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宿命乙女4

明くる二日目の戦局から、小田原藩にとって苦い展開が続く。

雨でぬかるんでいた地面はすっかり固まり、反撃はこれからだと意気込んでいたにも関わらず。

戦が再開されて、数刻ばかり経った頃だった。

太陽は燦々と中天に差し掛かり、不快な暑さすら感じられる気候。

血臭に加えて汗の匂いが充満する戦場は、混乱をますます極めていた。

深山と同い年くらいの若い伝令係が、転がるように本陣へ現れて悲鳴に似た大声で叫ぶ。

「伝令!騎馬隊がっ……全滅しました!」

本陣に集まっていた一同が、その報告に息を詰まらせた。

よもや全滅とは……と、戦慣れした重鎮でさえ、早くも敗戦の色濃い空気を醸し出してしまう。

場の空気を少しでも和ませたいと思い立ち、深山は温かい茶の用意を始めた。

最前線で戦うことのない自分にできることは、そのくらいではないかと思うと、少し歯痒くもある。

息も絶え絶えの伝令係にも淹れたての茶を勧めて、気分を落ち着かせる努力をした。

此方が用意した本多陣営騎馬隊への対策は、『飛び道具攻め』。

予め土嚢で囲いを作った箇所に敵方を誘い込み、控えていた弓兵と鉄炮隊、そして鑓兵が馬を狙って無力化。別陣として用意した歩兵隊で、落馬して隙が生まれた敵兵を一網打尽にする。

