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旋灯奇談

旋灯奇談  第七話  傘こっくり

作者: 東陣正則


  第七話  傘こっくり


 玄関脇の小窓から、狭い路地を挟んでお向かいの家に目を走らせる。窓のガラスに映りこんでいるのは、鈍色の雲。そのドヨヨ〜ンとした曖昧模糊な空を一瞥すると、暎子は傘立てからコウモリ傘を引き抜いた。

 傘の柄を両の手の平で挟み、体の前に差し出す。

 目を閉じ、床に対して傘が垂直になったと思う点で、パッと両手を離す。

 傘の倒れる音。目を開けると、傘は暎子の右足を掠めるように転がっていた。

「暎子〜、今日の天気、どうなりそうだ〜っ」

 奥の台所から父のふやけた声が届く。パジャマからはみ出たお腹をボリボリと掻く姿が目に浮かぶ。

「降水確率九十パーセント、傘を持って出た方がいいわよ」

「分かった、父さん今夜会議で遅くなるから、メシはパスする」

 会議という言葉に瑛子の右眉がピクリと反応。

「私もーっ、劇団を退団する子の送別会があるの」

 瑛子は父親の黒いコウモリ傘を傘立てに戻すと、壁に吊るしたチェックの折り畳み傘を手提げ袋にねじ込んだ。そこにまた父の声。今度は洗面所からだ。

「来週の母さんの命日、父さん半休取るから、何か美味いものでも食いに行こう」

「期待しないで待ってる、行ってきまーす」

 朝らしく爽やか仕立ての声を返すと、暎子は下駄箱の上、横長のアクリルケースに目を向けた。中に折り畳みの傘が一本、工芸品でも飾るように置かれている。赤地に白い水玉模様の傘だ。暎子はその華やかな柄の傘に「行ってきます、母さん」と声をかけると、目で一礼、玄関のドアを開けて外に出た。

 建売住宅がマッチ箱を並べたようにひしめく一画である。

 門を抜けると、瑛子は家と家の間の狭い通路から頭上を振り仰いだ。曇り時々晴れ、ところによっては雨……と、どうとでも取れる予報を出したくなる空模様だ。

「でも傘の神様が雨って言うんだから、やっぱし今日は雨なんだろうな」

 暎子は傘の入ったバッグを手で押えると、セーラー服のスカートの裾を軽く跳ね上げ、通学の足を踏み出した。


 暎子が傘の倒れる方向で天気を占うようになったのは、小学校時代の友人の影響である。その友人は、天気だけでなく、遊びに行く場所や、着る服、食べるおやつの種類までも、傘を倒して決めていた。傘が自分から離れる方向に倒れればマイナス、自分に向かって倒れてくればプラス、つまり買い物なら買いと評価するのだ。この傘占いを、友だちは傘コックリと呼んでいた。

 そんなに何でもお伺いを立てて傘の神様が怒らないのと聞くと、傘神様は開けっぴろげの性格だから大丈夫と、友だちは太鼓判を押した。

 その友だちの真似をするうちに、暎子も傘占いが習い性になった。

 占いの良いところは、託宣が外れた時、神様に文句を言えばいいということだ。

 雨に降られたのは日頃の行いが悪いせい? などとクヨクヨしなくて済む。全ては神の思し召し。責任の押し付けといえばそれまでだが、宗教の効能というのは案外そんなところに有るのかもしれない、などと女子高生としては小難しい理屈を捏ねてみたりもする。傘占いよりも、スマホで気象情報をチェックする方が手っ取り早いし、信用できるのは百も承知のAKB。でも傘だって捨てたもんじゃない。

 傘には不思議な力が宿っているのだ。本当だよ、これ。

 

 母が亡くなり父との二人暮らしとなってすでに三年。

 母の代わりに家事をこなし、メシフロネル系のぐーたら失語症オヤジの世話を焼かなければならない私は、慢性的にストレス過剰の状態にある。そんなとき初めてデートのお誘いがかかった。友人の仲介で、相手は折り紙つきの進学校の生徒。堅苦しい相手に思えたが、送られてきた画像で見る限りイケメンだし、デートの中身は人気バンドのコンサート、なにより気分転換がしたくてオーケーした。

 当日の日曜日、前線が接近している関係で、テレビは午後からの雨を告げていた。傘占いをする間でもなく、今にも降り出しそうな重い雲が空にべったりと張り付いている。当然、傘持参のつもりで玄関に。と、いつも使っているチェックの折り畳み傘がない。そういえばと思い当たる。先日クラスの友人が遊びに来た時、帰りがけに雨となって、自分の傘を貸したのだ。今あるのは、父さんの黒いコウモリ傘と百均の透明の傘だけ。

