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異心乙女3

祭りの当日は、嬉しいことに見事な快晴。

たった一日のために小田原を訪れる人の数は最高潮に達し、準備期間より一段と賑やかさが増していた。

「それにしても残念ね」

屋敷を出てすぐに、八重が心からのため息を吐き出した。

これから出店が並ぶ大通りに出ようとしているが、そこにいつもならいるはずの薄桜の姿がない。

どうも古くからの友人が祭りに来るらしく、その案内に出たいからと、昨夜のうちに暇を申し出て来たのだ。

「仕方ないさ。薄桜さんにだって、用事はあるんだから」

そう言って八重を宥める深山も、実を言えば薄桜がこの景色にいない、その違和感を抱かずにはいられなかった。

薄桜とはこの春に出会ったばかりなのに、いつのまにか三人一緒でないと変に感じるなんて……。

再会したばかりの頃から喧嘩ばかりの深山と八重の仲裁に入って、場を明るくしてくれるのは、いつだって薄桜だった。

家族もいなくて友達ができない八重にとっては母であり、姉であり、唯一の友人だ。

同僚ともいうべき深山にとっても、ほとんど唯一といってもいい同年代の友人みたいに接してくれる貴重な存在。

普段は気づかなかったが、本人がいないところでその有り難みと大切さを噛みしめる。

「薄桜と一緒に、出店回りたかったのに……」

初めての祭りだからこそ、薄桜も一緒だったら嬉しさが高まったはずだ。

そう思って期待したから現状に不満を持つ八重の心情も、深山はよくわかっているつもりだ。

深山だってほんの少し、ふたりだけでは物足りないと思っている。

薄桜と、あの騒がしい隠者の姿がある光景が、いつのまにか『当たり前』になっていたなんて。

「はいはい、俺と一緒じゃ不満なのな」

ちょっと唇を尖らせて、つまらなさそうに文句っぽく言う深山。

薄桜だけじゃなくて、俺のことも少しは大切に想ってくれよ……とは子供っぽくて言えないけれど。

それでも一緒にいるときにちょっとは楽しそうにしてほしい、それが男心というもの。

深山の言に反応して隣を歩く八重は予想通り、肩を怒らせて風を切っている。

「べ……っ」

『「べつにアンタなんかいてもいなくても一緒なんだからね、ばーかばーか!」』

とでも言うつもりか、と軽く身構えた。

深山に対する八重の悪態は、最近では減った気がするが珍しいことではない。

さて、なんて言い返してやろうか。どうやって揶揄ってやろうか。この一瞬に頭を回転させる。

せっかく祭りに来てるのだから、あまり激しい言い合いにはしたくないが、深山も大概に素直じゃない質らしい。

ところが。

「べつに不満じゃないけど!」

「!?」

あまりにも予想の斜めをいく返答。

深山の足は歩みを鈍らせ、間抜けにも口を半分開けて呆けてしまう。

彼女がどういう気持ちから口にした言葉なのか、深山のなかではまだ噛み砕けていない。

深山から見えた八重の頬は紅く染まり、口調もいつも通りに少し乱暴だ。

しかし普段と違って怒っているわけではない様子に感じられて、それどころか不意に振り返ったその顔は————

穏やかで艶っぽく、はにかんでいた。

これまで見たことのない八重の表情に戸惑い、緊張すら覚える。

心臓の高鳴りは激しさを増し、森羅万象なによりも美しくて気高い女神を拝んでいるような、そんな気分だ。

「あ……あれなに!?行ってみましょ!」

少し恥ずかしそうに、慌てて先を走る八重の後ろ姿を、深山はしばらく見送る。

たまにはふたりっきりなのも、いいかもしれない……なんて。

先ほど感じた物足りなさを早くも忘れて、密かに笑顔を浮かべた。

————って、やべ。

守るべき戦巫女から離れるなんて、守護役失格だ。

我に返って慌てて追いかけて、ふたりの初めての祭りが始まった。

最初に団子を買い食いして、かき氷なる珍しいものを食べて、寿司や汁粉に唆られて、お面で遊んで。

八重にとって初めての祭りは見るものすべてが新鮮で、興味深い光景だった。