これが成功すれば、本多騎馬隊という強靭な刃を削れるはずだった。

しかし。

「どうやら彼方には、余程に鼻の効く参謀がいるようですな」

誰かが冗談めかして、鼻で笑う。

此方の用意は彼処にそっくり見抜かれており、『仕掛け』は不発に終わった。

敵の騎馬隊は此方の誘いに乗じることなく、構えていた鑓兵も鉄炮隊も見事な肩透かしを食らった。

そればかりか、得意を活かして此方の騎馬隊を一網打尽にしてしまう、その豪胆。敵ながら天晴れ、なかなか侮れないものだ。

再び訪れた重苦しい空気のなかで、忠愨公が若き伝令兵へ向けて静かに訊ねる。

「足軽隊の様子はどうだ?」

落ち込む間もなく冷静に戦況を気にかけるあたり、やはり忠愨公も立派な将である。

だからだろうか。ここに来たときは一番に取り乱していた伝令係の青年も、幾らか落ち着きを取り戻してきたようだ。

「現状では持ち堪えていますが……かなり押されております」

冷静さを取り戻した伝令係から聞き及んだ戦況を踏まえ、本陣にいる将兵一同は再び思案を巡らせる。

この場にいる全員が、揃って眉根を寄せた。

どうすればここから持ち直し、かつ逆転への道筋を立てられるか。残された兵力でなにが可能で、なにが不可能か。

忠愨公の分厚い指が、机代わりにしている木板の上に広げていた将棋の駒を弄ぶ。

確実でなくていい。

しかし盤上を見事にひっくり返せるだけのその決め手、足掛かりになる一手が欲しい。

————馬将は堕ちた、歩兵は徐々に損耗を進めている。

公の指は駒をひとつだけ拾い上げた。

「香車は無事……か」

鑓兵、そして鉄炮隊で、果たしてどういった策が浮かぶか。

長さ六間の長鑓と、射距離十五間の一般的な火縄銃の威力を最大限に活かした戦法は。

此方が自信を持っている、足軽の力を存分に発揮させるには。

調子に乗っている敵方の騎馬隊を地に落とし、土俵を慣らす、その術。

此方側の地形はやや平坦で開けており、障害や掩蔽物となるものはない。

対して彼処側は林立する木々に、丘のように小さな山がたくさんある。

この差を逆手に取ることで、与えられた痛手を取り戻すほどの大打撃を与えたい。

「鈴木隊」

忠愨公が鈴木隊の将を務める男を呼ぶと、

「はっ」

威勢のいい返事とともに、これまた立派な甲冑を纏った体格のいい男が一歩前に出た。

鈴木隊といえば鑓の名手が率いる隊で、小田原藩内でも古参にあたる。

将の鈴木は直情的で喧嘩っ早くはあるが、部下に対して情に厚く、面倒見のいい人物。燃え盛る炎のような男だ。

その性格は鑓を扱う手によく出ていて、とにかく『先手必勝』とばかりに矢継ぎ早な攻撃を仕掛ける。繊細さは欠くが、怯む敵がいるのは確か。

それが吉と出るか凶と出るかは相手次第にもなるが、手数の多さには眼を見張るものがある。

「我が鈴木隊、必ずやこの戦況に変化をつけてみせましょう」

鈴木の頼もしい答えに忠愨公は「うむ」と満足そうに返事をした。

「それと石井隊も連れてゆけ。あ奴も腕を持て余しておろう」

深山がせっせと用意した茶を有り難そうに啜りながら、公は淀みなく追加の指示も飛ばした。

石井隊は遊撃隊のひとつとして控えさせていた歩兵だ。

将の石井は刀剣の類はもちろん、弓も鉄炮も自在に使い熟す器用な性分。

少数精鋭だからこその活躍が期待できよう。

「はっ!」

公からの命を受けて、鈴木が別で控えているはずの石井遊撃隊を呼びに走る。

この場において細かな指示を与えていないはずなのに、それぞれが勝利のためにどうすべきなのかを、しっかり頭に思い描いているようだ。

これで当分の指針は決まった。

本陣に集まっていた面々が、作戦のために各々の持ち場に戻っていくなか。

茶の用意を終えて手持ち無沙汰になった深山は、休憩中で舞台袖に控えている八重に尋ねた。

「八重、水でも飲むか?」

努めて明るく優しい声音で訊いた深山を、しかし突っぱねるように、八重の答えはひどく冷めたものだった。

「……いらない」

「一昨日からなにも口にしてないだろ。倒れるぞ?」

深山がそう警告するものの、どうも八重は反抗しているようだ。

目を合わせようともしないし、素直に聞き入れて水を手に取る素振りも見せない。

「…………」

ただただ無言で何処か遠くを見つめ続け、それでいて手のなかにある桜の簪に囚われているような……。

昨日と同じ紅白の巫女衣装に包まれた細い肢体は、尚のことか細くなり、いまにも折れそうで深山の方が気が気じゃない。

いまの八重の横顔に掛けるべき声が、伝えたい言葉が、深山には見当たらない。

どうしたら彼女の視線を此方に向けられるのか。

桜に囚われた八重の脚は、どうしたら解き放たれるのか。

空に舞い遊ぶ花弁を掴むよりもずっと難しい問題は、深山の心に鉛のように溜まって沈んでいく。

薄桜という存在の大きさを、やはり改めて感じてしまう。

彼女が間者でなければ。

例え間者であっても裏切ったりしないで、ずっと八重の側にいてくれたなら。

そんな今更どうしようもないことばかりが、ぐるぐると頭を支配していた。

深山たちの苦悩を他所に。

「おい、全然勝てそうにないじゃないか」

負傷して手当てを受けていたひとりの若い歩兵が、無遠慮な声量で騒ぎ出したのを皮切りに。

「《最上の戦巫女》が付いてるのにな」

「やっぱりあんな餓鬼に、そんな力があるわけないんじゃない?」

「ははは、確かにな」

若い兵たちの心ない雑談。

彼らにとっては戦で張り詰めた神経を弛緩させるための、軽い冗談なのかもしれない。だが。

軽い不満の矛先が八重に向かったことに憤りを感じた深山は、もう我慢ならんと勢いに任せて立ち上がる。

「っおい……」

一発だけでもぶん殴ってやりたい。その衝動は、しかし。

立ち上がった深山よりも先に、幽鬼じみた歩調の八重が歓談する兵たちの輪に乱入。当然のように兵たちの盛り上がっていた会話は途切れ、小さな闖入者を一斉に睥睨する。

「……八重?」

深山が声をかけても、八重は振り返ることもしない。

ただ無言で見下ろす八重のことを、兵たちは怪訝な顔で眺めていた。

なんだよこいつ、誰かどうにかしろよ、と仲間同士で視線を交わし合う。

「可哀想なひとたちね」

ようやく開いた八重の口から、その一言が静かについて出た。

