水火乙女2
早苗月を迎えた。
初夏の小田原はまた、くるくる、くるくると目まぐるしいくらいに景色を変えていく。
青葉若葉も勢いづいて萌ゆる、町を包む澄みきった空のした。
今年もまた田植えの時期が近づいてきて、農民たちは気合十分に忙しなく働いている。
商人も、藩士でさえいつもより活きがいいように見えるのだから、不思議なものだ。
春とはまた違った活気に彩られ、満ち満ちた空気は軽やかさ極まれり。
心做しか薄桜もいつもより上機嫌なように、隣に立つ深山には感じられた。
反対に八重の様子が、いつもより深く沈んでいる。
話しかけてもなにかを考え込むように黙ったままで、驚くことに飯の時間になっても自室に篭もりきりなことも、しばしば。
今日は深山から無理矢理に誘って、三人で買い物に出てみたものの、八重の心ここに在らず。
むしろ不機嫌というか、明らかに深山へ向けて、なにか不満げな視線を送り続けている。
「どうかしたのか」
と訊ねてみても
「別に」
とむくれた答えが返ってくるだけ。
深山に対してだけならともかく、薄桜の話もうわの空なのは、やはりおかしい。
————俺、なにかしたかなぁ?
心当たりはたくさんあるが、どれも今更な気がする。
こんなとき、自分がどうすればいいのか、どうしてやればいいのか、どうするべきか。深山には思いつかない。
無理矢理に話を聞き出すのも、果たして如何なものか。
最適な心配りやうまい立ち回りというものがわからないというのも、どうにも恥ずかしくて、もどかしい話だ。
もういい歳なのに、と自らの人としての未熟さに呆れて嘆いてしまう。
風光る陽気にもかかわらず、一行の雰囲気はどうにも固い。
さてどうしたものか、と内心で頭を抱え始めたそのとき。
「よっ、御三方!お元気イッパツー?」
もはやこの町に馴染みつつある敵側の隠者が、隠者らしからぬ町人風の姿でおちゃらけて現れた。
深山が別の意味で頭を抱え始める。
「またお前は……仕事はどうしたんだ、暇なのか?」
この男の本来の目的は、現代で最上の戦巫女である八重の簒奪。
うっかりしたことに深山も忘れかけていたが、彼は敵側の人間なのだ。
しかし深山の心情を知ってかしらずか、吉野は頭を空っぽにして元気よく答えた。
「たまには息抜きしないとね!誰かさんの頭ん中みたいにカッチコッチになっちまうぜ」
「俺のカッチコッチな拳の味を知りたいか?」
ばきぼきと鳴らされた深山の拳は、鋼のような硬さを誇る。
どす黒い空気を背中に纏った深山の迫力は、吉野だけでなく、薄桜も尻込みしてしまうほどだ。
あの拳と小田原藩屈指の筋力で殴られては困る、と吉野は慌てて言質の撤回に回った。
「あーん、冗談ダヨー!だから遊んでちょ!」
「ひとりで遊んでろ!」
わーきゃーと喧しく騒ぐ男性陣を横目に、女性陣は抜け目なく近くにあった茶屋で席を取って、緩やかな時を過ごしていた。
「うふふ。やはり吉野さんがいらっしゃると、賑やかになりますね。ねぇ、八重さま」
看板娘に淹れてもらった熱い焙じ茶を手に、ほほほと陽気に微笑む薄桜の隣で。
八重の視線は深山へ一極集中している。
深山の姿をじっと見つめて、時折思いつめたようにため息を吐く主人の姿に。
「八重さま?」
薄桜はあえて、八重の意識を無理矢理に逸らさせるように声を掛けた。
彼女の狙い通りに、八重は思い出したかのように深山から視線を外す。
「え?あ……ごめん」
それでもどこか思い詰めたような苦しげな主人の瞳を、薄桜は憂いた。
「どうかなさいました?最近、難しいお顔ばかり……」
いまに限ったことではない。
最近の八重はどうにも、元来の溌剌とした空気を澱ませているようだ。
せっかくの可憐な花にも例えられる美しさが、ここ数日の間にしょんぼりと萎れてしまっている。
「……なんでも、ないわ」
ほんの一瞬だけ、八重の唇が本音を漏らしそうになったのを、薄桜は気づいていた。
しかし彼女はなんらかの理由で思い直し、口を噤むことに決めたのだろう。
強い決意が、八重のその瞳には宿っている。
