水火乙女3
老中に促されるがままに、深山は町衣装そのままで城へと赴いた。
八重の身の安全を第一に考えて、彼女だけは深山と同伴して入城が許されている。
緊急会議に引っ張られた深山と別れて立派な座敷に案内され、温かい茶に上等な菓子を出される。しかし八重はいつも通りに手を出す気にはなれなかった。
手入れの行き届いた部屋を見渡しても、綺麗に活けられた花へ目を向けても、外を眺めても、ただただ時間が無為に過ぎていく。
戦が始まる。
ちょっと前までは、それこそ当たり前の毎日だったはずなのに、いま。
どうしてこんなにも不安に苛まれるのだろう。
いまのこの『日常』が壊されるかもしれない……それだけでどうして、こんなに《怖い》のだろうか。
気晴らしに庭で散歩でもさせてもらおう、そう思って立ち上がろうとしたときだった。
「おひーいさん」
聴き覚えのある声が部屋に降りた。
どこからか探して見回しても、声の主らしき人はいない。
「ここ、ここ」
誘う声を追って、天井を仰ぐと……
「なっ……あんた、なんでここに!?」
天袋から顔を覗かせる闖入者は、やはり吉野だった。
吉野はなに食わぬ顔でひらりと身をよじって、天袋から音もなく降りてきた。
いつもの町人風の装いではなく、隠者らしいすっきりとした着物に身を包んだ吉野だが。
「いやぁ、オレってば、一応は隠者だし?どんなに高い場所でも、オレの脚には敵わないよネ」
おちゃらけた態度に変わりなかった。
しかし彼がここに居ることは、由々しき事態である。
曲がりなりにも吉野は敵側の————本多の隠者であり、此処は天下の小田原城。
「ひと呼ぶわよ!?」
強気な態度に反して、八重の心中は靄のような不安を纏っていた。
先ほどから独りぼっちなはずの八重の声は外まで漏れ聴こえているだろうに、誰ひとりとして様子を見に来ないのはどういうことか。
直ぐ外に控えているであろう女中、深山の代わりに八重の守護を任されている藩士はいったいなにをしているのか。
その答えは、吉野が持っていた。
「無駄無駄!ちょーっと特殊なお薬撒いちゃったから、みんなオヤスミだよ」
「っ……!」
まんまと一杯食わされた、自然に舌打ちが出てくる。
腐っても隠者、ということか。
八重独りでこの状況を打破する術は、非常に悔しいが皆無。深山を呼ぼうにも、間違いなく吉野の邪魔が入る。
どうする、どうすると無駄に考え込んでいるところに。
「八重チャン、ちょっちオレに付き合う気はない?」
何処へ、とか何を、とか。
普通だったら訊ねて然るべきところを、しかし八重はこう訊いた。
「……なにを企んでるの?」
この隠者の怖いところは、なにを考えているのか見当もつかないところだ。
町でどれだけ一緒に過ごしていても、彼がいまなにを思っているのか。楽しいのか楽しくないのか、或いは不機嫌なのか。
ちゃんと笑っているはずなのに、わからない。
ひとに等しくあるべき『正常な感情』というものが、見えないのだ。
「やだなァ」
と、やはり感情が見えない笑顔で、吉野は答えた。
「オレは友情に熱い男なんだぜ?」
手を差し伸べられるがままに誘いを受けたのは、どうしてか。
もしかしたら彼を利用して、『深山』の真相に近づけるのではないかと……期待していたのかもしれない。
天袋に潜り込むなんて、八重には初めての経験だった。
きっと薄桜が知ったら、「まぁ、なんてはしたない!」とか叱りつけられるだろうなぁ。
なんて呑気なことを考えながら、蜘蛛の巣と埃まみれの天裏を吉野の案内で、匍匐前進する。
しばらく進んだ先で止まり、吉野は錐のような道具で器用に穴を開けて下を覗いていた。
手招きするので八重もその穴から覗いてみると。
八重でも知っているような、小田原藩きっての重鎮が集まっている室内が窺えた。当然のように上座には藩主、大久保忠愨が座している。
「なにこれ?」
「まぁ、軍法会議ってやつ?」
さらっと答える吉野だが、事の重大性に今更ながら気づいた八重が吼えた。
「ちょ……それってわたしたちが聴いちゃまずいやつじゃないの!?」
「お姫様、わかってんならお静かに」