「あ?」

なにが言いたいんだ、この餓鬼は。

そんな敵愾心たっぷりの視線を一心に浴びてなお、八重の不遜な態度は変わらない。

それどころか、深山から見て背中越しでも伝わるほどの、強い怒りが顕現しているかのように感じる。

「口先ばっかりで神頼みしかできない臆病者に、神の加護なんてあるわけないでしょ」

堂々と言い捨てた八重に対し、若き兵たちの堪忍袋の緒が爆発した。

「なっ……」

「んだとこの餓鬼っ!!」

小柄な少女に掴みかからん勢いで腰を上げ始めた青年兵たちをあしらおうと、深山も一歩前に出る。

だが八重の言葉は、いきり立つ武士数人を目の前にしても止まらなかった。

「不思議な力とか神風とか、そんなもん信じるだけ無駄って言ってんの」

「はぁ!?」

「お前、仮にも戦巫女だろ!」

やけに喧嘩腰の八重に対抗して、兵たちも冷静さを欠いて語気を荒らげる。

青年兵も悪いが、八重も彼らの怒りを煽るようなことばかり言って……どういうつもりなのか。

————もう、ここまでにしよう。

深山が双方に提案して、この場を平和に収めようと口を開きかけた————その刹那。

「戦巫女の舞の、本来の意味はね————武士たちの無事を『願う』ものなのよ」

八重の声を乗せたひと筋の風が、息苦しかった戦場に吹き渡った。

戦巫女の風習が始まったのは、いまより更に混沌極める戦国の時代からだと言い伝えられている。

本来は勝利祈願の祝詞に併せて、武士の無事を祈った戦巫女の舞を神に納めていた。

しかし、いつの頃からか。

戦巫女の舞は『勝利祈願』のためと、人々のあいだで刷り込まれてしまっていた。

上等な戦巫女が舞えば、戦で勝利を収めることができる、と。

そんな都合のいい話など、この世にあるはずがない。

戦わずして得られる勝利など、あり得ないのだから。

戦って、戦い抜いて。勝利する度に戦巫女の力を過信し、頼りにする。

もっと力のある戦巫女が欲しい。その為には、戦わねば。

時を経るにつれて戦の目的そのものが、『上等な戦巫女の確保』のために摩り替わってしまった。

乙女たちの切なる祈りも虚しく、彼らは不要な争いで傷つき果てる。

舞は荒んだ心を癒すことができても、傷ついたその身体までは及ばない。

そして立ちはだかる敵を退けることも、不可能だ。

「どんなに戦場の近くにいようとも、わたしたちに『戦う』力なんてない」

八重の言葉に先ほどの険は見られず、むしろ不思議と慈愛に満ちた柔らかさと、一縷の悲嘆すら感じられた。

戦のためよと家族との時間も、平和な日常も、年頃の少女らしさも。

花弁のように軽やかな《自由》というもの総てを理不尽に奪われ、戦場に身を投げる以外の選択肢はない、この地獄。

力のない少女たちを、果てなき牢獄から救う者は————いない。

戦巫女という運命に翻弄された、儚き乙女たちの悲痛。

————わたしたちは、いるのかもわからない『神さま』に祈ることしかできない……。

それは民草の平和を祈る博愛か、或いは己の願いの為か。

神よ仏よと、空虚な偶像に祈るしかできない無力。その怨みや憎しみ……自分ではどうにもできない不条理を抱いて。

乙女たちは舞い続ける。

総ての戦が終わる、その日まで。

物言わぬ桜のごとく、美しき花弁を散らせ。

「勝利は……あんたたちがその手で掴みなさい」

八重の言葉に、青年兵たちはなにも返すことができず押し黙る。

深山もまた、消え入りそうなほど細い八重の背中を、ただ見つめ続けることしかできなかった。

他者に結末を託すことしかできない、その痛みを伴うもどかしさ。

八重の心を深く抉る、そんな音が聴こえた気がした。

————あぁ、そうか……。

桜が満開のあの日、幼かった『深山』と八重が隣で並んでいた場所で。

彼女はいまでもまだ、囚われたままなのだから。

過去でも現在でも、雁字搦めで自由に宙を舞えない花弁。

八重のか細い背中からその現実を目の当たりにしたようで、深山の胸も針がら刺さったように痛みだした。

八重を縛りつける楔から解き放てるのは、きっと。

彼女が追い求め続けているであろう『深山』……高嶺だけなのだ。

祭りで拳を交わした農夫の言葉が、深山の脳裏に蘇る。

————「後悔しねぇように、大事な気持ちはその都度キッチリ口に出すもんだ」

そうだ、俺には……。

『深山』には————高嶺には、八重を『幼少の幻想』という楔から、解放してやる義務がある。

掌に囚われた花弁は、萎れて腐るだけ。

空に揺蕩い消失する刹那でこそ、その婉容さを発揮する。

八重なりの激励によって、青年兵たちの怒りは萎んでいったようだ。

むしろ興奮して突っかかったことを恥に感じたようで、ばつの悪そうな顔で仲間同士を見遣る。

深山も自分の出る幕がなかったことで、構えていた拳はすっかり行き場を無くしていた。

しかし改めて八重の背中を見て、深山のお節介や罪の意識が間違っていたことを悟る。

————八重、君は……こんなにも大きく強かったのか。

信じていた人から裏切られて泣き臥せっていた、あのか弱い少女と同一人物とは思えないくらいに。

いまの八重の背中は淡く儚くも、しかし威風堂々としたものだった。

『君を守る』なんて約束は……もしかしたら、とんだ思い上がりだったかもしれない。

だって君はこんなにも、強くしなやかで、目を見張るほどに真っ直ぐな《桜》。

どうにも抗いきれない運命や、ときに己の力に憂悶するときがたくさんあっても。決して手折れることなく蕾を開かせた。

たとえどんな天候でも枯れたりしない、永遠に光り咲き誇る『華』なのだから。

先ほどまでの淀みかけた空気は、もうすっかり消え失せた。

そればかりか。

彼らの表情は皆一様に、先刻よりも幾らか引き締まっているように見える。

あれだけいきり立っていた青年兵たちを、あっという間に諌めてしまった八重の言葉は。

深山だけではなく、この場にいる者たちの心に間違いなく響き渡っていた。

無事を祈ってくれる者の、確かな存在を感じた武士たち。

彼らの微かな不安や迷いさえも吹き飛ばした、八重という戦巫女の存在は、間違いなくこの戦場を支える一柱である。


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