暗躍乙女2
葉桜が意気揚々と茂り、陽射しが強まる。新緑の季節が始まった。
この春に町へ来たばかりの八重も、すっかり馴染んできたようだ。薄桜の買い物に付いていく様子は、もはや町の日常風景として広く受け入れられている。
薄桜に付いて回る八重を護衛するために、必然的に深山も同行せねばならない。
はじめのうちは深山のよくない噂を鵜呑みにして冷笑していた町人たちだが、八重との応酬のお陰なのか、次第に彼らの態度も和らいだ。
『八重さま御一行』のためにいい物を仕入れてくれる商店は多く、そうした彼らとの会話もまた楽しくなってきた。
本格的にな暑さを感じるにはまだ早く、しかし一段と暖かさが増しているのは確かな季節だ。
目にも鮮やかな若葉に彩られ、今日も小田原の町は、穏やかな時を与えてくれる……はずだった。
「いよっ、お姫様!」
明るく陽気にかけられた、聴き覚えのある男の声。
三人揃って振り向いてみれば、深山と八重が知っている顔だった。
深山と八重が、遠慮なしに思い切り渋い顔を浮かべる。温かく愛おしい日常風景に泥を塗られた気分だった。
しかし男はお構いなし。
「ご機嫌麗しゅ」
「八重の二千里先に近づくな」
今朝方に整備したばかりで切れ味が増した愛刀を音もなく抜き放ち、躊躇なしで男の首筋に当てる深山。
その顔は鬼か般若か、世にも恐ろしい面だった。
瞬きのあいだに首と胴体がさよならしていそうなので、男は両手を挙げてじりじりと八重から距離を置く。
それでも警戒を緩めない深山はまだ刀を構えていて、道行く町人たちがいったい何事かと視線を集中させていた。
「なんの用でまだ小田原にいる」
厳しく問い質す深山だが、男は存外にきょとんとして答えた。
「え?いや、ふつーに遊びにきたんだけど」
その言葉が信じられない、とばかりに、深山だけでなく八重も洞穴のように深い疑念を湛えた瞳を向けた。
「いやいや本気で!今日は非番よ?」
男は誤解と信用のなさに慌てふためき、懐になにも忍ばせてないと証明してみせる。
念のために深山がしつこいくらい探ったが、男の言う通りなにも出てこない。先日の太い針のような暗器も、護身用に女性でも持つような短刀の一本すらなかった。
それもどうかと思うが、とにかく今日の男に戦う気がないことだけはわかった。
「なんもしないって誓うから遊んでちょ!ね、ネ?」
などと怪しさ満点な微笑みでにじり寄る男に、深山は頭痛を覚えて頭を抱える。
対して男はけらけらと明るく笑って、冗談交じりで深山に絡みついてきた。
「……標的と休日に遊ぶ隠者なんて、きいたことないぞ」
「いいじゃーん深山チャン。斬り結んだ仲っしょ?」
「ちゃん、はやめろ気色悪い!」
迫りくる男の腕を振り払ったり、また絡みつかれたり、振り払ったり、また絡みつかれたり。
どうしてこんなに懐かれたんだ、と疑問に思うくらいべたべたと引っ付いてくる。
最終的には自慢にしたい腕の長さを最大限に利用して、男の頭部を押さえつけて無理矢理に引き剥がすことで事なきを得た。
思い切り筋力を消費したせいで息切れを起こした深山の横で、男はようやく薄桜の存在に気づいたようだ。
「そこのオネーサンも……『はじめまして』、かな?」
「……えぇ、『はじめまして』。八重さまの小物を勤めさせていただいております、薄桜と申します」
「……?」
いつもと同じように、人当たりのいい笑顔で挨拶する薄桜。
しかしなぜか、深山には妙な間が気になる。笑顔もなんだか、普段よりもずっと硬い気がした。
「薄桜、仲良くしちゃだめよ!こいつ、く、くくくく……くちづけ、とかしてくるからね!」
「あら八重さま、三角関係ですか?火遊びも程々にしてくださいまし」
「誰が、誰とくっついてる前提の話かしらね!?」
八重は気づいたのか知らないのか、深山から見て普段通りに薄桜と接している。
やはり自分の気のせいなのかもしれない、そうだ考えすぎだ。
ここ連日、町に繰り出す八重の護衛で気を張り詰めて過ぎていた。その疲れが出たのだろう。
深山はそう考え直して、茶屋で一服したいという八重たちの後を追った。
「マジメな話」
と隠者の男が珍しく真剣な顔つきで口を開いた。
小田原で一番の茶屋で各々好きな菓子と茶を一杯注文して、食べ終わった頃。
