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宿命乙女1

いつも賑やかだったはずの屋敷を、いまは静寂が強く支配している。

薄桜が毎日欠かさずぴかぴかに磨いて整えていた廊下を、いまは深山がたったひとりで掃除していた。

台所も土間も、湯殿も玄関先も。

屋敷の家事一切を、昨日から深山が一手に引き受けていた。

ようやくひと心地ついて、自分の仕事を目で確認。床にくすみや埃がないとわかると、ずっと曲げていた腰を軽く叩いて労わった。

春に初めて訪れたときから思っていたが、この屋敷はどうにも広すぎる。

しかしあの日より一層強く、広さを『淋しさ』として噛み締めていた。

いつも縁側でごろごろ過ごしているはずの八重の姿はない。

薄桜の正体が発覚した昨日からずっと、八重は自室に篭もりっきりだ。

喧しいくらいに楽しみにしていた食事も摂らないし、意外と綺麗好きなのに湯浴みもしない。

昨夜から障子越しに声をかけては食事を置いていくのだが、手をつけた様子は終ぞ見られなかった。

薄桜のような心配りができない、無骨な男である自分が憎たらしくて、もどかしい。

彼女だったらどうするか、彼女ならどんな声をかけてやるかと、考えてばかりだ。

————此処での生活、ぜんぶ……あの人に支えられていたんだな。

薄桜がいない痛みを痛感するも、今更になって考えても仕方のないことだと諦め、八重の部屋に向かった。

昨晩とは打って変わって、まるで八重の心を映しているかのように。

激しい雨が降り続いている。

「八重」

今度は障子を開けて中の様子を窺いつつ、食事を持って声をかけてみることにした。

飯の匂いに誘われて出てくるかもしれない、と期待してのことだったが、八重は微動だにしない。

「ちゃんと飯食わないと、体がもたないぞ」

盆に載せた握り飯と味噌汁を、文机の上にそっと置く。

昨晩と変わらず布団の中で丸くなっているようで、白い布団が月見団子のように丸まっていた。

その丸みに向けて一生懸命に声をかけてみるが、なんの返事もない。

「昨日は一回も湯浴みしなかったろ。いま用意するから、湯殿に来いよ」

昨日の昼間は祭りに出ていたし、昨晩は篭りきり。

流石に飛びつくかと思ったが、やはり返事はない。団子は身じろぎもしないし、相変わらずうんともすんとも言わない。

深山もすっかり弱りきり、ため息と一緒に妥協した。

「……湯浴みはべつにいいから、飯だけでも」

深山の言葉の途中で、不意打ちに枕が投げつけられた。

蕎麦殻の枕はすっかり油断していた深山の腹に思い切り当たり、ちょっとした痛みと苦しみを与える。

「いった……お前っ」

「————んで……」

腹に力が入っていないようで、八重の声はいつもよりも聴き取りづらい。

「なに?」

訊き返した途端に、八重は鋭利な声を発した。

「なんでわたしに構うのよ?」

感情に任せた勢いで布団から出てきた八重の姿を、深山は久しぶりに見た気がした。

薄桜が毎朝、丁寧に櫛解いてくれていた長い栗色の髪はすっかり乱れ、目の下には濃い隈がある。

一睡もしていないと一目瞭然の、荒れ具合だった。

「なんでって……」

深山の言葉の濁りを否定的に捉えた八重は、さらに攻撃的に声を荒げた。

「あんたもいつか、裏切るんでしょ!?わたしの側を離れて……どっか行っちゃうんでしょ!!」

そう言って深山の腹を力任せに押すその手には、薄桜に渡そうとしていた桜の簪が握られていた。

深山を部屋から立ち退かせようと……拒絶しようとしている。

信じていた人が離れる悲しみを、もう味わいたくない。だから信じることを、やめたい。

その感情があまりにも痛々しくて、深山も抵抗することができなかった。

荒々しく障子を閉じられたものの、このまま放っておきたくない。

しかし。

「もう……やだぁ……っ!」

八重の泣き声が漏れてきて、障子に掛けた手は止まった。

掛けるべき言葉もわからない、どうしてやるのが八重のためになるのか。

深山にはわからなくて、なにもできない無力な自分が悔しくて、唇を噛んだ。

「…………っ」

雨は一段と激しさを増して、一向に止む気配はない。

どうしたら雨が止むのか考えても、すべて無駄だと言われているような気がして、無性に腹が立った。

与えるのは傘か、紫陽花か。

手折れる彼女を打ち付ける雨を、止める術は見つからないまま。

明日の作戦会議と準備に呼ばれて、深山はひとりで城を訪れた。

戦を明日に控えている城内は、いつもの穏やかな雰囲気はちっとも感じられないくらいにとても慌ただしい。

あの剣豪瀬戸でさえも自ら率先して指揮に動き、忙しくしていた。

「八重ちゃんの具合はどうだ?」

大久保忠愨公が、落ち着きのある声で訊ねた。

作戦会議を終えてすぐのこと。

忠愨公が深山を天守閣に誘って、いつものように茶を淹れてくれ、しばらく経った頃だった。

昨晩起きた出来事すべての成り行きを知る公なりに、精一杯に気を遣ってくれているのだろう。

公以外の誰にも詳細を語れなかったのも、深山にとっては重荷になっていたようで、ようやく口を開くことができた。

「部屋から出ようとしません。今日も……あいつの安全を考えたら、無理矢理にでも連れて行くべきなのですが」

「うぬの代わりにはなり切れんが、密かに見張りをつけている。なにかあれば、彼らが対応するだろう」