「————しかし殿。もう少し御身のお立場というものを、よくお考え頂かないといけませんなぁ」
八重が吉野と揉めている合間に、ねっとりとした嫌味ったらしい声がこれ見よがしに聴こえた。
「このような下賤の者をお側に置くなど、殿の名声を貶めかねません」
このような、と口にしたところで向けた視線の先には、ざんばら頭の美丈夫————深山がいた。
上座のすぐ隣、殿のすぐ側に控える深山に向けて、藩士たちは無遠慮で不躾な視線を刺している。
立派な裃姿の男たちに紛れて、軽々しい町衣装に身を包んだ深山の存在はいかにも浮いていた。
緊急で呼び出されたのだから仕方ないのだが、残念ながらこの場においては非難の的となるらしい。
せめて居住まいだけは正しくあろうと、深山は真っ直ぐに正面を見つめていた。
「殿とこの者の宜しくないお噂は、天にも昇る勢いですぞ」
「右差しなどしおって、不浄だ」
「髷を結う金さえ無いのだろうか……なんと野蛮な風体だ」
これはいったいなんの会議なのか。
と問い質したいほどに論点がずれていることは、誰が聴いても明らかなこと。
聴こえよがしに非難を浴びせる藩士たちの帰結は、深山をこの場から追い出すことただ一点。
実力云々など、どうでもいい。
ただこの邪魔者を、異端者として排除したい。
あわよくば奴に与えられた地位をいま剥奪せんと、藩士のひとりが声高に叫んだ。
「お早いご決断を!」
しかし忠愨公は揺るぎなく、一切の淀みなくはっきりと答えた。
「儂は深山を強く信頼しておる。深山もまた、儂の期待に必ずや応えてくれるであろう」
公の答えにまた、室内にいる一同は騒然とする。
そこまで此奴に入れ込むとは、殿はやはり噂通り……。
大久保家の華麗なる歴史に、殿は泥を塗るおつもりか。
殿がここまでの腑抜けでは、他藩に示しがつかない!
いくら口々に好き勝手を言われても、公には自身の発言を撤回するつもりはないようだ。
「…………っ」
この展開に心を痛めたのは、他でもない深山だった。だが。
————俺が口出しできる立場じゃないからなぁ。
たとえばここで深山が反論したとして。
それが例え正論であろうが、深山を鬱陶しがる連中が納得することはあるまい。
寧ろ『この期に及んで殿を誑かそうとする不届き者』として、否応なしに小田原藩から追い出されるだろう。
かといってこのまま黙っているのも、深山の気が済まない。
どうにかしてこの悪い空気を切り払ってしまいたいと、思考を巡らせていたところに。
「ふむ……ではこうしよう。この中の誰か」
殿が仰いでいた扇子で、いきり立つ藩士ひとりひとりを指し示した。
そしてにやりと、深山が知る限りでは悪戯めいた挑戦的な笑みを浮かべ、堂々たる声音で言い放つ。
「誰でもいい、深山から一本取ってみせよ。その者の進言であれば、喜んで受けよう」
「!?」
忠愨公のとんでもない提案に、またしても室内の空気が激しく揺らいだ。
「と、殿……?ご冗談もほどほどに……」
「下賤相手に、なにも打ち合いなど」
「我が愛刀が穢れてしまうわ」
連中は口々に文句を漏らしつつ、その役目を誰に押し付けようかと戦々恐々としているようだ。
万が一にも奴に負ければ、自分の立場が危うくなる。
何代にもわたり築き上げた富や名声が、このたった一戦で崩れ落ちるかもしれない。
かといって殿の発言を無かったことには出来ない。
誰かに、誰かになすり付けて事なきを得たい。
保身にばかり疾った藩士たちを、忠愨公は「情けない」とばかりにひと睨み。
そこに。
「私が挑戦しよう」
名乗りを上げたのは、会議の開始からずっと静観していた大柄な男だった。
この浅ましい連中のなかにいて、ひとりだけ佇まいも纏う空気も一際に違っているような男だ。
男が名乗り上げたことで、腰抜けの連中はまたしても騒ついた。
「なんと……瀬戸殿が?」
「あの下賤、可哀相に。生きて帰れぬぞ」
「へぇ、あの瀬戸ってオッサン、そんな強いの?」
騒ぎの渦中を天裏で面白そうに眺めながら、吉野が隣にいる八重に訊ねた。
