もりを求めていて、『信じること』に怯えていて。

それでも小さくて頼りない掌には、確かに宝物が存在している。

風に揺れて涼やかな音を鳴らした簪は、まるで自分の存在を主張しているよう。

ここにはいない誰かの代わりに、温かく背中を押してくれているような気がした。

思い出も、絆も、約束も。

確かな形はなくて、だけど必ず散ってしまう。

それでも色褪せない感情が残されるから、絡ませた小指の分だけ……立ち上がる為の勇気をもらいたい。

掌に残っている桜色の簪を、八重は胸に抱きしめた。

渡せなかったたくさんの想いを込め、簪へ託すように祈り続ける。

「……だいすき」

ずっと裏切っていた薄桜のことを、許せるかどうか、憎いかどうか……まだわからない。

だけど彼女との時間で八重が得た感情は、嘘なんかじゃない……幻でもない。

彼女の総てが嘘かどうか、いまの八重には知りようもないものだけれど。

履き違えた『強さ』は棄てよう。

八重は立ち上がり、深山のために————名も知らない青年の為に舞台へ上がった。

鉛の足枷が嵌められたように重かった脚取りは、いまでは花弁のように軽やか。

籠から放たれた小鳥の気持ちは、こんな感じなのだろうか。

八重が手にした榊の葉擦れ、細やかな鈴の音に合わせた神楽笛と龍笛の調和、小鼓が与える衝動。

笙と篳篥の切ない主旋律に閑やかな箏が色を添え、蕾が花開くように拡がっていく。

潔き乙女が舞い踊る。

嫋やかに、女神のように、舞い降りた龍の激情さえも……慈愛に変えて。

戦場を駆け巡る猛々しい武士たちへ……離れていても存在を感じる彼へ、届け届けと願い続ける。

————《最上の戦巫女》は、己が立つべき戦場で戦う。

最後の一瞬まで儚く舞うのだと、懐に収めた簪へ誓った。


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