本来であれば守護役が戦巫女から目を離すなど、職務放棄と捉えられても致し方のない行為だ。

彼女たちを狙う輩はごまんといるし、ましてや八重は《最上の戦巫女》と天下に名高い存在。

深山が離れた隙を突いて八重が奪われることなど、戦の前にあってはならない。

しかし忠愨公は深山を決して責めることなく、それとなく心強い援助さえしてくれていたとは。

「お心遣い、痛み入ります」

深山はいつも以上に、深く頭を下げた。

主人の優しさが心に染み入り、目頭に熱いものがこみ上げる。

これ以上の心配は掛けさせまい。明日の戦でこの御恩をお返しするべく、これまで以上に良い働きをしたい。

そう心を改めた矢先に。

「明日の戦……うぬらは休め」

「!?なにをおっしゃるのですか!」

主人の信じがたい提案に、深山はほとんど初めて意見した。

「八重は小田原藩きっての戦巫女……どのような理由があれど、大事な戦に顔を見せぬのは戦巫女の恥です!」

戦巫女の質こそが、戦局を、或いは國の盛衰を大きく左右する————とまで伝説されるほどに、彼女たちの存在は重要なものだ。

ましてや今回の敵は、あの因縁の政敵本多陣営。

大久保家……ひいては小田原藩全体にとって、もっとも重要かつ負けられない、逃げられない戦である。

だからこそ今日まで《最上の戦巫女》八重を、水面下で奪い合いしていたのだ。

そして今日まで八重を守り通すことができたのだからこそ、戦には彼女なしで臨むことは有り得ない。

八重を出さないという決断は、瀬戸の計らいで持ち直した重鎮たちからの信頼を、今度こそ失ってしまうかもしれない。

「深山」

そんなことはさせない、といきり立つ深山を諌めるような公の声。

立ち上がりかけた深山の膝に、忠愨公は喝を入れた。

「儂は彼女らに、『心のない人形』に慣れてほしうない」

「亡き父上には『うつけ者』と、散々に嘲弄されたがの」と、亡き父を思い出しているのか、父に理解されなかった当時のつらさを思い出しているのか。

公はいつもの快活さに似合わない、もの悲しそうな笑みを浮かべていた。

「儂は八重ちゃんの元気な舞で、励まされたい……その気持ちは、やはり変わらぬよ」

「殿……」

主人はいつだって、八重を物扱いなどしなかった。

いつでも彼女の『心』を気遣って、できる限りで自由を与え、守ってやろうとさえしていた。

ほかの藩主、武士にはない人としての思い遣りが、当然のようにあるお人。

だからこそ深山は、彼に付いていこうと決めたのだ。

八重と深山を戦に出さぬという、その決意と覚悟を、どうして深山が汲み取って差し上げられなかったのか。

自分の短絡さと愚かさを恥じて、主人への忠誠を改めて誓った。

深山の気持ちを鋭く察して、忠愨公は新しく茶を淹れて黙って差し出してくれた。

湯呑みを差し出したのを皮切りに、話を次に持っていく。

「深山、うぬには話しておこう。薄桜と、その主人の話だ」

「!」

ここのところ戦の準備に追われて暇などなかったはずなのに、公は素早く根回しして独自に情報を得ていたようだ。

深山の知らない薄桜の真の姿が、紐解かれていく。

『薄桜』という名は彼女の本名ではなく、かといってほかに名前があるわけではない。

彼女は本多陣営に与する間者で、幼い頃から仕込まれていたようだ。

本当の彼女は冷酷で無慈悲な性格で、かつて親友だった少女を裏切ってまで、いまの立場に落ち着いた。

名前もなく、心さえない殺人人形。

それが彼女の本性。

城を出てからも、公から聴かされた話が深山の脳裏で反芻されている。

公の推測では、おそらく彼女も戦になんらかの形で関与するだろう。

それだけの実力があるのは、刀を交えた深山には納得できる理屈である。

公は戦の場に彼女が出るならば、迷うことなく殺すと深山に告げた。

————「ですが彼女は……っ!」

記憶のなかの深山は、やはり躊躇っていた。

薄桜と八重の三人で過ごした時間は短いけれど、深山にとっては穏やかで宝物のような日々だった。

八重は彼女を母のように、姉のように大切に想っていた。

その気持ちが、記憶が、深山の『薄桜』に対する殺意を鈍らせていたこと。忠愨公は鋭く見抜いていた。

だからこそ彼の意志を試すように、深山に更なる罪深い真実を明かす。

「うぬの姉を殺した相手、でもか?」

「……!」

忠愨公が調べた情報のなかには、深山の過去に関わるものも混ざっていた。

幼い彼女が主人の命に従い、彼の姉である本物の『深山』と義父母を殺したこと。

深山————高嶺が討つべき姉の仇が、薄桜だったという真実が厳しく突き刺さる。

————「それでもうぬは、『薄桜』の味方でいられるか?」

これまで見たことのない忠愨公の厳しい表情と声が、空を揺蕩いながら雨音に掻き消された。

八重を苦しめた裏切り者の薄桜と、八重の淋しい心を救っていた薄桜。

どちらを信じるべきなのか。

姉を殺した薄桜のことを、本当に憎むべきなのか。

彼女がくれた優しい気持ちは、偽物だと割り切ってもいいのか。

なにが正しくて、どれが過ちなのか。

「そんなの……わからない……」

深山の呟きは虚空に消えて、その心は誰も知らない。

雨は冷たく降り注ぎ、深山の心を曇らせる。

八重の隣で淡い色の桜みたいに微笑んでいた『彼女』は、果たして本当に偽物だったのだろうか。


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