 仕方なくピラピラの百均の傘を傘立てから抜き出しかけて、いくらなんでもこれじゃあねと手が止まる。そして目が靴箱の上、アクリルケースの中に向いた。

 赤地にピンポン玉ほどの白い玉が水玉模様のように鏤められた傘。

 白い玉の一つ一つは、追い掛けっこをする二匹の白いウサギを、ギュッと雪玉を作るように丸めた形になっている。パッと開けば、雨の中でステップを踏んで跳ね回りたくなる、そんな華やかで明るい傘だ。

 ウサギ年生まれの母が愛用していた傘で、母の形見でもある。

 母の死後、父は家具などは別として、母の体温が残っていそうな衣類や日用品を、全て二階の一室に押し込んでしまった。唯一の例外が、母が『うさ玉の傘』と呼んだ折り畳みの傘で、この傘だけは例外的に家の一番目立つ場所、玄関の靴箱の上にケースに収めた形で飾られた。雨や強い日差しを避けるための傘は、元来が厄除けや守り神の意味を持っている。父としては、「自分と娘が出かけて留守の間、家を宜しく」という想いを、母の傘に託したのだろう。その証拠に、父はいつも玄関を出しなに、母の傘に向かってパンパンと柏手を打つ。

 この可愛いウサ玉模様の傘なら、デートの小道具にもピッタリだし、話のネタに詰まった時にも役に立ってもらえるのでは。

 とまあ古風に胸算用のソロバンを弾くと、暎子は母の傘を拝借することにした。

 家を出てほどなく雨が降りだす。それに時計を見ると時間が押している。

 実は自分はエラの張った大顔だ。友人は気にするほどじゃないよと言ってくれるが、そこはデート。少しでも見栄えを良くしようと、フェイスラインを誤魔化すように髪を内側にふんわりカール、それだけだと少し印象が内向きになるので、毛先にラフなウエーブをかけたりと、あれこれ髪を弄っているうちに、時計の針が回ってしまったのだ。

 駅に急ごうと用水沿いの抜け道に入るが、コレが大失敗。水路沿いを抜ける風に煽られて、傘を飛ばされてしまう。

 逆さに浮いたウサ玉の傘が、水路をユサユサと流されていく。

 両側をコンクリで垂直に固めた水路で、下りる場所は駅とは逆方向。なんと傘を回収するために、二十分も時間をロス。それだけではない、髪も服もぐっしょりと濡れてしまった。オーマイガッ、いや仏様の日本人なら、ゴッドではなくオーマイブッダか。

 ええい、もう、泣きたい気持ちで「オクレマス」と、デートの相手にスマホで一報。

 なんとかコンサート会場へ。入り口で待っていてくれた彼が、私の様子を見て爆笑。細かいことを気にしない大らかな人かなと、その時は思ったのだが、韓流スターっぽいイケメンの彼は、コンサートが終わると、じゃなと言って振り返りもせずに去っていった。やはり気分を害していたようだ。

 ぽつんと一人での帰り道、生乾きの服が体に張り付いて不愉快千万。気分転換のつもりが、もっとストレスを呼び込む羽目になってしまう。天気と母の傘に八つ当たりをしたい気分だった。

 ただ憤懣やるかたない不快な気分も、翌日には解消された。

 学校で、同級生の一人が「昨日、コンサートに来てたよね」と、声を掛けてきた。その彼女が耳打ちして言うには、あのイケメンの彼は金にだらしがなく、付き合った女の子たちから金を借りては、それを踏み倒している。酷いのは、借りた金を悪友たちに又貸しして、その借金のカタに別の女の子を紹介させているというのだ。

 遊び人の彼としては、コンサートの後のコースも手ぐすね引いて考えてあったのだろうけど、現れた獲物が、みすぼらしい濡れネズミだったので、気勢をそがれて、さっさと帰ってしまったのだろう。

 デートが散々な結果に終わって良かったねと、友人は妙な慰め方をしてくれた。

 見方によれば、私は風で飛ばされた母の傘に救われたのかもしれない。

 私は母の傘を丁寧に洗って乾かし、元通りケースの中に戻した。そして父さんの真似をして手を合わせた。「ありがとう、お母さん」と。


 一週間後、次のデートのお誘いが掛かる。もちろん前回とは別の人。

 この日は快晴。でも念のために傘占いをすると、傘が自分の足の間に向かって倒れてきた。これって百%雨ってこと? ウッソーッと思ったが、神様のご託宣。荷物になるが、不承不承傘を持参することに。そして傘立てに手を伸ばして気づく。今回も私のチェックの折畳み傘がない。そういえば昨日の朝、出張でカナダに行く父さんが、傘借りるぞーって、叫んでいたような……。

 まったく、あのクソ親父。

 そのウンコ親父、さっき居間を覗いたら、脱いだ下着やカバンに詰め残した荷物が、泥棒でも入ったように取っ散らかしてあった。まったく私はあなたの奥さんじゃない、娘なの。どうして散らかし放題の後始末を私がやらなきゃ駄目なの。出張は一週間って言ってたけど、一カ月でも二カ月でも一年でも、ずーっと帰ってこないでと、声を大にして叫びたい。もちろん生活費は送って欲しいけど。

