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水火乙女4

打ち合いの場所が確保できたと一報があり、忠愨公も含めた小田原藩重鎮たちが揃って会場に向かった。

「瀬戸殿にかかれば、あの下賤がいくら強者であろうと一捻りよ」

「あの若造、儚き命を失うたの」

「しかし邪魔者が消えてくれれば、我々の手間が省けてよかろう」

そう口々に深山を馬鹿にする藩士たち。

しかし深山の様子に妙な硬さはなく、むしろ余裕すら見受けられた。八重から見たらいつも通りすぎて、ハラハラしてしまうほどだ。

「随分な自信があるようだな、小童」

瀬戸の開口一番は疑問詞だった。

「お前は左利きではないのか?何故、右手に構える?」

言われてみればと、八重も外野も深山の右手に注目した。

右手に刀を持つのが当たり前すぎて気付かなかったが、深山は常に右差し————つまり左手に構えるはずだ。

それがどうして、こんな大勝負において利き手ではない右手に構えているのか。

深山は妖しげな笑みを浮かべ、堂々たる口振りで答える。

「殿にとって大事な御仁に、傷をつけるわけには参りません。————ので、様子見ということで」

深山の不敵な言に、外野は著しく騒めき、瀬戸は珍しく微笑んだ。

「いつまで見ていられるだろうな」

という声と同時に、瀬戸の姿が蜃気楼のように揺らいだ。

消えた、と気づいた時には眼前に、瀬戸の白刃が迫り来る。

「っ……!?」

しかし深山も流石、といった反射神経で瀬戸の刀を愛刀で受け止める。

一瞬一瞬で、今度こそ斬られるかと内心で冷や汗をかきながら、瀬戸の刀撃を次々といなした。

————速っ!!

あまりにも速すぎて、剣戟の音が追いつかないほど。

しかし速いからといって、雑味のある剣筋でもないのが厄介だ。

一切無駄のない最小限の動きだけで、深山の隙を確実に突き出す。深山の動きをある程度まで牽制して、誘導して。

どんなに小さくても、必ず損傷を与える。

相手に無駄な動きを強いり、消耗を誘う。

深山も似たような戦い方を選ぶが故に、その効果の程はよく理解できる。

ほんの僅かな間に、深山の体も着物も傷だらけになっていた。

外野の重鎮たちや八重には、目で追うことも難題だ。

瀬戸と一番に付き合いの長い忠愨公でさえ、かろうじて状況を掴めている様子。

「様子見などという生半な間を、私が与えるとはゆめゆめ思わぬことだ」

確かに、と深山もだいぶ侮ったと痛感する。

瀬戸の戦での役目といえば、忠愨公を補助して戦略を立てる、いわゆる『軍師』の立場にあった。

深山が藩士となる以前には、自ら戦場に出て腕を振るうことが多かったようだが、それも現在では半分引退したようなもの。

しかし侮るなかれと、瀬戸の刀が雄弁に語っていた。

深山も隙を見つけては反撃に転じるも、どうやらそれは瀬戸の仕掛けのようだ。見事なまでに見切られ、いなされ、より大きな損傷を貰い受ける。

「やっば……オッサン強いジャン。こりゃあ流石の深山チャンも……」

物陰でちゃっかり一部始終を窺っていた吉野でさえ、驚嘆の声を漏らさずにはいられない。深山の正確な実力を知る者は、忠愨公以外では吉野しかいない。

その吉野が不安に感じ、絶望視するほどの展開。

それだけこの勝負は、誰が見ても深山に分の悪い流れだった。

この場にいる誰もが、瀬戸の勝利を確信するなかで。

「深山……っ!」

痛切な悲鳴にも似た八重の声は、深い祈りが込められている。

————きっと大丈夫、あいつは……あいつなら、この不利な戦局をあっと驚くくらいにひっくり返しちゃうんだから!