深山にとってもまた、聞きかじっていたことを経験できて、非常に楽しい時間だ。

たくさんの出店を回ったが、祭りの趣旨であり目玉の保食神役が表に出るまで、まだ時間がある。

次にどこを回ろうか相談しながら歩いていた、そのときだった。

「そこの美人なお侍さん!どうです、ちょっとした腕試しに!」

と活きのよさそうな男から声をかけられて、ふたり揃って催し物に目を向ける。

催し物はどうやら腕相撲大会で、屈強そうな男たちが今日ばかりは身分に関係なく競っているようだ。

「え……?いや、俺は」

「深山、深山!!」

いくら腕に自信はあっても、藩士が不用意に出て場を乱すのは如何なものか、と不参加を表明しようとしたところ。

八重が興奮気味な声で遮り、深山の着物の袖をぐいぐいと引っ張りだした。

「なんだよ八重」

「あれ!景品!」

「なに……」

興奮で言葉少なな八重が指し示すままに視線を移すと、大会の舞台上に『豪華景品』と称して化粧箱に入った簪が飾られていた。

薄く儚い桜色、控えめな装飾のそれは、小田原でも一番の職人が手掛けた最高級な一品……という謳い文句。

きっと艶やかな黒髪によく似合うだろう。

「欲しいのか?」

八重は儀式用から常用に豊富な種類の簪を持っていて、その日の気分に合わせて使っている。しかしあの簪は、彼女の趣味に合わないような気がした。

明確な答えの代わりに、八重は微笑んで言う。

「薄桜に似合いそうじゃない?」

屋敷の家事一切を担って忙しくしていても、手入れが行き届いて艶めいている薄桜の黒髪を、深山も思い出して頷いた。

「確かに」

彼女があの簪を挿す姿を想像すると、なるほどよく似合う。

そういえば薄桜がああいった装飾品を身につけている姿を、見かけたことがない。奉公している小物とはいえ、女性なら簪の一本くらいは挿している人も珍しくないのに。

薄桜には日頃からお世話になっている。

お土産になにか簪の一本でも見てみるか、と思い立った深山に、八重はさらっととんでもない頼みごとをした。

「もらってきてよ」

「……つまり、優勝しろと?」

八重は間髪入れず、首を縦にこくこく振りかぶる。

参加者の列を眺めると皆が筋骨隆々で、屈強でいかにも腕に自信がある男ばかり。

深山も毎日欠かさず鍛えているから腕に自信がないわけではないが、正直に吐けばあの連中を押し退けて優勝まで行き着ける自信はない。

優勝の前に、腕をへし折られる気さえする。

それでもなぜか、八重は深山の勝利を固く信じ、期待しているようだ。

栗鼠に似た栗色の丸い瞳が一心にきらきら輝いて、真っ直ぐ深山を見つめている。

————そんな目で見られちゃ……引き退がれるわけないよな。

「わかったよ」

八重の手を引き、深山は人垣を分けて舞台へ進む。

再会を果たしたあの頃なら、こんなにも頑なで無条件に信用されただろうか。

そんなささやかな喜びも、深山の気持ちを後押しする。

深山が八重とともに堂々と舞台へ上がった途端、観客の声が一層に大きく湧いた。

「お、殿様んとこの深山くんじゃねぇか!」

「なに?ちょっくら見届けていくか!」

「ずいぶん華奢できれーな兄ちゃんだな、大丈夫かよ?」

「生っ白い腕が折れちまわないかね?」

「きゃあああああ深山さまよ!!!!!」

「特等席で見なきゃ!男共は散りな!」

深山を知る地元の者は好意的な歓声をあげ、彼を知らぬ外野はその華奢でやわそうな外見だけで嘲笑う。

参加者の男たちでさえ、深山の実力を疑っているようだ。

深山が腕相撲大会に参加する噂が波及したらしく、地元の観客がどんどん増えていく。

噂を聴きつけて集まった老若男女の町人たちが、思い思いに叫んだ。

「頑張れー深山の兄ちゃん!」

「ぶちかませ!」

「深山さまぁぁぁぁぁ!!!!」

「むっ」

男性陣の野太い声援と、女性陣の黄色い声援を同時に受けて、苦笑いで返す深山。満更でもなさそうに照れているような、緊張しているような表情だ。

それを壇上から見た八重があからさまに面白くない顔をして、頬を焼き餅のように膨らませている。

————なによ……深山のくせに、デレデレしちゃってさ!