 でも文句を玄関のドアにぶつけてみたところで、私の傘が戻ってくるはずもない。

 仕方なく、今回も母さんのウサ玉の傘を持ち出すことに。

 今回のデートの相手は、私が通っている俳優養成所の先輩の叔父の娘のいとこ。ウーン、よく分からん繋がりだ。その彼が、先日たまたま劇団の練習を覗きにきて、私のことを目に留め、係累を辿りに辿ったということらしい。しかし、この先輩なるものを通されると断り難い。気乗りはしないが受けることにした。

 前回の轍を踏まないように、早起きして髪をセット、膝丈のガーリーワンピにデニムのジャケット、そして肩にはクソ親父が出張先のバンコックで買ってきた、偽グッチのショルダー。デートにはいささか大きいが、傘の入るバッグがこれしかなかったのだ。まあ生地は本物の、スーパーコピーだから良しとしよう。

 で、地味―っに、駅の改札口で定刻に落ち合う。

 とその彼、見上げるほどの長身だった。髪も自毛のようだが茶髪っぽい。細面のマスクもまあまあ。印象でいえば北欧執事風。物腰も紳士的で柔らかい。

 一緒に映画を見て、天気もいいので、そのまま初秋の公園に繰り出す。泉水脇のベンチに座って、十代お決まりの柔らかトーク。趣味の話になってオッとビンゴの鈴を鳴らす。デザインや演劇に興味があるという。俳優修行をしている私にとって、これは二重丸。思った以上に話は盛り上がるし、途切れない。これは当たりかもと思い始めたところに、水を差すように、にわか雨が降り出した。

 彼は手ぶら。いそいそと偽のエルメスから母の傘を取り出す。デザインに関心があるなら、ウサ玉模様の傘を面白がってくれるだろうと、せこい点数かせぎの思惑もチラチラ。実際、傘を広げる前から、彼の目はウサ玉の模様に貼り付いていた。

 私がもたもたしていると、彼はヒョイと傘を取り上げ、「へーっ、このウサギ、ちゃんと赤い目玉も入ってる」と、嬉しそうに傘を頭上に広げた。

 最初のデートで相合傘かとほくそ笑んだとき、開いた傘の中から人指し指ほどのものが、彼の手元に落ちた。

 直後、彼の体が固まり、雷でも落ちたような悲鳴がベンチの上に響き渡る。

 休憩所の屋根の下に逃げ込む人たちが一斉にこちらを振り向くなか、彼は傘を手にしたまま、その場にぶっ倒れた。

 彼の手の甲から弾き飛ばされた四つ足の生き物が、ベンチの上を、ヌタッ、ヌタッと匍匐前進を開始。ベンチの裏に姿を消す。なんとヤモリだ。どうやら前回傘を洗って干した際に、傘の中に潜り込むか落ち込んで、それに気づかず傘を折り畳んでしまったらしい。

 舞台が暗転するように、二度目のデートは幕が下ろされた。

 その後、彼から連絡はない。もち、こちらかも取りたいと思わない。登録した連絡先も直ぐに消去した。後から知らされたが、先輩の話では、彼が興味のある演劇とは宝塚だった。男役の女性が好きで、私の演技にその匂いを嗅いだということらしい。失礼したもんだ。デートが駄目になって幸い。ブウ。

 私は、母の傘を干して乾かし、ついでに殺菌スプレーもシュッと一振り。ケースに戻した。そして傘に向かって謝辞を述べた後、「お母さん、次回からは、もっとスマートな方法で警告して下さい、お願いします」と一言注文を付けて、パンパンと柏手を打った。

 

 私がシナリオライターなら、この二回のデートの失敗を伏線、もしくは教訓にして、第三幕でどんでん返しのハッピーな出会いを用意するのだが、現実問題デートはこりごり。当分は俳優修行一筋と心に誓う。その気合いが通じたのか、親劇団の新作公演の学生役に、劇団の主任が推薦状を書いてくれた。

 競争は厳しいが、頑張って来なさいと背中を押される。

 そのオーデションの当日、私はカバンの中に母の傘を忍ばせた。雨とは関係ない、お守りである。母さんがいい結果に導いてくれそうな気がしたのだ。

 二十人ばかりの候補からの選抜である。関係者が取り囲む中で与えられた課題を演じる。

 この視線に切り刻まれる感じが堪らないと、見栄で余裕ある表情を装っていたのが災いを呼ぶ。のっけから演出家の先生に「声にならない叫び声を、ホールに響かせてみて」と、癖玉の課題を投げつけられた。演技というのは考えてしまったら駄目。こういう設問は、役者の臨機応変、懐の深さ、頭の回転を見るためのものだ。それは重々分かっていたが、役者の卵のそのまた卵の私に、脳みそに体を即応させるテクニックはなかった。頭に血が上った私は、喉から声が出ず、酸欠の金魚のように口をパクパクさせてしまった。