茶屋の向かいにある小間物屋を見たいと八重が言い出し、男女に分かれて後で合流しようということになった。
それから半刻ほど、深山は名も知らぬ隠者の男と茶屋に入り浸っている。
その間の話題といえばどこそこの看板娘が可愛いだの、どこそこのお姫様が可愛かっただのと、主に女性の話題で、しかも男が一方的に喋くっているだけだった。
自身を年頃の男子と自覚する深山だが、浮ついた話を積極的にしたいとは思えない。
だからつい先ほどまでは、八重がいる小間物屋から視線を離さず、男の話を右から左へ受け流していたのだが……。
「お姫様連れて、小田原を離れた方がよさげよ?深山チャン」
という男の言葉に、深山は初めて目を向けた。
唐突に切り出された話題にしては、随分と重苦しいものだ。
しかし彼の真剣な眼差しは、やはりホラを吹くなどという不誠実からは、大きくかけ離れたもの。
深山もその実直さに応えんと、姿勢を正して口を開いた。
「俺は八重の守護役である以前に、小田原藩士だ。背中を向けることは許されない」
「元隠者のクセにお堅いなー。拾える命は拾っとくもんよ?」
真面目なだけではなく、お人好しな面もあるのだろうか。
みすみす自分の標的を逃がそうなどとは、とても見本のように冷酷な隠者とは思えない行動だ。
どうにも彼の内面が読めない。
なにか裏があるのではないかと、疑いをかけるべきなのか迷う局面だ。
身も心も自由を好む隠者。
ひとたび任務に身を投じれば、主人よりも自分自身が生き抜くためになんだってする。それが『隠者』たる者の所以。
いわば隠者の矜持、と表現しておくべきだろう。
————それを守るための、この言葉だとしたら。
「貴様の忠告は受け取っておこう。だが、もう決めたんだ」
ほんの少し撥ね退けるように言うと、深山はすっかり冷めた茶の残りを啜る。
男はそれで機嫌を損ねたわけではないようだが、代わりに疑うような半眼を向けて深山に尋ねた。
「……もしかしてさ、お姫様にホの字?」
瞬間。茶を啜る音がぴたりと止まった。
「…………」
湯呑みを持ったそのままで、深山の手が止まっていた。
深山の表情が強張っているように、男には見て取れる。心なしか、全身が青ざめたり紅潮したりと忙しない。
「……」
長い間がしばらく続き、深山がようやっと言葉を発した。
「イヤ……ソンナコトハ全ク」
「図星なんだね、深山チャン」
一見して冷静沈着で、動揺なんてしないような肝の据わった男————隠者から見た深山の印象は、おおかたそれだった。
しかし先日の口づけといい、今日といい、八重に関してはあまり冷静ではいられないのかもしれない。
多少の自覚はしているようで、動揺を見せてしまったことに赤面している姿は、年相応の青年そのもの。
隠者は内心でくっくと笑った。
————やっぱ、オレの勘は当たってたな。
深山と八重。
このふたりの関係はきっと、引っ掻き回せば回すほど面白い。
最初の印象よりもずっと、深山が動かしやすいのは幸いだ。八重はあの通りに、年齢に見合って単純な子供だとわかっている。
うまくすれば任務遂行だけでなく、最高の暇つぶしだってできるだろう。
「なんで?なんで好きになったん?馴れ初めは?どこまで進んだん?」
男の食い気味な質問攻めに、ひどく驚いた様子の深山だが、自覚なく男にいくらか気を許してしまったようだ。
それまでの頑なな態度とは一転して、素直に状況を話し始める。
「いや……事情があって、向こうは俺との本当の出会いを知らないんだ」
だから好かれているわけではないし、むしろ意地悪して嫌われてるんだ、と。
少し淋しそうにそう語る深山だが、
「えっ……?」
つい疑問符を乗せて意味のない声を発してしまうくらいに、部外者の男からしたら大きく違和感を抱いてしまう。
八重は深山に相当に懐いている、男からしたらそういう印象を受けている。
少なくともまったく嫌いではないだろう。
しかし深山には男の漏らした声が聴こえなかったようだ。
「でも————」
そう言いかけた声のちょうど向こう側から、八重の姿が男の目に映る。
「ちょっと、深山————」
————いつまでしゃべくってんのよ、もう出るわよ?