「深山!!!!ぜっったい勝ちなさいよ!!負けたら承知しないんだからね!」

ほかの観客に負けないような大声で乱暴に叱咤激励すると、深山が振り向いて不敵に笑った。

憎たらしい表情のはずなのに妙に安心し、彼の勝利を強く確信できる。

やがて参加者の募集は締め切られ、いよいよ大会が幕を開けた。

試合方式は勝ち残り式で、主催者が即席のあみだくじで無作為に決めた相手と戦う。

深山と最初に当たった男は流浪人で、簪を金に変えて旅費にするんだと息巻いていた。

しかし深山があっさり勝利し、流浪人は敗退。

そこから深山の圧倒的な快進撃は続き、深山に懐疑的な視線を浴びせていた観客でさえ、彼を応援するまでに盛り上がっていた。

「さっすが小田原藩士さんだな、深山の兄ちゃん。だが俺は……あの簪を嫁さんにあげたい!」

そう威勢のいい雄叫びをあげたのは、決勝戦で深山と当たる地元の農夫だった。

深山たちとよく世間話をする仲の農夫は、気風がいい評判の男だ。

その男と祭りとはいえ真剣勝負ができるとは、いい巡り合わせというのは、きっとこのことだろう。

決勝戦ということもあり、舞台上の空気に緊張感が増した。

「俺だって……負けられませんよ」

勇み肌の深山をちょっとした悪戯心で揶揄うように、農夫がちょっと不器用に片目を瞑って笑った。

「お嬢ちゃんにいいトコ見せたいもんな?」

「ちがっ……あいつは関係ないです!」

大慌てで力いっぱいに否定する深山だが、農夫には隠された本心がまるっとお見通しのようだ。

深山の年相応な青さに親心と似たものを感じた農夫は、豪快に笑い始めた。

「はっはっ!兄ちゃんも男だもんな!」

「だから関係ないんですって!」

八重に聴かれていたら、穴を掘って埋まりたい……!