 傘神さまの加護は、舞台の上には届かなかった。結果は散々。勝気を自認する自分も、人並みに、いや並以上。てんこ盛りの豚玉丼のように落ち込んで、劇団を後にした。逃げるように電車に飛び乗り、乗り換えのために地下鉄から地上に。

 路上に雨が跳ねていた。悔し涙の涙雨。涙に雨が混じる。

 直ぐには家に帰る気になれなかった。それに緊張が抜けたせいで、無性にお腹が空いていた。ところが週末の夜の雨降りで、駅前のスタバにファストフードのお店はどこも満席。仕方なく空き席の見えたカフェ風の店に入る。ところが値段は高いし、周りの客はカップルやグループばかりで、一人身の自分が侘しく、余計に落ち込んでしまう。パフェを食べて早々に店を出ようとして愕然とする。傘立てに入れたはずの母の傘がない。

 誰かが持っていったらしい。慌ててレジに戻って店員に事情を説明するが、バイトらしき男性は「傘の特徴と連絡先を書いておいてください」と言うだけで、後は知らんぷり。余りのつっけんどんな態度に、代わりの傘を貸してくれとも言い出せず、ムカムカしながらメモを渡して引き下がった。

 打ちひしがれたまま駅に向かう。霙のような冷たい雨が肩に髪に降りかかる。

 特徴のある傘だ。間違って持っていくなんてことは考えられない。面白そうな傘なので失敬したに違いない。悲嘆、詠嘆、リポビタン。んーっ頭が壊れる。

 なんてことだろう、こんな日に、それも母の傘を盗まれるなんて。

 靴箱の上のアクリルケースがポッカリ空になった情景が、目に浮かぶ。

 出張中の父さんが帰ってきて、傘が無くなっているのを見たら何て言うだろう。思い返せば、小学校の卒業式、桜の花びら混じりの春雨の下を、うさ玉の傘を広げて母と相合傘で並んで歩いた。そんな思い出も、傘とともに盗まれてしまったようで悔しい。腹立たしい。考えるほどに心が萎れてしまう。

 重い足取りで駅の階段を上がる。と、虚ろな視線の端を見慣れた傘が横切った。鮮やかな赤地に白い玉模様、母さんの傘だ!

 階段の上で、雫の滴る傘を手にしているのは、労務者風の若い男。

 その瞬間、暎子は「ドロボー」と叫んでいた。

 鬱屈した重苦しい気持ちが、破裂しそうなほどに胸の内にわだかまっていた。それにボイストレーニングで鍛えた喉、自分でも想像できないほどの大きな声が口から弾けた。

 周囲の人が一斉に何事かと足を止める。

 血相を変えて階段を駆け上がってくる女子高生に、傘を手にした青年が「オレッ?」と自分で自分を指す。階段を二段飛ばしで駆け上がった暎子は「返してよ、私の傘」と怒鳴りざま、母の傘を青年からもぎ取った。そして噛み付くような形相で相手を睨み付けた。もっと何か言ってやりたかったが、血が頭に上り過ぎて声が口をついて出てこない。

 その顔を紅潮させた暎子に「どうされましたか」と、後から声がかかった。

 

「お騒がせしました」と謝り、作業服姿の青年に続いて駅前の交番を出る。

 暎子に後ろから声を掛けてきたのは、巡回中の警察官だった。暎子がドロボーと叫んだこともあり、二人は派出所に呼ばれて事情を聞かれた。

 とんだ誤解だった。

 油染みのある作業服姿の彼は大学生で、階段の下り口に開いたままの傘が転がっているのを見て、通行の邪魔になるから脇にどけようとした。その傘を拾い上げた瞬間を暎子が目撃、傘どろぼうと勘違いしたのだ。彼は駅の構内から外に出て行こうとしたところで、デイパックの中には、彼自身の濡れた折り畳みの傘が入っていた。

 派出所の前で暎子は平謝りに腰を折ったが、青年は憮然としたまま暎子に背を向けた。なんて日だろう。厄日というのがあるとしたら、今日のような日をいうのだ。

 電車の発着を知らせる電光掲示板は、暎子が乗るべき電車がつい今しがた発車したことを知らせている。何もかもが私に意地悪をしている。濡れた母の傘がずっしりと重い。

 警察で聴取を受けた緊張もあってか、喉が引きつるように乾いていた。

 暎子はキオスク横の自販機に駆け寄ると、コインを押し込んだ。が、ここでも冷えたコーヒーを飲むつもりが、ホットを押してしまう。もう何をやっても駄目。

 出てきた缶が、腹がたつほど熱い。アチチッと持ち手を左右に交換。と腕を動かしたおかげで、脇に挟んだ傘が足元にストン。濡れたままの傘なら転がらないが、傘用の細長いビニール袋に押し込んだ傘は、行儀良くコロコロと前方へ。ちょうどキオスクで新聞を買っている人の足元で止まった。