「噂も時には真実なのか……どうやら殿の見込違いだったようだ」

瀬戸の失望したようなひと言と同時、彼の柄頭が深山の腹を強烈に打ち据えた。

「ぐっ……」

あまりの苦痛に深山の背が大きく歪み、血反吐を吐き出した。

瀬戸の柄頭が外れて、身を支えるものが無くなった途端。

深山の身は地面に倒れこむ。恐らく深山にはもう、立ち上がる余力さえないだろうと、瀬戸は追撃をやめて納刀した。

「これで終いか、仕様もない」

瀬戸自身、深山の実力をその身で感じることを、非常に楽しみにしていた。

竹馬の友の忠愨公が己の評価も棄てて熱心に入れ込む青年の力が、果たしてどれ程のものかと。

存外に期待していたようで、瀬戸はいま、大きく落胆している。

確かに最初の反応は優れたものだと、ほんの僅かに手応えを感じていた。

これからどう反撃してくるのか、年甲斐もなく心が弾んだのは隠しきれない喜び。

だがそれは、ぬか喜びに過ぎなかったようだ。

所詮はこの程度の、骨のない小童だった。

————そう思い始めた、その刹那。

「っ!?」

ひと筋の風とともに、左の腕に確かな違和感。

気づいた時には切り裂かれ、上等な着物に血が滲んでいた。

正面を見据えると、そこには誰もいない。ならば奴は何処にいる……?

あからさまな気配を感じて振り向けば、傷だらけの深山が地にしっかり足を付けている。

右手に愛刀を、そして左手には————

瀬戸が懐に持っていたはずの、小刀。

間抜けにも懐を探ると刀の感触がないのだから、あれは間違いなく瀬戸の懐刀だ。

「まさか……」

————空いた左手で……私の懐刀を!?

予想外の展開に、衝撃が疾った。

機会はあの時にしか無かったはずだ。瀬戸の柄頭が深山の腹を打ち据えた、あの瞬間。

しかし満身創痍の状態で?考えつくものなのだろうか。

もしや……はじめから、この積もりで左手を空けていた……?

深山は勝負の前からわざと利き手……器用な方の手を、意識して空けていた。

この布石を張るために、わざわざ。

瀬戸は自身の全身が、奮い立つ感覚に生まれて初めて襲われた。

初めから勝負を棄てたものだと、見果てる自尊心だと呆れたのは大きな間違いだった。

普通の打ち合いでは瀬戸に勝てない、と踏んだ上での危険な賭け事。失敗すれば自身の立場すら奪われるという、危機を孕んだもの。

それを彼は、半分成したというのだ。

————そう、まだ『半分』。

「二刀流……そのような付け焼き刃で、私を倒そうというのか?」

奮い立った心に呼応して、声も上ずっているように、瀬戸自身は感じた。

しかし隠しきれない狂喜が支配するこの感覚を、果たして抑えきれただろうか。否。

唇が興奮で歪み、全身は震える。

たとえ瀬戸から懐刀を無事に奪い遂せたとしても。余程の修練を積んでいない限り、二刀を自在に使い熟すのは不可能。

たとえ使い熟して一手の数を増やせても、瀬戸が得意とする『速さ』を上回らねば勝機はない。

『二刀流』は、彼が確実に勝利を手にするには、あまりにも弱い手なのではないか。

しかし深山は微笑んだ。

この泥臭い場にそぐわぬ、美しい微笑だ。

この場にいる全員の心さえも魅了し、容易に奪う。まるで死神のような艶めき。

光の加減で青にも翠にも輝く、宝石のような瞳が妖しく煌めいた。

「付け焼き刃かどうか、貴殿の御身でお確かめください」

両者のあいだに静寂が舞い降り、厳しい風切り音と、それを受ける刀の澄んだ音だけが響いた。

耳が痛くなるほどに、空気がきつく張りつめる。

まるで生きるか死ぬかの果たし合いみたいな緊張感に呑まれ、観客が息を飲み込む————その刹那。

深山はほんのひと息で、瀬戸との距離を縮めた。

まだここまで動けるか、と瀬戸の内心では舌を巻く。

だがここまでは瀬戸の目でも十二分に追いつける。愛刀をしっかと握り直し、深山の反撃に余裕を持って備える。

しかし瀬戸のその余裕は、跡形もなく崩壊。深山が振るう二刀の残像すら、見切ることは叶わなかった。

————速い……私が目で追いきれぬと!?