そう危惧して舞台の端に控える八重の姿を横目で捉えるが、おそらく歓声で聴こえていないのだろう。これから始まる決戦に備えて、微動だにせず拳を作って観戦している。

審判の合図で農夫の丸太のように逞しい腕と腕を組んで、互いに牽制するように睨み合い、火花を散らす。

「兄ちゃん。男はなんでも正直に生きるのが、いっちばん男前な生き方なんだぜ?」

審判の威勢がいい「のこった!」の直前に、農夫は言った。

真意を訊ねる前に農夫の腕に力が入り、深山の腕をひと息に押し倒してやろうと踏ん張り始める。

それに負けじと深山も踏ん張りを効かせ、互いに一歩も譲らない展開が続いた。

どちらが倒れてもおかしくない、緊迫感のある戦いだ。

壇上の八重を含めた観客だけでなく、審判でさえも息を呑む。

深山が押し込まれそうになれば押し返し、農夫が倒されそうなら負けじと押し返す。

これまでの戦いが前座なのではないかと思わせるほど、この決勝戦は怒涛の展開を繰り広げる。

しかしその押し合いも、とうとう終幕を迎えた。

深山の腕から力が引くのを感じて、農夫は好機と捉えて攻めに転じる。

これまで温存していた力のすべてを注ぎ、決着を付けるつもりでいた。————だが、それは罠。

農夫が力を入れるために大きく息を吸い込んだその隙を突いて、深山の方が一足早く腕に全力を込める。

「うおっ!?」

農夫のひっくり返った声とともに、決着が付いた。

会場は静寂に包まれる。

目を離さず見守っていたはずの審判も観客も、展開に頭が追いついていないようだ。

やがて割れんばかりの歓声が、一気に押し寄せた。

深山への黄色い歓声、男たちからの称賛の声。

会場がひとつになったような、拍手の嵐が巻き起こる。

開始よりもずっと増えていた観客が見守るなかで、深山と農夫は互いの健闘を称えあって握手を交わす。

「『男は背中で語れ』なんてよく言うけどな、嫁さんにゃあちっとも伝わんねぇよ」

試合前に口にした言葉の真意を、農夫は語る。

伝える言葉が少ないせいで勘違いや誤解が生まれ、長年連れ添った夫婦であってもすれ違う気持ち。

「後悔しねぇように、大事な気持ちはその都度キッチリ口に出すもんだ」

またしても不器用に片目を瞑って、茶目っ気たっぷりで笑う農夫に言われた言葉を、深山は心で反芻させる。

農夫は深山と八重がどんな関係かまで、内情を深く知らないはずだ。

だがその核心を突いた教えに、深く納得する。

「……そう、ですね」

舞台の上で深山の勝利にはしゃぐ八重は、いつもよりずっと素直で可愛らしかった。

まるで昔に戻ったみたいに、深山へ屈託のない笑顔を向けてくれる。

そんな彼女を愛おしく想う気持ちと、真実を告げずにいる罪悪感。

「ちゃんと言います」

どんなに激しく責められても、嫌われても。

自分が抱えている想いのすべてを、誠実に伝えよう。

八重のためと言いながら、嫌われることを恐れて言えなかったことを、ぜんぶ。

思い出に浸っているだけじゃ、だめなんだ。

いまの八重と真摯に向き合うことこそが、正しいことなんだ。

腕相撲大会の景品を無事に受け取って、祭り周回を再開させた深山と八重。

まだ見ていない出店を冷やかしたり、目玉の保食神役が食事する儀式を見学したりと、充実していた。

しかしその途中で、急な雨が襲いかかる。

観光客や出店している人びとは皆、大慌てで雨を避けるように散っていった。

深山は八重の手を引いて、すぐ近くにある小さな神社の軒下を借りる。

祭りの主催である神社とは違い、小さな規模の神社だからか、人の気配はなかった。

「お祭り……中止かしら?」

雨ですっかりしょぼくれて、落ちる雨粒をひとつひとつ恨めしそうに睨む八重を安心させるように、深山は努めて優しい声で答えた。

「通り雨だろうから、すぐに再開できるさ」

五月にしては冷たくて激しい雨脚は、じっと眺めていても止まりそうにない。

隣で身を縮める八重を見遣れば、雨に濡れた寒さで体を小刻みに震わせ、小さなくしゃみもしている。

「このままじゃ風邪引いちまうな」

そう呟いて、深山は自分が着ていた薄手の上着を脱ぎ、八重に差し出した。

「ほら」

「べ、べつに平気よ!これくらっぷしゅ!」

「濡れてるから意味ないかもしれないが、着ておけ」

さすがに寒さがこたえるようで、八重は青っ洟を垂らしながら深山の上着を素直に受け取り、肩に羽織った。

確かに雨で濡れてはいるものの、直前まで羽織っていた深山の体温が残っていて、じんわりと温かく感じる。

「あんたは寒くないの?」

「毎日鍛えてるんだ、なんともない」

そう言って腕を組む深山の体は、確かに震えている様子は見られない。

雨空を見上げる深山の横顔を密かに覗き、長い睫毛に雨粒が載っている様子を、無意味に眺めていた。

不意に目が合い、恥ずかしくなって顔を背ける。

「……ありがと」

ぼそぼそと聴こえた八重からのお礼に、深山も「あぁ」なんてわざと素っ気ない返事をする。

すぐ隣にいるはずなのに、互いに恥ずかしさからそっぽを向くという、妙な光景が出来上がった。

互いに互いの目を盗み、相手の様子を窺い合う攻防戦。

視線を感じれば必死で素知らぬふり、目線が外れた気がしたら反対にこっそり見つめる。

なにかお喋りしようにも、緊張で話題がなにも浮かばない。

いつもどうやって喋っていたんだっけとか、どんな話題だったら盛り上がるかとか、普段は気にしていなかったことばかり気になる。

頭がぐるぐる堂々巡り。

ふたり同時に、顔が赤くなっているような気がして、恥ずかしさが増した。

必死で衝動的な想いを掻き消そうと、深山は無心になるために心で念仏を唱える。

————顔が赤いこと、気づかれちゃったかな?

