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異心乙女2

明くる朝の空は、しとしと雨が降り注いでいる。梅雨の走りなのだろうか。

田植えの邪魔をするからと嫌煙されがちの翠雨だが、その名に相応しい美しさだと、深山は思う。

「近頃、吉野さんがお見えになりませんねぇ」

縁側から望める雨模様の景色をぼんやり眺める深山に、廊下の拭き掃除を終えたばかりの薄桜が声をかけた。

どんなに湿気の多い天気であっても、薄桜のおかっぱは艶やかに纏まっている。

「……べつにあんな喧しいやつ、いなくていいですよ」

捻くれた子供みたいに唇を尖らせて時折、庭から繋がっている玄関方面に目を遣る。

誰かが来るのをそわそわと待っているような、そんな年頃の少年みたいな深山の様子を横目で窺って。

薄桜はくすりと笑った。

「素直じゃないですね、深山さま」

「俺はいつでも素直ですが!?」

「ふふ、そういうことにしておきましょうか」

なんて我儘な子供を軽くあしらうように、薄桜は掃除の続きを始めた。

ひとりになった深山は、再び庭を眺めて溜め息をつく。

深山と瀬戸の打ち合いから、もう七日が経過していた。

あれから城内での深山の立場は大きく変わり、喜ばしいことに妙な噂を立てられることが大幅に減った。

それだけではなく、なかには深山の実力に一目置く藩士もいるほどだ。

以前とは違う意味合いで注目を集めて、用があって入城するだけでなんだかこそばゆい気分になる。

しかしこれも殿と瀬戸、それから————八重のお陰だと、感謝してもし切れない。

大きな戦の前で気を引き締めなくてはならないのに、嬉しさでついつい浮き足立ってしまう。

曽我では今年も大願成就の傘焼き祭りが催され、大賑わいだったようだ。

小田原城下町の付近で次に催される祭りといえば、秋に向けて五穀豊穣を願う『米祭』。

五穀豊穣の女神、保食神に扮した女性に美味い飯を食わせるだけの、地味な祭りだ。

あまりにも地味すぎて子供たちから不評の神事だが、昔からの伝統行事だからと二百年前から絶えることなく続けられている。

戦の準備が着々と進むなかで、祭りなんか悠長にやっていられるか、という声もあるらしい。

それは当然の意見といえよう。

大きな戦の前、祭りの準備に時間と金を掛けるのも惜しい。

それに人の出入りも増えて、間者が紛れ込む隙を与えてしまう。

しかし例年通りに行うと忠愨公の御触れが出た途端に、現金にも町には活気が漲った。

いつもよりも派手にやろうぜ、なんて息巻く主催の連中が、できる限りの準備を整えているらしい。

城下は俄かにも祭りの準備で賑やかになり、城下の中心地にある八重の屋敷にも、その賑々しさと忙しなさが届いている。

いつもと同じように薄桜が用意してくれた朝食を終えて、深山が片付けに入ろうとしたところだった。

「やーよ、めんどくさい」

八重の屋敷を所用で訪れた神社の遣いふたり組に対し、八重は開口一番にへの字口で言い放った。

祭りを取り仕切る主催の神社が、今年の保食神を担当する女性を探しているらしい。

仮にも《最上の戦巫女》と名高い八重に是非、という誉れ高いお声がけを頂いたというのに。

当の八重はぶすっとした顔で不機嫌を隠しもせず、薄桜が出したお茶菓子をもりもり頬張っている。

「これ、八重さま!お客様に失礼ですよ!」

薄桜にいくら強く諌められても、八重の無礼は止まらなかった。

「嫌なものは嫌なの!」

ぷいっとそっぽを向いて、しかし菓子を貪る手は止めない。

やけ食いかと思うくらいに、もりもりむしゃむしゃと無茶食いを続けるものだから、無礼に怒ってもいい遣いの者たちがむしろ心配そうな表情を浮かべていた。

「いいお話ではありませんか」と薄桜は困ったように頬に手を当て、あくまで八重の参加に賛成している。

「八重さまらしくないですよ?美味しいご飯がタダで食べられるというのに」

確かに変だ、と深山も疑問に感じていた。

意地汚いと表現しても過言ではなく、誰よりも食い物に目がない八重が、食い放題の機会を『めんどくさい』という理由だけで逃すはずはない。

たとえ面倒な儀式があろうが、食べ物のためにならいくらでも耐えられる!くらいの気概はあるはずだ。

薄桜と深山が詰問の視線を投げかけると、

「だって……」

八重の菓子を取る手がぴたりと止まり、珍しくしおらしい態度で、ようやっと本当の断る理由らしいものを口にした。

「お祭り……自由に回れないんでしょ?」

深山も薄桜もようやく合点がいった、と顔を見合わせる。

幼い頃から戦巫女として拘束されていた八重が自由に町まで出かけられるようになったのは、この小田原藩に来てからだ。

当然のように、祭りなるものを体験したことはない。

なにも言わないから薄桜も深山も気づかなかったが、実はずっと楽しみにしていたのだろう。

遣いの者たちも薄々気づいたのか、八重に無理強いするのはもうやめた。

「えぇっとそれじゃあ……そこのあなた、いかがですか?」

と急に話題にのぼったことで、薄桜が珍しく頬を紅潮させ、恥ずかしそうに首を横に激しく振りかぶった。

「わ、わたくしはそのような大舞台に立つ身分では!」

どうも満更でもない様子だ。

綺麗な衣装を身に纏い、美味しい食事を堪能できる祭り最大の目玉である女神役は、確かに普通の女性からしたらいい話ではあるのかもしれない。

しかし。

「いえ、お姉さんではなく」

遣いの言葉が信じられないとばかりに、「は?」と目を剥く薄桜はあっさり無視されて。