使い古された愛刀と、瀬戸の懐刀。癖も長さも違う二刀が、深山の手足の延長とすら思えるほどに、流麗な剣舞を披露した。

瀬戸の愛刀が深山の愛刀を受け止めた瞬間、懐刀が間もなく肉薄。避ける隙は与えられず、一太刀受けて血が舞い踊る。

更に驚くべきは、両手で剣戟を繰り広げる間に襲いかかる足技。

無駄のない最小限の動作だけで、確実に瀬戸の足を掬って体勢を崩す。そうして作った隙を利用して、刀が傷を与える。

「綺麗……」

八重の感嘆の声が、人知れず漏れた。

まるで神へと捧げる演舞のように、光り輝く深山のふたつの剣筋と足技。

舞い散る血と汗でさえ、樹々に実る花弁のように彩りを与えている。

ただの原っぱが立派な舞台にすら感じられるほど、その景色は崇高なるものに見えた。

前半に襲った瀬戸の攻撃による満身創痍を思わせないその美しさに、深山を糾弾していた連中でさえ目を奪われる。

あの剣豪、瀬戸がこんなにも踊らされている様を、この場の誰も見たことがない。

唯一、深山の勝利を頑なに信じているはずの忠愨公でさえ、この戦いに圧巻されているようだ。

瀬戸自身もまた、ここまで追い詰められた記憶はかつて無かった。

————恐らくこの勝負……勝てない。

瀬戸がそう確信しているというのにも拘らず、どうしてこんなにも心が湧き立つのだろうか。

いつまでも見ていたくなる壮麗な剣舞は、しかしやがて千秋楽を迎えた。

刀と刀が激しくぶつかり合い、これまでになく大きく鮮やかな火花が周囲に飛び散る。

上等な鉄の澄んだ音を響かせて、宙に舞い上がるは瀬戸の太刀。

円を描いて跳んだ刀が固い地面に突き刺さり、決着の報せとなった。

誰ひとりとして微動だにしない、妙な間が続く。

世界ですら息を呑み、時を止めたような静寂の空間。

風だけが地面を撫でる、雲に隠された太陽がゆっくりと顔を覗かせて光を放つ。

風に舞い、陽光を受けて煌めく、深山の宝石を思わせる美しい髪を眺めて。瀬戸は今更ながら思い出す。

かつて戦場を沸かせた元隠者という噂の、美しくも【最強】と謳われる武士の存在。

敵味方の死体から刀を漁って戦う、恐れ知らずのそれ。

見た者の心も魂も奪い尽くす、残酷な死神。或いは戦女神の化身か。

————そうか。

「《万緑の美姫》……お前のことだったか」

この敗北は、決して無様なものではない。

自信を持って言い切れると胸を張る瀬戸の笑みには、一層の清々しさが滲んでいた。

「『姫』じゃなくて申し訳ないですがね」

そう嗤う深山は納刀し、膝をつく瀬戸に健闘を讃える握手を求めた。

瀬戸の分厚い右手が深山の手を握り返したところで、ようやく観客のどよめきが湧き起こる。

「あの瀬戸殿が、負けただと……!?」

「信じられん……だが」

「あの下賤……いったい何者だ?」

「深山、といったか」

どよめく外野の波を無視して、瀬戸が深山に問いかける。

「お前は守るべきものがなにか、己の覚悟は固まっているか」

そう清閑に問いかける瀬戸の瞳は、下手を打てば戦いの最中よりも鋭利なものだった。

戦う者にとって、大切な柱となるもの。その柱なしに戦場を駆け抜ける術はない。

柱のない者が戦場に立てば、その果てに待つものは虚空すら可愛い『破滅』のみ。

深山————この青年に有るものを、瀬戸は見極めたい。

答えによっては深山を認めない、そう訴える厳しい瞳。

しかし深山は僅かにも臆することなく、その視線に真っ直ぐと投げ返した。

「ずっと昔から————俺にはたった、ひとりだけです」

瀬戸を見つめ返しているようで、深山のその瞳には、『たったひとり』だけがはっきりと映っている。

深山の答えを聴いた瀬戸は、深く頷いた。

「……そうか」

淀みのない答えは、深山の芯が通った覚悟の表れと信じることに、瀬戸は決めた。

「殿がお前に信頼を寄せておられる理由は知らん。だが実力は……この場にいる誰もが、認めざるを得んだろう。私も含めてな」

瀬戸の顔に滲んだ笑みには、珍しく喜びが含まれていた。

この戦いのすべてを的確に把握できている者は、ほんの僅かだろう。

だが深山の勝利に文句を言う者は、誰ひとりとしていない。

しかし、元隠者の藩士が戦巫女の守護役……まだ異論を唱える者は、これからも多くあろう。

だが戦友が信じたこの青年を、自分もまた支えたい……瀬戸のその揺るぎない決意を生み出したのは、間違いなく彼の曇りなき刀だった。

「殿、私は降参いたします。その上で僭越ながら、進言させていただきますが————」