 その瞬間、暎子は息が止まる思いがした。後ろ半身だが油染みの作業服に見覚えがあった。さっきドロボー呼ばわりしてしまった大学生だ。

 とっさに暎子は背を向けた。彼が傘に気づかないことを願いながら、熱々の缶を服の裾に包んで握り締める。

 目を瞑って祈る暎子の頬に何かが触れた。薄目を開けると、自分の肩越しに傘の柄が突き出されていた。背を向けたまま右手を上げて傘を受け取る。とその拍子に、服の裾で包んだ缶がツルッと下へ。足元で大きな音を上げて缶が跳ねる。缶はそのまま床をコロコロ。追いかけようとして腰を屈めた拍子に、今度は傘が手から離れて、逆方向にゴロン。もう嫌だ。何やってんだろう、私。

 顔を歪めた私に、笑いを堪えた青年の顔が見えた。

 

 私はデートの第三幕を書くつもりなど、更々なかった。

 なかったが、それは向こうから押しかけてきた。あの日あの時、青年は白い歯を見せて大笑いをした。そして、ひとしきり失礼千万の笑いを吐き散らすと、こうのたまった。

「どうやら、君は気を落ち着ける必要があるようだね。バイト代も入ったところだから、お茶でもおごるよ」

 やけくそになっていた私は、誘いに乗った。そして駅カフェでスパゲッティの大盛りを注文、追加でマロンケーキと紅茶も。ゲップ。おっと失礼。

 彼は心理学を専攻する大学生で、今日はバイトの倉庫作業の帰りだった。彼としては、目の前に現れた女子高生の粗忽ぶりが、生来の性格から来るものか、それとも気もそぞろになる出来事が降りかかってのことなのか、確かめてみたくなったらしい。

 一時間ほど世間話をして別れた。

 彼の分析の結果を聞きそびれてしまったのは残念だが、今日の記憶を全て頭の中から消してしまいたい自分としては、もうどうでもいいことだった。布団に入って、消去消去消去と羊を数える。とその私の小羊たちを、電話の音がオオカミとなって追い払う。

 もう、誰よ、こんな時間に!

 寝ぼけ眼で受話器を取った私の耳に、彼の声が跳び込んできた。

「また会わないか」って。え、なに?

 羊の姿が完全に消え去った頭で、必死に状況判断に努める。彼、心理学の研究対象として、私に白羽の矢を立てたのだろうか、それとも……。 

 ちょっぴり期待を抱く私の気持ちを見透かすように、彼が「待ち合わせには傘無しで来なよ、雨が降ったらボクの傘に入れて上げるから」ときた。

 やはりこれはデートのお誘いだ。ウソ、マジ、ほんと? ありえな〜い。

 傘のご利益が天に届いたらしく、予期せぬタイミングで第三幕が開幕。

 さて三度目の正直はどうなることか。

 でも正直今回に限っては、秋だけど春の期待にわくわくする暎子なのでした。

 

 とまあ、先月の井戸端便り秋のボーイミーツガール特集号に、ほんわか軽い乗りの怪異譚が掲載された。

 それからしばらくして、当の桑原暎子から太市にメールが入った。

 相談事があるという。ネタを提供してもらったし、中間試験明けで時間もあったので、放課後、冥星学園近くのスタバで落ち合うことにした。

 取材で話を聞かせて貰ってちょうど一カ月。

 暎子は、太市が東京に出てきて半年だけ在籍した地元中学の同級生である。アゴの張ったメガネ顔に加え、生徒会で書記を担当していたこともあって、中学当時は四角四面な子という印象だったが、女子高に入り俳優養成所に通うようになって、喋り方や立ち振る舞いの堅苦しさが取れ、随分と大らかになった。美人ではないが骨格のはっきりした顔は、性格俳優として女弁護士の役でもやれば似合うのではないか。

 ひとくさり近況をだべると、本題に入る。

 彼女の相談事というのは、父親の女性関係についてだった。

 怪異譚では、プライバシーに配慮して、現実に部分手を加えて話を再構成してある。たとえば作中では、暎子は二年前に母を亡くしたことになっているが、実際は四年前。つまり父親との二人暮らしは四年である。その父親が今、娘の暎子に内緒で女性と付き合っているという。その相手がどういう人か探ってほしいというのが、今回の依頼だ。もちろんちゃんと興信料は払うというのだが……。

 人の家庭のプライベート、それも惚れた腫れたの愛憎問題に首を突っ込むのはトラブルの元なので断わろうとした。それが暎子の「ぜひ」という押しの強い一声に、つい引き受けてしまう。もちろん二万円という報酬に釣られたのも事実だが……。