と八重がそっと横目で深山の様子を窺うと、彼の懐から小さな紙包みが覗いている姿が目に入る。

「それ、なに?」

八重が訊ねると、深山は自分の懐に目を遣って呟いた。

「……あぁ、買っておいたのに忘れてた」

「雨で湿気てなきゃいいんだが……」と心配そうに言いながら取り出し、包みを開封して八重に見せる。

中身は色鮮やかな細長い紙縒が十二本ずつ、いくつかの束になっていた。

「なんなの、この紙縒」

怪訝な顔でまた訊ねると、深山が苦笑して答えた。

「手持ち用の花火だよ」

「花火!?」

途端に八重の表情が一気に華やぎ、深山もなんだか安堵する。

やはり八重は、花火を見たことがないらしい。

この喜びようを見るに、用意して正解だったようだ。

「線香花火しか売ってなかったんだけどな」

そう言いながら花火が濡れていないかどうか確かめてから、うちの一本を八重に差し出した。

八重の顔はこれまでになく驚いて、無邪気な子供のように綻ばせている。

「やっていいの!?」

訊ねる八重は花火をまるで宝物のように大切に手で包み、瞳はきらきらと輝いていた。

八重の顔には『早くやりたい』と書いてあるように見えて、その正直さと純粋さに深山は思わず苦笑。

「そのために買ったんだ、好きにしてくれ」

深山の許しを得た八重は飛ぶように立ち上がり、どう遊べばいいのかと思案に首を捻りながら、花火を弄り回し始めた。

しかし初めて目にする花火の扱い方は、まったく見当もつかないようで、

「深山も早く!」

などと手招きし始めた。

「落ち着け。まずは火元の確保をしないと」

八重に呼ばれた深山もようやく立ち上がり、花火と一緒に用意していた蝋燭と火打ち石を取り出して、火の用意をしてやる。

雨は小降りに変わっていて、やがて止みそうな模様だ。

もうしばらく神社の軒下をお借りします、と見えない神さまにお願いして、ふたりで線香花火を楽しむことにした。

火薬が詰まった紙縒の先っぽに火を灯すと、ぱちぱちと小さな音と共に、ささやかな火花が散り始める。

小さいながらも綺麗な円状に形作られ、儚い光を生み出す線香花火。

ふと地面を通る蟻を見つけた八重が、

「蟻からみたら、大きな花火に見えるのかしら?」

なんて子供みたいな想像を口にするから、深山もちょっと想像してから笑い、「そうかもな」と同意した。

火の玉が落ちてしまうと八重が名残惜しそうにするから、すかさず次の紙縒を手渡し、八重が火を灯してまた火花を眺める。

「深山はやんないの?」

誘われるものの、花火を見たことのない八重のために買ったのであって、深山自身は花火にさしたる興味があるわけではない。

「俺は眺めるだけでいいよ」

深山が遠慮しても、八重が特に勧めることはなく。

「ふーん……」

と八重が呟いたあとはただ黙って、ふたりで線香花火の光に注目していた。

次第に小さくなっていく雨音と、その雨を受け止めた青葉が重みで揺れる音、線香花火の弾ける音だけが空間を支配する。

祭り会場からそう離れていないはずなのに、人の気配を感じられなくなり、まるでこの神社だけが世界から切り取られたような静寂。

なにか会話しなきゃ、といった緊張感や焦りは互いにもう自然消滅していた。

少し手を伸ばせば届く距離にいる、それだけでこんなにも嬉しい。

この穏やかな時間を幸せに感じ、ずっと続けばいいのに、と。

消えゆく線香花火に祈っては、また新しく火を灯す。

互いが思っていることなんか読めないはずなのに、同じ気持ちなんだと空気で感じた。

心地のいい静寂。

雨が上がっていることなんか、とっくに気づいている。

もう少し、あと少しだけ————願うたびに花火を灯し、優しい時間を求めていく。

しかし花火は底を尽きてしまい、名残惜しそうにのろのろと片付けを始めた。

雨はすっかり上がり、晴れ間とともに遠くで見事な虹が出ている。

大会で農夫に後押しされたあの気持ちを、いま伝えるべきだ。

深山は決心し、雨上がりの匂いをいっぱいに吸い込んで、口を開いたとき。

「「あの」」

偶然にも八重の声と重なり、気まずい沈黙が生まれた。

互いに譲ろうとする雰囲気が見えてきたので、

「八重からどうぞ」