戦いには感じられなかった緊張感が、ここで初めて深山を包み込んだ。

もしや答えを間違ったのだろうか。

それで守護役やめろとか言われるのだろうか。

重鎮たちも、八重も、吉野でさえ、この僅かな間に息を呑んだ。

だが。

「戦巫女の守護役はこの男以外に務まる者が、まずいないでしょう。私でもこの様です」

瀬戸が手放しで深山の実力に太鼓判を押し、忠愨公も内心では嬉しそうに深く首肯した。

「うむ、そのようだな。他に挑む者は、おらんのか?」

そう悪戯っぽく訊ねる忠愨公と、目を合わせるのも心苦しいと、深山を糾弾していた連中は揃って下を向く。

あの戦いを見せつけられた後では、もはや誰ひとりとして文句を言えまい。

それどころか、深山に挑むなど。

身の程知らずも甚だしいとは、よく言ったものだ。

押し黙る重鎮たちの態度を肯定と捉え、忠愨公が声高に宣言した。

「よかろう。深山————引き続き我が戦巫女、八重の守護役を頼んだぞ」

忠愨公の声を受けて、深山が最初に目を向けたのは八重だった。

再会してからの八重は、深山をうととしい存在として嫌っている。町に自分を閉じ込めるための守護役なんて……大嫌いなはずだ。

だから彼女に認めてもらわねば、この戦いの意味は灰燼に帰す。

八重の合図を待つあいだ、深山の心臓は跳ね上がっていた。

彼女に好かれている自信がない。

この場で八重が拒否する可能性だって、あるのだから……。

しかし。

八重は真っ直ぐ、深山の瞳を受け止める。その温かな眼差しが、深山の背中を強く後押しした。

「はい、謹んでお受けいたします!」

この戦い以降。

噂が噂を呼び、深山の強さは小田原藩内外に、広く知れ渡ることとなった。

剣豪瀬戸を打ち負かした元隠者の武士————《万緑の美姫》、名実ともに戦巫女の守護役として。

「あんた……くっさいし、汚ったないわね」

屋敷に戻って開口一番、深山が傷つくようなことを言い出した八重。

口をへの字に曲げて、鼻をつまむ小芝居もまた、深山の心をぐさぐさと容赦なく突き刺していく。

「仕方ないだろ、散々地面を転げ回って、斬られまくったんだから」

反論しながら自分の格好を見下ろし、悔しいが納得した。

確かに、汗臭いし血の臭いもすごいし、お出かけ用の着物はもはや襤褸切れだし……あちこち斬られてどこが痛いのかもわからないくらい、麻痺している。

「とっとと湯浴みして来なさいよ。薄桜ー?」

湯殿の準備はいつも薄桜に任せているので、八重は当然のように彼女を呼びつけた。

しかし、屋敷の何処にも薄桜の気配はない。

「あいつ、どこ行ったのかしら?」

屋敷中を探し回っても薄桜がいないことなんて、八重にとっては初めてのことだった。

「夕飯の買い物じゃないのか?誰かと違ってひとりで世話できるから、別にいいよ」

「『誰か』って、誰かしらねぇ?」

なんて冗談めかして、八重は怒りの拳を作る。

薄桜と離れてしょぼくれていると思ったら、案外と元気なようだ。しかも心なしか嬉しそうな表情を浮かべている八重の様子に、深山は内心で首をひねった。

しかしいつまでもこの調子で付いてこられては困る。

「『誰か』さん、ここから湯殿ですのでご退出を」

と柔らかめに出るように促した。

ところが目玉が飛び出しそうなほど驚く展開が、深山を待ち構えていた。

「なによ」なんて気恥ずかしそうに、不満そうに唇を尖らせる八重。

「背中くらいは流して差し上げようって言ってんじゃない」

「……どういう風の吹き回しだ?」

これまで八重が自ら進んで深山を労わるような行為を、果たして考えたことがあっただろうか。

どんな強敵から守ろうが、お茶汲みに徹しようが、美味しい菓子を買ってこようが、掃除しようが、肩を揉もうが、一発芸を披露しようが。

彼女は一度として、深山に礼を述べたこともない。

目をまん丸くして「なにか企んでるのか?」と疑いの眼差しを無遠慮に向けると、八重は今度こそお怒りになられたようだ。

「失礼な守護役ね!なんも企んでないわよ!」

ぷんすかと、八重の小さな拳で攻撃された深山の右腕には、瀬戸に斬られた傷が幾つも走っている。大した腕力ではないものの、触れられればそれなりに痛かった。

「いでででで、そこは痛いって」

「だまらっしゃい!」

そうして湯殿に押しかけられて、初めて背中を流してもらう運びとなった。

こしこしこし、と。湯で濡らした手拭いで、丁寧に深山の背中をこする間。

