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水火乙女5

同日の夜半は、五月にしては粘り気のある湿度を帯びていた。

冴え冴えとした青嵐が、妖しげな夜の帳を不釣り合いに彩っている。

天鵞絨の天空に浮かぶ紅色の満月が不気味な輝きを増し、不吉で不穏な空気を醸し出していた。

「さて————機は熟した」

愉快そうで、満足げな声。

柳の幽かな葉擦れを聴きながら、男は女が年代物の猪口に注いだ熱燗を、ちびりちびりと優雅に嗜む。

酒の甘い芳香が決して広くない室内に目いっぱい拡散し、空気だけでも酔いそうなくらいに充満している。

「十日後の戦に乗じて、娘を我が手中におさめる。いいな、“薄桜”」

隣で黙々と酌を続ける女に命令すると、猪口に注がれた酒の表面を、恍惚にも似た瞳でじっとり眺めた。

血のような紅の月が映り込み、過ぎ去った季節の桜を思わせる色味に。

風を受けて揺らめく様は、まるで小さな湖上のよう。

ゆらゆら、ゆらり。

果たして誰の心を表すものか。

「わかっておりますわ」

答えた女の気乗りしない声に気づき、男はおもむろに首を傾ける。押し黙って俯く女の表情を、面白そうに見遣った。

「不満そうな表情だな……あの娘に情でも湧いたか?」

「…………」

女は答えの代わりに、厳しく眉根を寄せる。どんなに尽くした言葉よりも明らかで、的確で、豊かな表現だった。

「たったひとりの親友でさえ手酷く裏切ったお前が、珍しいことだ。大飢饉の前触れかな?」

女の暗闇そのものの過去を知り尽くした男にとって、いまの彼女の心情を察して想像するのは愉快で、同時に滑稽だとすら思える。

大切だと自慢していた無二の親友を、裏切って貶め、結果として自分を可愛がった醜女がなにを今更。

日頃から受けていた報告のなかに、その感情の端々を感じてはいた。

女は娘に特別な情を抱いている。

それが『母』に似たものか、『姉』に近いものかは男には判別できない。

「だがその感情は邪魔だ、いま直ぐに棄てろ」

女がそのようなものに振り回されるとは、まったくの予想外だった。

彼女のこれまでの働きを鑑みても、標的に情を抱くような柔い人格はない、と男は判断していた。

かつての女は見ているこちらの背筋が凍るほど冷静で、機巧人形に似て『心』というものが欠片もない。

それでいて、此方が求める結果以上の成果をあげる、確かな実力もある。

だからこそ、この最重要案件を任せていたというのに。

「私はそういった、人のくだらない情が嫌いでな。虫唾が走るよ……まったく」

————この私が珍しく見誤ったか……。

と舌打ちして、口中を支配する苦味に酒を足す。

自身の失敗を感じて自棄になり、残った酒をひと息であおったせいか、仄かな頬の紅潮を感じた。

空になった猪口に、女が間髪入れず新しい酒を注ぐ。

「【青い燕】も動いている。互いにうまく連携するといい」

火からおろしたばかりの熱燗は、大量の湯気をたなびかせて実に美味そうだ。

限りなく透き通った酒を眺める男を、女はどこか怨めしそうに睨んでいた。

「……はい」

女の不満が含まれた声の理由に、男はあえて気付かないふりをした。

男がもう退がれと命令するので、早々に部屋から退散したところで。

「やっほ!“薄桜”サン」

頭の中身が軽そうな男が、気安く挨拶をしてきた。

八重と深山の前では『吉野』と名乗っているが、果たして本名なのかは女も知らない。

吉野も女の本名を知らない。

隠者の間で本名を語る者など、滑稽な存在だといえよう。

ここしばらく町衣装に身を包んでいるちゃらついた吉野の姿しか見ていなかったが、今日は隠者らしい青藍の着物を着ている。

いまはこいつの話に付き合える気力がないな、とため息を露わに。

すると吉野が、怪訝な顔を疑問で傾ける。

「めっちゃ浮かない顔してんネ。ご主人になんか言われた?」

などと気安い世間話のように訊ねられても、重ねて言うが素直に応じる気力はない。

いつもなら難なくできる当たり障りのない笑顔さえ、いまの彼女には至難の技。

「あなたには関係のないことです」

剣豪の研ぎ澄まされた白刃よろしく、女の声と瞳はいつもに負けず劣らず鋭かった。

「こっわ……!ホント、八重チャンの前と大違いだヨ」

吉野は冗談めかして自分の肩を守るように抱きすくめているが、これが案外と冗談にはならない。

女がここまで感情を剥き出しにする様を、吉野は見たことがなかった。

視線で人を殺せるとは、まさにこのことかと感心するほどに。