 調査の内容を具体的に聞くと、暎子の要望はさほど難しいことではなかった。父親と相手の女性が行きつけにしている喫茶店に出向き、近くのテーブルに座って、さりげなく二人の会話に聞き耳をたてる。できれば会話を録音するというものだ。暎子は二人の会話を実際に自分で聞いてみたいという。男女の微妙な関係は、声のやりとりを聞けば相当部分推測がきくからだろう。


 実行の日。

 太市は冥星学園の西、私鉄沿線の駅前に足を運んだ。

 目指すは駅から一本離れた幹線沿いのレンガの壁が似合う純喫茶、名前はローゼン。暎子自身の調査では、彼女の父桑原恒明氏と、お相手の古川晴美の二人は、毎回同じ時刻に同じ席で待ち合わせをしているという。目的の席の隣、植え込みで仕切られた二人掛けのテーブルに席を占めると、太市は本やコピーをテーブルに広げ、レポートでも纏める振りをして二人が現れるのを待った。飲食代は経費で請求してと言われていたので、店の名前を冠したローゼンブレンドなるコーヒーを頼む。本当ならビールが飲みたいのだが、メニューにあるカップの写真に『ローゼンタール・ヴェルサーチ・メデューサー・モデル』と長ったらしい名前が振ってるのを見て、興味が湧いたのだ。

 まあ、それはいいとして……。

 暎子が二人の関係に気づいたのは三カ月ほど前で、きっかけはこうだ。

 桑原家は、東のJRと西の私鉄のちょうど間、冥星学園の近くにある。怪異譚の中では一軒屋に設定を変えてあるが、実際はマンション住まい。それはそれとして、氏は自身の健康を考え、私鉄を越えて直ぐの所にある会社まで毎朝歩いて通勤している。徒歩三十分の行程である。一方、暎子の通う女子高はJR寄りにある。つまり二人が通勤通学の途上で顔を合わせることはない。

 ところがある日のこと。他の劇団の練習に参加した瑛子は、先輩の車に便乗させてもらい私鉄の駅前で下車した。まだ最終のバスに間に合う時間だったが、夜風が気持ちいいので瑛子は歩いて帰ることにした。そしてぶらぶらと歩き始めて気づく。仲睦まじく手を繋いで歩く目の前のカップル、その後ろ姿の男性が、自分の父親だということにだ。もちろん父といえども男だから、異性の友人がいても可笑しくはない。しかし今朝、父は会議で遅くなると言って家を出たのだ。

 二人の逢引のパターンは至極単純。父が会議で遅くなると告げた日が、その日だ。

 喫茶店で待ち合わせ、その後食事をして彼女のマンションにというのが、お定まりのコース。父親の素行を説明するうちに、怒りが込み上げてきたのか、暎子が指先でコツコツとテーブルを叩き始めた。

「母の亡くなる直前、父が何て言ったと思う。俺は絶対に再婚しないと誓ったのよ。私は、父が母との約束を破ったことが許せないの!」

 言葉を叩きつける暎子のまなじりが、演技ではなく本当に吊り上がっていた。

 コーヒーを注文して待つこと十分、すらりとした縦長の美しいカップが運ばれてきた。ほとんど同時に、事前の情報通り恒明氏が店に入ってきた。背広姿、黒い革のカバンを手にしている。アゴの張り具合が暎子そっくりで思わず含み笑いを漏らしてしまうが、恰幅のいい体型で少し身を反らし気味に歩く姿は管理職然としている。

 それが椅子に腰を落とすなり、体から芯が抜けたように屈み込んで眉間に手を当てた。疲れが溜まっているようだ。

 数分遅れで、相手の古川晴美が店の扉の鈴を鳴らす。

 彼女の気配を感じたとたん、恒明氏が背筋を伸ばした。

 実際に目にすると、五十二歳の恒明氏と比べて、明るいグレーのスーツ姿の晴美さんはかなり若く見える。三十半ばと聞いていたが、二十台後半でも通用するだろう。エルメスのスカーフがお仕着せでなく似合いそうな、落ち着きと溌溂さが調和した、いかにも仕事の出来そうな女性だ。

 晴美さんはコーラルフードデザインと事務所の名が記された封筒を、小脇に抱えていた。恒明氏もコンサルタント会社の社名入りの封筒持参なので、一見すると仕事の打ち合わせで待ち合わせたように見える。

 太市は耳に当てたイヤホンを指で押えつつ、ボイスレコーダーのスイッチを入れた。カバンに差したペンシル型のマイクは、衝立の間を通して、後ろの座席に向いている。指向性のマイクで拾った音をレコーダーに飛ばし、さらにイヤホンで聞くのだ。二人の会話がくっきりと耳に飛び込んできた。ただ感度が良すぎて、耳もとで喋られているようでくすぐったい。打ち解けた話しぶりは、仲の良い友達といったところか。