八重がそう叫び出す前に、深山の声が先行した。
「すごく大事にしたいと思ってるんだ、八重のこと」
「………!?」
ボッと炎が勢いよく飛び出しそうなくらいに、八重の首から上が真っ赤に茹だった瞬間を、男だけが見逃さなかった。
「へー……」
ここまで鈍いと、呆れて物も言えなくなるな、と内心で辟易した。
————ホンット、どこが『嫌われてる』だし。
いくらこんなに鈍でも、この男は元隠者にして歴戦の勇士だ。なるべく首と視線で双方に悟られないよう細心の注意を払い、男は気配だけで状況を把握。
幸いにもまだ深山は、八重が戻ってきたことに気がついていないようだ。
八重が隠れられるまでの時間を確保してやろう、となるだけ会話を引き延ばす。
「おっとこ前だね、深山チャン」
「なんかお前に言われると、激しく馬鹿にされてる気がするんだが」
「してないよ!そりゃ失礼な濡れ衣ってモンだぜ?」
「本当だろうな……?」
深山が男に嫌疑をかけて首をひねる間に、八重はどうにか物陰に隠れた。
それでもおそらく耳をそばだてているだろうと鑑みて、男はあえてこの話題を続けることにした。
「んじゃ、ずーっと片想いなん?しんどくね?」
「たまにな。もう言っちゃいたい、って思うよ。『俺が“深山”なんだ』って」
————?
このふたりの間になにがあったのか知る由もない男には、深山の言っている意味を理解できなかった。
だが彼らにとって重要そうな話だと、男はそう感じとった。
少なくともある程度は砕けた関係でなくては、話してくれないものだと確信する。
「よくわかんねーけど、言やあいいじゃん。なに無駄なこと我慢してんの?」
ここはあえて、素知らぬふりを貫いた。
いま強引に探りを入れるのは、時期尚早というもの。
あまり急いても、せっかく掴みかけた深山からの信頼を、早くも手放してしまう残念な結果になるだろう。
深山が望むような『根は真面目で真摯な青年』でいた方が、情報を得やすくなる。
「無駄なことってなんだよ、無駄って」
彼は素直に不服の表情を生んだ。
ほれ見ろ、皮が剥がれてきているようだ。
深山の抜けたような表情がだんだんと見えてきて、男は面白くなってきたと内外でほくそ笑む。
「だってお姫様以外にはバレバレだと思うよ、深山チャンの気持ち」
「そんなはずは……」
男のその笑みを深山はおそらく、『友人との談笑で浮かんだ自然なもの』とでも捉えているのだろう。
深山はすっかり、自分の手中に収まったも同然だ。
あとひと押しだ、もう少し……男はそのときを待っている。
「たぶんだけど、薄桜サンも知ってるぜ」
「あー……あのひとはまぁ、いろいろ鋭いしな」
深山としては、薄桜に露見することは前々から覚悟していたようで、別段に取り乱すことはなかった。
男の忠告には驚かされっぱなしで、喉が渇いたらしい。
深山は茶屋の看板娘からもらった無料の茶に手を伸ばし、ゆっくりと喉を湿らせた。
この手の割引や持て成しは、顔がいい深山からしたらよくあることなのだろう。
振り向けば深山に魅了されている女性が多く集まり、茶屋の一帯は賑々しくなっていた。
しかし決してそれに傲らず、丁寧な礼を述べて洒脱に草団子を二串注文し、一串を自然な流れで男に寄越す。
分け与えられた団子は蓬の味がよく出ていて、餅の弾力も程よい。
「一緒に住んでるんでしょ?今夜あたり一発やっちゃって、既成事実を……」
団子を堪能しながら、仲人を務めるオバチャンよろしく、オホホなんて冗談めかして笑ってふたりの仲に立ち入ってみる。
「お前、想像以上に下品だなぁ」
ははは、なんて深山の自然体でいい笑顔を、男は初めて見た。
普段から堅苦しい表情ではないが、ここまで人らしい顔は男の記憶のなかでは、覚えがない。
大抵は男が怒らせたり警戒させたりしていたからだが、もしかしたら八重も見たことがないかもしれない。