彼女は怒りを表していた。

女は虫の居所が悪く、これ以上の吉野との無為な会話を続ける気はない。

「あの方にご用があるのでは?わたくしで油を売っていないで、ご自慢の脚で早くお行きなさいな」

といまの女に露骨に追い払われてしまえば、吉野とて引き退らないわけにはいかない。

「へーへー、わかってますって」

射殺さんばかりの女の視線に見送られ、「ごめんなすって」と主人の待つ部屋の襖に手を掛ける。

「失礼しますヨっと」

襖を開けた途端、酒の強い匂いがむわっと襲い来る。

「おお、来たか……【青い燕】よ」

そう言って吉野を歓迎する主人の顔は、いつもよりも赤い。彼にしては珍しく悪酔いしているようだ。

————薄桜サンと揉めたんかな?

そう過ぎったものの、個人主義の自分にはどうでもいいことだと、すっぱり切り捨てる。

いまは仕事の話さえできればいい。

余計な感情に振り回されるのは、もう御免だ。

————「お前がどういう生き方をしてきたとしても、俺にどうこう言える資格なんかないけど」

深山の言葉が脳裏に思い出されて、無性に腹が立った。

いまにして思えばどうしてあの時、冷静に言い返せなかったのだろうか。

いつもみたいに軽く躱してしまえばよかったのに。

————ったく……うざってぇ。

「ご主人のお呼びとあらば、いつ如何なる時でも参上しますヨ」

荒れる心中とは裏腹に仰々しく腰を折る吉野を男は満足げに眺め、熱燗の残りを手酌で進める。

吉野が酌してやろうと伸ばす手を、しかし男は制止した。

「私はお前を信用している。だからひとつ、仕事を増やしてみた」

代わりに徳利を指先で軽く押して、吉野に酒を勧める。

いつもだったら匂いが付いて仕事に差し支えるからと断るところを、吉野も呑みたい衝動に駆られたらしい。

「へぇ、なんスか?」

主人の小脇に置かれた空の猪口を取って、主人手ずからの酌を有り難く受けた。

とくとくとく、と小気味よい音と、酒の甘い芳香が新しく広がる。

香りを楽しんでから、どれ一口と味見程度に唇を濡らす。

米の甘さが際立っていて、まろやかな口当たり。

吉野は酒に関して特別に詳しくはないが、これが上等な酒だと、ほんの一口味見しただけでわかった。

呑みやすくていい酒だ、流石はご主人。

などと密かに賛辞を送る。

吉野の口に酒が入ったことを見届けてから、男はようやく本題を切り出した。

「『深山』という人物を————私に差し出して欲しい」

「!」

吉野の口に酒を運ぶ手が、止まった。

主人の口から深山の名前が出たことに、驚きを隠し切れない。

吉野の知る限りでは、主人が深山を『殺せ』と命令するならまだしも、『手に入れろ』とは言わないだろう。

深山は標的である八重の守護役で、主人にとっては邪魔者以外の何者でもない。

「一応……理由お聴きしてもいいスか?」

いつもより慎重に言葉を選び、主人が勧めるがままに酒を追加。

一口呑むほど、舌に酒が絡んで痺れていく。

その痺れでさえ、いまはなんだか心地よいとさえ思ったのは、どうしてか。

その答えは、主人にあった。

「私の庭に添える、美しき『花』が欲しい……私の行動原理は、唯一それのみよ」

満月を眺める兎もかくや。

主人の顔が蕩けているのはきっと、酒のせいだけではなかろう。

「うへ、流石ご主人。貫いてますネ」

いつのまにか空になった主人の猪口に、今度は吉野が酌をしてやる。

いくら上等な酒器に入れても、酒はもうすっかり温くなっていた。それでも匂いや味に劣りはなく、十分に口を楽しませてくれる。

「無駄話はもうよかろう。期待しているぞ、【青い燕】よ」

主人が満足気な笑みで差し出す猪口に、吉野も猪口を軽く当てた。

カチン、と軽快な音が響く。

猪口のなかで、酒に映し出された紅の月が揺れた。

「ご主人の御心のままに」

————「お前がどういう生き方をしてきたとしても、俺にどうこう言える資格なんかないけど」

昼間の深山の言葉が、脳裏に激しく反響した。

————「そういうの、やめた方がすっきりするぞ」

うるせぇ。

うるせぇんだよ。

暗闇から唐突に差し込む光が、とても鬱陶しいと感じるのは自然なことだろ。

今宵の月明かりでさえ、いまのオレには強すぎる。

終わりのない暗闇が蜘蛛の糸のように、オレを縛りつけて絡みとって放さない。

どうもこうも、オレにはこういう生き方しか……できねぇのさ。


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