 軽く雑談を交わすと、二人は仕切りを直すように「それで」と口にした。どちらが先に話すのか、それを二人が譲り合っている様子が、音の響きで感じられる。

 晴美さんが促したのだろう恒明氏が口を開いた。

「ドバイ行きの件、正式な通知はあったのかい」

「ええ、今朝部長から」晴美がやや重い口調で受けた。

「でも受諾するかどうかの返事は、一週間ほど待ってもらいました、家族と相談してからということで……」

 顔を寄せて話し出したようで二人の声がくぐもる。イヤホンのボリュームをアップ。マイクをセットしておいて良かった、生の自分の耳では絶対に聞き取れないレベルの音だ。部分聞き落とした点もあるが、二人の会話の内容を要約するとこうなる。


 晴美さんの勤めている会社は、海外に事業を拡大しようとしてる食品メーカーや外食産業を対象に、コンサルタント業を行っている。今度中東に日本食の店を展開することになったファミレスチェーンに、彼女がコーディネーター役として出向することになった。男性社会のイスラム圏への出店で、あえて女性の彼女に白羽の矢が立てられたのは、彼女がアラビア語に堪能であることと、日本国内でのハラール食の流通を担当していたことに拠っている。抜擢といってよい人事だが、海外勤務に就けば、当分は日本に戻れず、家族の反対も予想される。そのこともあり、彼女は要請を受けるかどうか、一週間ほどの猶予を会社に願い出た。

 話を聞いているうちに、彼女の口にした家族というのが、親族ではなく、恒明氏を指しているのが分かった。キャリア指向の彼女にとっては念願の海外勤務だが、女性にとって三十半ばは人生の分岐点でもある。それは家族を持ち自分で子供を生む人生を歩むかどうかということだ。晴美さんは、恒明氏が再婚を決意してくれるなら、海外行きを断念してもいいと考えているらしい。

 一方、海外への赴任を受諾するかどうか、サイを振られた格好の恒明氏は迷っている。氏が言い訳めいて口にしたのは、亡くなった女房に再婚はしないと約束したことだ。口約束に過ぎないが、それでも、いまわの際の誓いで、ないがしろにはできない。それに娘の気持ちもある。娘にはまだ付き合っている女性がいることさえ知らせていないのだ。

「難しい年頃なんで話しそびれてきたんだが……」

 そうこぼしつつ恒明氏は決意の秘めたように面を上げると、真剣な面持ちで言葉を口にした。自分にとって再婚の相手は君しか考えられない。今この場では即答できないが、数日中には諸般の問題を解決、娘を説得して君に返答するつもりだ、と。

 会話が途切れ、店に流れるジャズの音が耳に広がる。さらに砂を流すような雑音も……。

 二人の会話に集中していて気がつかなかったが、雨になっていた。窓の外、軒先に置いた鉢植えのドラセナの葉が、雨だれを受けて上下に揺れている。

 その後二人は、十分ほど事務手続きでもするように雑談を交わすと、席を立った。

 レジに向かいつつ恒明氏が「中華粥の旨い店を見つけたんだが」と夕飯を誘うが、晴美さんは「社に戻らないと駄目なの」と首を振った。

 店の外に出た二人を目で追いつつ、太市がペン型マイクを窓の隙間から外に向ける。店内に流れる軽いタッチのピアノの音が、雑踏の音に切り替わる。

 雑然とした音に混じって、「会社の前まで送るよ」と恒明氏の声が聞こえた。

「娘の傘なんだが」という言葉に目を凝らすと、ちょうど氏がカバンから取り出した傘を広げようとするところだった。しかしハリが引っかかったようで開かない。それを見て、晴美さんは恒明氏の手を押さえると、自身のバッグから傘を引き抜いた。

 そしてハラリと傘を広げると、恒明氏に軽く手を振り雨の中を歩き出した。

 開きかけの傘を手にしたまま、恒明氏は彼女を見送っていた。

 太市にとって、男女の、それも大人の男女の親密な会話を耳にするのは初めてだった。新鮮な経験ではあったが、取材ならまだしも、盗み聞きはやはり後味が悪い。太市はその夜、録音した音声のメモリーを暎子の住むマンションの郵便受けに投函すると、追っかけメールで結果を報告した。一時間ほどして暎子から謝礼の電話が入る。メモリーを再生して聞いたという。お疲れ様という労いの言葉が返ってきた。

 とにかく義理を果たして一件落着、太市は安堵の息をついた。

 ところが翌日、思わぬ人物から太市に連絡が入った。


 三日後の土曜の午後、太市はローゼンで暎子と待ち合わせた。

 探偵ごっこの謝礼の受け渡しでローゼンを指定したのは暎子だ。父親と出くわしたら拙いだろうと心配する太市に、ケータイの向こうで「父は出張中!」と、瑛子が声を弾ませた。太市が席に腰を落ち着ける間もなく、その暎子がやってきた。