その八重はというと、決して良くない事の運びに緊張で喉を鳴らし、額には脂汗を浮かべている。
「わたしでも知ってるくらいの実力者よ。あの人と戦うなんて……無茶よ、勝てっこない!」
瀬戸家といえば、小田原藩のなかでも指折りの名家。
大久保家が一度没落する以前より支え続けていた、忠愨公にとって右腕とも言えるくらいに信頼の厚い存在だ。
瀬戸の宣言で騒然とする室内に、とうとう我慢できなくなったのは深山だった。
「殿!私が負けたらどうするんですか!?私など切り捨ててしまえば」
「深山」
不安に押し潰され、我慢できずに吠えだした深山を、しかし忠愨公の声がたったの一瞬で鎮める。
「儂はうぬを強く信頼しておる。うぬもその信頼に応えるのが、筋ではないか?」
主人の揺るぎない瞳は少年のような悪戯っぽさを含めて、強く気高い光を放っている。
こういうときのこの人は、てこでも動かない。————そう、よくわかっている。
穏やかでいて、しかし芯には揺るぎなく一本の柱がある。
その柱は硬くまさしく森厳。決して何者にも砕くことが出来ない、唯一無二にして最強無比の一柱。
それが『大久保忠愨』。
それこそが永遠の忠誠を誓った、尊き我が主人だ。
闇を切り払ってくれたその柱に、ひと筋の曇りを与えたくない。
「……承知しました。でも」
主人の期待と信頼に、精一杯の自分で応えることが最大の恩返しとなるのなら。
次の瞬間、深山が不敵に微笑んだ。
「タダで負けるつもりは、ありません」
この場で忠愨公から寄せられた信頼を裏切り、尻尾を巻くのは容易なこと。
噂を真実にしてしまえばいい、お膳立てならあの胸糞悪い連中が嬉々としてやってくれるだろう。
だがそれでも、敢えて戦う道を選んだのは。
『隠者の深山』ではなく、『小田原藩士の深山』でいたいから。
『八重の守護役』として、認めてもらいたいから。
過去はどう足掻いても塗り替えられない。
だけど《いま》を生きる色は選べるのだと、少しだけでも信じてみたいんだ。
「ちょーっとまったぁぁぁぁ!!!!」
の雄叫びとともに、誰もが予想だにしなかった天袋から、埃まみれの少女が落ちてきた。
「あーあ……オレしーらね」
と頭を抱えて呟いて、吉野は人知れずこの場から去っていったようだ。
吉野の存在はまったく感知せず、ひたすら八重の登場に驚愕を隠せない藩士一同。
「や……八重!?なんでお前、そんなとこから!?」
最初に驚きの声をあげたのは、彼女と一番に付き合いの長い深山だった。
続いて声を発したのは、意外なことに瀬戸。
「戦巫女の娘か。なにか意見があるようだが」
深山が埃だらけになった八重の服を甲斐甲斐しくはたいてやるあいだにも、彼女は豪胆なほど瀬戸に食って掛かる。
「くだんない勝負なんて、反対よ!大事な戦の前に怪我でもしたら、どーすんの!?」
しかし瀬戸の答えは、取りつく島もないものだった。
「ここで怪我を負い、戦に関われぬというなら……所詮は其れ迄の力量だったと、斬り捨てるのみ」
「っ……」
武士ではない八重には、彼らの矜持を語る資格がない。
この勝負に深山が納得しているというのなら、それこそ八重の意見はただのお節介というもの。
歯噛みする八重の反論を待たずして、「だが」と瀬戸の言葉が続いた。
「お前にも関わる筋合いがあろう————娘が勝負の行方を見届けるくらいはよろしいでしょうか、殿」
瀬戸がお伺いを立てると、忠愨公も彼と同じことを考えていたようだ。
「八重ちゃん、うぬの守護役に関わる話だ。どうか見届けてはくれんか」
忠愨公の好好爺然とした優しい問いかけには、流石の八重も食ってかかるわけにはいかないようで。
「……わかったわよ」
まだ不服そうな表情を浮かべるものの、八重もこの場は素直に引き下がった。
こうして深山と瀬戸の打ち合いが正式に決まり、外野が大慌てで適当な場所の確保に奔るあいだ。
「深山」
八重に呼びつけられて向き合う。
彼女の存外に堅い瞳に、深山の気持ちも自然と引き締められる。
「ここで怪我のひとつでも負いなさい、わたしがとどめを刺してやるからね」
「ますます、負けられない勝負になったな」