主人の想いをできる限りで汲み取って、薄桜はただひと言。
「八重さまのお悩みごとでしたらこの薄桜、いつ何時でもお聴きしますからね」
「……うん、ありがと薄桜」
八重の表情はいまだ浮かないものだったが、それでも薄桜の想いが助けになったのかもしれない。僅かに微笑んで、ずっと手に持っていた湯呑みにようやく口をつけた。
それでも思い悩んで曇る少女の瞳を、薄桜も深山も、心配そうに眺める。
彼女の悩みや苦しみを、自分たちが取り除いてあげられたら。
もどかしい。
悔しい。
苦しい。
どうすれば正解なのだろうと、考えても考えても、どんなに考えてもわからない。
なにかしてあげたい、少しでも八重の悩みを軽くしてあげたい。
それでも。
彼女が望むまでは、きっと待っているべきなのだろう。
ここで無理矢理に聞き出すことが、優しさや思い遣りのすべてではない。
待つことだって、必要なときがある。
優しい決意が、深山の拳にそっと宿った。
「うーん、青春だネー!」
そこに、明らかに場違いな声が響いた。
「どうするどうする?深山チャンがんば!」
吉野はこの状況のすべてを把握しているようで、態とらしい声で面白おかしく囃し立てている。
まるでひとの心を試すように、真摯な想いを冷やかすように。
どうやって掻き回せば、面白く転がるのか。
さぁ、踊れ、疑え、狂え。
吉野の薄い唇が、嘲るように歪んだ。
ひとの本性なんて、所詮は————
「お前さ……そうやっていつも誰かの心を試す生き方して、面白いのか?」
閑やかな川の流れにも似た、深山の凛とした声が響いた。
深山の問いかけに動揺した自分を、吉野はまるで理解できない。どうしてこんなにも自分の心が揺さぶられたのかさえ、見当もつかなかった。
「なんのことだよ、いきなり?生き方?意味わかんねンだけど」
平静を装っているようで、その実は思い切り震える吉野の声は。
必死で作り上げた、あの馬鹿みたいで能天気な声が出せない。
自身を理解できない苛立ちが、吉野が被った偽りの仮面を剥がしていく。
「お前がどういう生き方をしてきたとしても、俺にどうこう言える資格なんかないけど」
ひらり、ひらり。
花弁が剥がれ落ちるように。
「そういうの、やめた方がすっきりするぞ」
深山の言葉が風となり、吉野を包んで守っていたものが、少しずつ。
ばらばらに吹き飛ばされていく。
「な……」
文字通りに言葉を失った吉野を置いて、深山はなに食わぬ顔で八重たちの側に戻っていった。
深山のその背中を睨みつけることはおろか、黙って見ていることもできない。
なぜ彼の姿から目を逸らさないと、耐えられないのだろうか。
「なんっだそりゃ……?オレはオレが楽しいって思って、やってるんだっつの!」
本人に言えばよかったのに、どうしていつもみたいに直ぐ口にできなかったのか。
うまく言葉を返せなかった自分の恥を放り出して、ただただ深山への怒りがこみ上げた。
がん!
すぐ側にあった店の看板に八つ当たるように力一杯蹴りつけて、言葉にできないもどかしさに歯を食いしばった。
「日和見お節介ヤローがっっ!!!!」
わからない、理解できない感情が、吉野の心を支配して深く覆う。
オレはなんでこんなにも、【怒り】を覚えたのだろうか。
「深山殿」
「はい」
声を掛けられて振り向くと、立派な裃を身につけた藩士が額に汗を浮かべている。小田原藩屈指の実力者である老中が、珍しく城下まで降りてきていたのだ。
付き人をひとりも連れず、声には緊張感さえ含まれている。しかも裃姿で城下を歩き回るなど、普段では有り得ないことだ。
「忠愨様からのお呼び出しだ。至急、城に来るようにと」
「なにがあったのですか?」
老中の様子に只ならぬ予感めいたものを感じ取った深山は、姿勢を正して尋ねる。
老中は周囲と深山に目配せをして、深く声を潜めた。
「戦が始まる」
「!」
木の葉の揺れと、不気味な風の唸り。
まるで大きな嵐の前みたいに、小田原の町がやけに静かなように感じられた。
燦々と降り注いでいたはずの太陽が翳り始め、空気が薄ら寒くなってくる。