八重は深山の背中を一心に眺め続けた。

線が細くて一見華奢なのに、八重のものよりずっと広く逞しい背中には、たくさんの古傷が残されている。

背中だけではない。腕も肩も満遍なく傷だらけで、まっさらな箇所を探す方が難しいくらいだ。

幾つもの死線をくぐり抜けてきた証。

彼は八重と出会うまで、いったいどれだけ戦ってきたのだろうか。

毎日欠かさず鍛錬を積んでいたこと、意地を張ってずっと素知らぬふりをしていたが、本当はよく知っている。

夜中もずっと間者を警戒して見回りし、いつも寝不足なのに町まで出かける八重を心配して付いて来てくれるのも、わかっている。

今日の打ち合いだって。

『八重の守護役』でいてくれるために、あんな無茶をしたのでしょう?

どうして、って————あなたの口から素直な理由を聴きたい。

言葉を形にできるもの、あればいいのにって願ってしまう。

くすぐったくて温かい感情が湧き起こり、八重の心を優しく包みこむ。

「ねぇ深山」

そう問いかける八重の声には、いつもの険がない。

嫋やかな乙女の声。

「なんだ?」

八重に背中を向けたままの深山には、なにが起こったのか一瞬わからなかった。

背中に感じた確かな圧力は、手拭いとは明らかに違う、柔らかくて温かい感触。

腰に八重の白くて細い腕が回されて、抱きしめられているのだと気づいた。

「……ありがと」

八重の表情は見えないはずなのに、その声に乙女の恥じらいを強く感じる。

きっと白い頬を紅色に染めて、ちょっとだけ目線を深山から外して、でも時折見つめる。

零れ落ちる月の雫にも似た、瑞々しさ匂い立つ乙女の色香。

幼い頃は無邪気に、それこそ何度も抱き合ったはずなのに、あの頃とはなにもかもが違っていた。

体の大きさも、感触も、香りも。

気持ちだって、同じじゃない。

深山の心臓の鼓動は速まり、八重の心音と重なる。

手を伸ばせば直ぐに届くはずの、その距離。

なのにもどかしいほど、震える自分の指が情けない。

いま八重に触れたら彼女になにをするか、自分でも抑えきれないかもしれない。

触れたい衝動、だけど八重を守りたい。

八重に抱きしめられたまま、暫しの静寂が湯殿を包み込んだ。

息が止まりそうな時間。

静寂を破ったのは、八重だった。

「じゃっ、ごゆっくり!」

「あ、おいっ……」

深山を包んでいた腕が振りほどかれ、隠者よろしく素早い身のこなしで、八重は湯殿を出ていった。

たったひとり残された深山は、八重がいなくなって行き場をなくした腕を伸ばし、珍しく間抜けな声でぼやく。

「背中……流してくれるんじゃないのかよ……」

しかし八重が出ていってくれて、助かったかもしれない。

あのまま感情に流されて、もし八重を傷つけるような結果になったら。

きっと自分を許せず、一生後悔を背負うことになる。

腰に残る八重の腕を思い出して噛み締め、でももうちょっとだけ触れていたかったなと物足りなさを感じ。

幸せを噛み締めるため息のように、大切な想いを吐き出した。

「————すきだ」

感情を形にして、相手に贈ることができたらいいのに。

そんな無い物ねだりを考えて、深山の体は湯船に沈んでいった。

その頃。

湯殿から出た廊下を、八重はひとり軽やかな足取りで舞っていた。

夜に差し掛かった見事な夕焼けが照らす廊下は、なんだかいつもと違う景色のような気がする。

————言えた……ちゃんと素直な言葉、口にできた!

「へへ」

自然、口元が緩んでしまう。

深山の正体を気にして重苦しかったのが嘘のように、八重の気持ちは晴れやかな春のようだ。

深山————彼が何者だって構わない。

ずっと探していたあの『深山』であろうが……なかろうが。この気持ちには関係ない。

お菓子みたいに甘くって、果実みたいに酸味があって、薄荷のようにすっきりして。

彼の側にいると居心地が悪かったのも、いまはむしろ心が弾む。

言葉を形にできるものがあれば、あなたがくれた言葉を余さず全部————永久保存しちゃうのに。

わたしの心を温かく包む『想い』を形にして、あなたにずっと、持っていてもらいたい。

優しくなれるこの想い、わたしは大切に育てたい。

————好き。

想うだけでこんなにも、どこまでも飛べそうなこの感情。

あなたにしか抱かないだろう、この感情。

わたしは、深山のことが好きなんだ。


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