「美人のお侍さん、いかがでしょう?」

遣いのひとりがにこやかに深山へ声をかけてきた。

八重の代わりに目をつけられたのは、薄桜ではなくまさかの深山だった。

「あの……保食神は女神では?」

当然の疑問を投げかける深山に、遣いはよりにもよって薄桜にとって残酷な答えを笑顔で投下した。

「美人なら男女どっちでもいいんです!」

「当祭りの目玉ですので、なるべく目を惹く人にお願いしたいんですよ」

遣いふたりからの遠回しな薄桜への酷評に、深山は冷や汗をたっぷり浮かべて乾いた笑いでやり過ごすしかなく。

薄桜は打ちひしがれている。

神社側も適任者が見つからなくて困っているのだろう。

本来であれば小田原藩士のひとりとして、ここは手を貸すべきだ。

だが八重がやらないと言うのなら、守護役の深山が彼女を放って出るわけにもいかない。

一も二もなくお断りするべきだ。

「でも……」

「反対反対っはんたーい!!」

深山のお断りを遮って、八重がなにを思ったのか、興奮気味に勢いよく飛び出してきた。

「こいつは、わたしの側に四六時中っ!金魚のフンよろしく引っ付いてないといけないのよ!!」

「金魚の糞はやめろクソガキ」

いったいなにに対して怒っているのか見当もつかないが、とりあえずひとを『金魚の糞』扱いするのは遠慮してもらいたい。

八重に密かな片想いはしているが、四六時中一緒にいるのはあくまで仕事だからだ。

というかこのガキはそういった人の気持ちにも気づかないのか腹立たしい。

といった諸々の複雑な怒りを込めて、八重の頭に軽く一発食らわせた。

八重の興奮具合に目を丸くする遣いたちへ、乙女心に大きな傷を負って灰になりかけの薄桜に代わって深山が平謝り。

謝罪ついで、本題は丁寧にお断りする。

「折角のお話ですが……私は彼女の守護役なので、離れるわけには参りません」

隣にいる八重が満足げに笑みをこぼしている様子に、この場でただひとり、深山だけが気づかなかった。

引き際を察した遣いのふたりは、しかし非常に名残惜しそうで、

「気がお変わりになったら、いつでもご連絡くださいね」

と念を押すように言い残して帰っていった。

ちょっとした朝の騒動も静まったところで、深山は朝食の後片付けを再開させようと着物の袖をまくった。

灰の状態からようやく復帰した薄桜も、

「どーせわたくしは鼻ぺちゃの醜女ですよっ!」

などとへそを曲げて、ひとりで買い物に出てしまった。

普段の薄桜は飄々としていて、その手の話題にはあまり関心がないように見えたのだが。

どうやら相当に傷ついたらしい。

女の矜持というやつだろうか、などと深山は密かに苦笑いを浮かべる。

「八重」

後片付けもひと段落したところで。いつものように縁側で外の喧騒に耳を傾ける、八重の背中に声をかけた。

深山の声が耳に入っていないのか。八重は振り返らず、ただ静かに外を眺めていた。

外にはしめ縄が張り巡らされており、しとしとと小雨が降っているにも関わらず、祭りの準備が順調に進んでいる様子が見て取れる。

祭りに向けたお神輿の練習をする掛け声、祭りのために小田原まで旅をしに来た人たちの話し声。

いつもの小田原よりもずっと騒がしくて、賑やかで、どこか違う町に来てしまったように不思議な感覚。

「『米祭』は江戸の祭りみたいに派手なものじゃないけど、出店が城下町いっぱいに出るんだ」

深山の落ち着いた声は決して大きくはないが、今度こそ喧騒を聴く八重の耳にしっかり届いたらしい。

「花火、ってやつは?」

町の様子から目を離さないまま問いかける八重の声は、期待しているように無邪気な明るさはない。

ただの事実確認というか————もしかしたら。

「残念だけど、上がらない」

「そう……」

こちらも特に期待していたような、大きく落胆した声ではない。

相変わらず背中を向けたままで、表情を読み取ることはできないが、それでも声に乗った感情くらいはわかった。

八重のいつになく落ち着いた様子を見て、先程から浮かんでいた深山の確信は固まりつつある。

「出店って、なにがあるの?」

「よくあるのは飴細工と、団子屋、お面屋かな。江戸じゃあ風鈴売りも集まるらしいけど、小田原には来ないかもな」

「ふーん」

着物からすらりと伸びた八重の脚は、空気を弄ぶようにゆらゆら揺れていた。

祭りに向けた喧騒が途切れることはない。各々が祭りを楽しみにしている声は、真珠色の小田原城下に少しずつ色味を足して鮮やかになっていく。

きっと八重は、本心ではとても楽しみにしている。

だけど、もしも。

明日突然に敵側に捕まって、前みたいに幽閉されたら。

その『もしも』が現実で有り得ることだと、きっとこれまでの八重の経験が証明しているのだろう。

深山だって似たような半生だった。有り得ない、なんて手放しに肯定できない。

むしろ小田原での自由で穏やかな生活の方が、『有り得ない』くらいだ。

だから気を緩めてはいけない。傷つくのは自分だ。

いま以上の幸せなんて、期待なんかしちゃだめなんだ。

そう言い聞かせている。

でも、それでも。

「楽しみだな」

深山の短いひと言に、八重は珍しく素直に頷いた。

「……うん」

この小さな幸せがずっと続けばいいなと、祈り、願っているのだろうか。

その願いを叶えるのは、俺だったらいい。君の幸せを願うのは、今も昔も変わらない俺の大切な本心だから。

右腰に差した愛刀にそっと触れて、深山は誓いに似た祈りを捧げた。


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