————いつもこんな顔してたら、八重チャンも一発で落ちるかもなぁ。
そう思えるほどに、深山の険のない笑顔は手放しで魅力的だった。
「あのサ」
切り出すならいまだ、と男は強く確信して口に出した。
深山の警戒心が、この上なく最大に緩んでいるこの好機。みすみす逃しはしまい。
「『貴様』とか『お前』じゃなくて、『吉野』って呼んでよ」
邪気のない爽やかな笑顔。まさに飾り気のない好青年。
ここまで完璧だと、隠者というより演者だ。
男はこれまでも、気まぐれでこのような遊びを繰り返してきた。
心を許した友人として這入りこみ、深山と八重の関係をぐちゃぐちゃに掻き乱してやりたい。
————キレイゴトなんていらない。
いざというときは、どうせ汚れた足の引っ張り合いになるんだから。
オレはオレが愉しみたいから、ヒトの心が壊れる瞬間を味わいたいんだ。
ただただ、ひたすらに。すべては趣味が悪い自分の余興のために。
ちょっと遊んでから任務遂行したって、別にいいよな。中間報告なんかは、テキトー作ればいいしさ。
恐れることはない。
任務のために得た立場なのだから、失うものなんてなにもない。
対して深山の表情は、なにかに戸惑っているような曇り空。
オレの気さくさに驚いてるのか?いいヤツすぎるもんよなぁ、オレ。
などと自身の演技力に内心で酔いしれる。
甘美なる味への探求に、心の内側で舌舐めずりを繰り返した。
————さァ……楽しい愉しいオトモダチになってくれよ、深山チャン。
しかし。
「呼ばない」
深山の答えは単純で、想像よりもずっと素っ気ないものだった。
————アレ?
予定外の結果に、吉野の思考は混乱をきたし始める。
おかしいぞ。
深山はオレに対して、だいぶ心を許してきたはずだ。
ここでぽーんと新たな友情が生まれて、ソレをじっくり育てて、肥大させて。
深山のなかで肥え太った《吉野》というかけがえのない大親友を、思い切りブチ壊してやるつもりだった。
これがその肝心な第一歩となる。
————だが。
その第一歩が、理由のわからないものに挫かれてしまった。
どうして、なんで、が吉野の頭のなかを激しく駆け巡って掻き乱す。
理由のわからないものに振り回されることが、吉野にとっては精神的抑圧感を覚えるもののひとつだ。
喉が渇き、心臓の脈動が不規則になっていく。じわりじわりと、額から背中から冷や汗が生じて肌を伝う。
しかし、ここで焦ってはいけない。
新たな好機を狙って、いまは誤魔化して退くとき。これは戦略的撤退だ。
そう自分に言い聞かせ、吉野は自分のなかに生まれたなにかを、必死で誤魔化すように。
深山の案外と逞しい腕へじゃれついて、何事もなかったかのように明るく振る舞った。
「あーん!深山チャンのイケズぅ!」
「一生呼ばない、死んでも呼ばない」
深山目当ての女性陣が輪を作って、「深山さま、お可愛らしいです!」などときゃいきゃい黄色い声をあげていた。
小田原城下一番の茶屋には、いつも通りの穏やかな空気が流れている。
その一連の様子を、八重は茶屋のすぐ隣にある物陰でずっと窺っていた。
先ほど耳にした深山の声が、脳裏で繰り返されて、永遠のように響いている。
————「もう言っちゃいたい、って思うよ。『俺が“深山”なんだ』って」
「……どういう、意味なの?」
口元を押さえてもなお、驚愕の声は漏れてしまった。団栗のように丸い瞳が、更に丸みを増す。
その言葉が指し示すところの意味。
八重が知らされていない真実。
————もしかして……。
八重が知っている『深山』の少女らしからぬ美しい面影と、彼の精緻な横顔が視界に映りこみ、ぴたりと重なる。
似ている、似すぎているとは思っていた。
他人の空似、などという問題ではなく……まるで同一人物かのような。
初夏の陽気には似つかわしくない、冷えた風が八重の背中を打つ。
深山が、あの……『深山』なの?