と八重に先を譲り、後片付けもそこそこに、深山は再び軒下の段差をお借りして座り込んだ。じっと待って、八重の話を聴く態勢に入る。

八重も深山に倣って座ってしばらくの間、自分の膝頭と睨めっこしてから口を開いた。

「花火のお礼……まだ、言ってなかったから」

雨が上がったことで祭りが再開したのか、人びとの喧騒が聴こえてくる。

祭り囃子や御神輿の威勢がいい掛け声、出店の客引き、子供が元気にはしゃぐ声。それらすべての音が、別の世界みたいに遠のいていく。

夢を見ているみたいに、深山には八重の姿、八重には深山の姿しか目に映らない。

「ありがと。すごい嬉しい」

照れながらも素直に微笑む八重の頬は、触ったら蕩けそうなくらい温かくて柔らかそうな紅色が差していた。

普段の少女らしい可愛らしさではなく、どこか艶を帯びた表情。

八重の拙いたったひと言が、世界を構成するいろいろな音よりも、ずっと大きく響いて耳に残る。

「今度はもっと、派手なのを用意するよ」

夏の季節にならないと、やはり売っている花火の種類は少ないものだ。線香花火も風流だが、どうにもしっとりしすぎて物足りなさを感じる。

深山が請けあうと、八重は肩をすくめて困ったように笑った。

「そうね。正直、想像していたのと違ったわ」

「たぶん八重が想像してるのは、手持ちじゃなくて打ち上げだと思うぞ」

祭りで使われる花火といえば華々しさ満点の尺玉で、おそらく八重が想像していたのはそちらだろう。

しかし打ち上げる前の状態は、知識にないようだ。

「どう違うの?」

「今日みたいに、自分たちで火を着けて楽しめるやつじゃない」

「なんだ、つまんないの」

先ほど彼女に感じた『艶』は何処へやら。

子供みたいに拗ねた声で、後片付けを再開させる八重の腕を————深山の手が握った。

「八重」

名を呼ぶ深山の声はいつもより低く、しかし快晴の空のように限りなく澄み切って八重の耳に届く。

深山の腕に引っ張られ、吸い込まれるように寄せ合う肩と肩。

これまで冗談めかして接近したときよりも、ずっと大きな緊張が押し寄せた。

深山の緊張が八重に伝播して、八重の緊張が深山に伝わり。

心臓の鼓動が深山のものなのか、八重のものなのか曖昧になり、溶け合うように重なっていく。

「なによ……急に真面目な顔しちゃって」

いつもの冗談なんかじゃない、八重にも痛いくらいに伝わった。

八重の腕に伝わる深山の熱があがった。彼は無意識だろうが、手に力がこもって震えている。

言葉に出しづらそうに唇を歪め、申し訳なさそうに瞳を伏せた。

深山がこれから伝えようとしてることに、八重は思い当たることがある。

————もしかして。

「俺……お前に隠してることが……」

ようやっと開いた深山の唇を、しかし八重の人差し指が優しく塞いだ。

「!」

「いまは言わないで」

びっくりするくらいに美しい微笑みに、深山は今度こそ言葉を失う。

年下の少女だと忘れてしまいそうなくらいに神々しく、海よりも深い慈愛に満ちていた。

八重のその微笑が意味するところ、その真意は深山に測りかねる。

深山がなにか口にしようと考えるその前に、八重の方が先んじて口を開いた。

「ほら、戦はもう明後日よ?いまきいちゃったら、気持ちが弱っちゃう」

「う……うーん、まぁ?」

————そういうもの、なのか?

やや疑問に思いながらも、この場は同意して彼女の言う通りにしておくことにした。

なにより八重の少し困ったように曇ってきた瞳を、これ以上曇らせたくない。

「終わったら、ちゃんと……きくから」

そう言って八重は、右手の小指を突き出した。

「約束よ」

幼かったあの頃みたいに、彼女は花のように微笑んでいる。

だけどあの頃とは、『なにか』が決定的に違う。

八重が差し出す小指に、深山も小指を絡ませた。

「————あぁ、わかったよ」

最近の八重には時折、とんでもなく驚かされるときがある。

普段は我儘で子供っぽい『少女』そのものなのに、ふとした瞬間には大人よりも『艶』を感じた。

あの頃は蕾だった花がいつのまにか、こんなにも美しく咲き誇っていたようだ。

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