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約束乙女1

 穏やかな川面が見える土手。

 空は淡く柔らかく透き通り、芽吹いたばかりの大犬の陰嚢が地面いっぱいに埋め尽くしている。視界いっぱいの海碧と葉の瑞々しい緑に、鮮やかな黄色の蒲公英がまた目に眩しくて暖かさを感じた。

 寒さの厳しい冬が終わり、色彩豊かな景色が目を潤す花見月。


 紅、金、朱色。純白の絹。

 花にも負けず劣らず煌びやかな衣装に包まれた少女二人は、一本の大きな桜の木の前に並んで佇んでいた。

 年月を感じさせる立派に太い幹、強い生命力を感じるほどに伸び伸びと広く繁った枝。

 しかし対照的に繊細そうな薄紅色の花は温かな陽光のもとで、嫋やかで穏やかに、そして可憐に咲き誇っている。

 その枝では可愛らしい鶯が羽を休めていて、時折健やかな音色を奏でていた。

 桜だけではない。様々な花の強く瑞々しい芳香が辺りを包み込み、深呼吸をひとつすれば甘く蕩けてしまいそうだ。

 先ほどまで激しい戦場だったとは思えないほどに、穏やかな空間。

 ここから歩いてすぐの場所が味方の陣地で、今頃は負傷者の手当と勝利への拍手喝采で大忙しだろう。

 戦が終われば戦巫女は用無しとばかりに、放って置かれているのをよしとして、少女たちはこうして陣地から離れてみた。

 元敵地ながら実にいい場所だ、今度は弁当でも持って来ようと相談していたところだったのだが。

「わたしの名前はね、故郷に咲いている桜からいただいたんだって……お母さまがいってた」

 幼さが隠しきれない、言葉の端々にたどたどしさがある声だ。

 幾分か背が低い方の少女が桜を眺めながら、唐突にぽつりと漏らした。

「八重桜?」

 と、彼女より幾らか年上の少女が少し低めの声で問うと、彼女はぱっと尊敬に瞳を輝かせた。

「深山はなんでも知ってるんだね!」

 それからもう一度、八重は桜を見上げた。

 残念ながらいま見ている桜は、八重桜ではなく大島桜だ。八重桜とは花のつき方がまったく違うはず。色も、八重桜よりずっと薄くて白に近い。

 八重桜のことを話には繰り返し聴いていたが、八重はこれまで一度も本物を目にしたことがない。

 見たことがないものを想像する彼女の目は空のように透き通っていて、幼いながらも深い郷愁に満ちている。

「わたし、いつか……八重の桜を見てみたい。お母さまがいた、あの場所にいきたい」

 横顔の透明感がある哀愁は、とてもじゃないがただの五、六歳が出せるものではないのではないか。

 もうこの世にはいない母親を求める天涯孤独の少女の声は、冗談みたいだけれど切実だ。

 たったひとりの大切な家族の面影を追って、彼女は閉じ込められた牢獄を抜け出したいと強く願っている。

 小さな願いを掬い上げたのは、神でも仏でもない。すぐ隣にいる少女の手。

 その小さくも大きくもない手が、陽だまりを受けて白く輝く。

「連れてってあげるよ、私が」

 八重よりも幾寸か背の高い少女が、夜空を閉じ込めたみたいに煌めく瞳を真っ直ぐに向けた。

 彼女は今日でちょうど一ヶ月目の戦のために早朝から粧し込んでいたが、汗で白粉も少し溶けている。

 しかしその美貌は、未熟ながらも確実に花開いていた。

「いつか、私が。八重と一緒に、その桜をみる」

 すっと、細いが節々がしっかりとした少年のような指が、八重の前に真っ直ぐと差し出される。

 深山の瞳は青みがかっていて、光の加減によっては青藍にもみ空色にも、ひょっとしたら翠緑にも見えた。どんな宝石よりも美しい、不思議な瞳だ。風にはためく艶やかな長い髪も、瞳と同じ色をしている。

 声は聴く者が皆蕩けるような、職人技が効いた凛麗な箏を思わせる美しさ。どこか妖しい魅力を放つ少女。

「約束」

 そう言って深山と比べると小枝のような小指を絡ませると、八重は太陽のように明るく笑った。

 深山が満開に華やいだ寒緋桜だとしたら、さながら八重はささやかな蕾。

 深山とはまるで違う種類の、年頃の未熟な少女らしい可憐な魅力が八重にはあった。

 光に透かすと鮮やかな栗色になる八重の髪は、絹に似て柔らかそうに風になびく。

 深山も釣られて微笑んで、ともに残りの優しい時間を過ごした。


 いつか必ず。————果たされる日が来るのだと、信じてやまなかった幼いあの頃。

 そう誓った次の日が。

 よもや別れの日になるとは、深山も想像していなかった。


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