 膨れた買い物袋を提げている。私鉄側のスーパーで買い出しをした足らしい。

「そんな大荷物を下げて家まで歩くのかよ」と太市が感心していると、「安売りがあると、つい買っちゃうの、駄目よね」と、暎子が主婦のように肩で息をついた。

 椅子の上に置いた買い物袋からチェックの傘が覗いている。

「傘持参ということは、この後雨になるということかい」

 瑛子がまさかと首を振った。

「買い物の時は天気に関係なく傘持参。前に突然の夕立で酷い目にあったから」

 椅子に座ると、暎子は忘れないうちにと、太市の前に茶封筒を置いた。

「助かったわ、私がやってばれたら後が面倒だもの。お礼に劇団の定期公演の招待券も入れといたから」

「分かった、でも謝礼を受け取る前に一つ確認しておきたいんだけど」

「何を?」とニコニコ顔で聞く暎子に、太市が少し言い難そうに口にした。

「ミニコミに載せた傘コックリの話、あれ、実際に暎子が体験したことだったのかな」

 意味が分からないとばかりに首を傾げる暎子に、太市が話を続ける。

「井戸端便りに載せる怪異譚は実録にこだわってる。読者もそれを知ってるからだろうけど、今回の話は作り物っぽいよなって感想が、結構な数、寄せられたんだ」

 要するに、あの傘コックリの元となった暎子の体験というのは、作り事、創作ではないかという指摘だ。

 にこやかだった暎子の眉が尖り、表情が裏を返したように引き締まった。

「失礼しちゃうわね、誰がそんなことを言うのよ」

 憮然として腕を組んだ暎子の前に、太市がデパートの包装紙で包んだものを置いた。

「これを見てもらいたいんだけど」

 包みを開くと、中から折り畳みの傘が出てきた。

 赤地に白の水玉模様、傘コックリの話で登場したウサ玉柄の傘だ。

「これ、君のお母さんの傘だよね」

 傘を目にした暎子が身を硬くした。先ほど家を出る際、暎子は靴箱の上に飾られた母の傘を見ている。ここに母の傘があるはずなかった。すぐに傘止めのバンドに書き込まれた名前を確認。黒のマジックで『桑原ゆり』と書かれている。母の名だ。

「うそ、どうして?」

 信じられないとばかりに名札をじっと睨みつける暎子に、太市が問い掛けた。

「玄関に飾ってあった傘に、お母さんの名前が、どう書かれていたか覚えてる」

「どうって、これと同じ、桑原ゆりよ」

「姓じゃなくて名前の方、『ゆり』は漢字だった、それとも、ひらがな?」

 はっとして宙を見据えた暎子に、太市が澄ました顔で言った。

「玄関にある傘には、漢字で『由里』と書かれているはずなんだけどさ」

 それを聞いたとたん暎子が太市に向けた目をスッと細めた。

「どうしてあなたが、そんなことを知っているのよ」

 射抜くような鋭い視線で太市を睨む。慌てて太市が言い繕った。

「ゴメンゴメン、説明が後になった。昨日、君のお父さんから電話を貰ってね、会って話をしたんだ。傘はその時に預かったもの。つまり、ウサ玉柄の傘は二本あるんだ」

「二本!」

 思わず口から飛び出した大きな声に、暎子が自身の口を押さえた。

  

 もう昔の話になるが、暎子の母親の由里は井戸端便りの創刊に関わっていた。その縁もあって、夫の恒昭氏は、妻の死後も井戸端便りを購読、毎号欠かさず目を通している。だから氏は傘コックリの話を読んで直ぐに、コレは娘の体験談ではないのかと気づいた。

 母親が亡くなってからの年数や、住まいのマンションが一軒家に代えてあることを除けば、設定は桑原家そのものだし、なにより玄関に傘が飾られ、それがウサ玉柄というのが同じだ。娘の目から見た父親のメシフロネルの描写には苦笑したが、そう言われても仕方が無いのは確か。それよりも気になったのは、娘が女房の思い出の傘を実際に使っているということだ。傘は紛失しやすい。持ち歩いていれば、いずれ置き忘れて失くしてしまうこともある。

 案じた恒明氏は、ネットのオークションで、リサイクル物ではあるが同じ傘を見つけると、即座に購入、玄関の傘と入れ替えた。その際、氏はうっかり傘留めのバンドに『桑原由里』と、亡き妻の名を漢字で書き込んでしまう。名前の字面が固くなるのを気にして、妻は、普段使いの物には、『由里』を、『ゆり』とひらがなで書き込んでいた。そのことを失念していた。

 後で気付いて舌打ちした氏だが、逆に思いついて、傘を入れ替えたことを娘に知らせなかった。いつ娘がそのことに気づくか、それを楽しみに待つことにしたのだ。

 そして傘を入れ替えた翌朝、「劇団で傘を使った練習があるの、お父さんのコウモリ傘を貸してね」と、暎子が傘の借用を申し出てきた。もちろん了承。娘の後を追うように氏も玄関へ。すると傘という傘が一本も残っていない。天気予報は下り坂を告げている。仕方なく氏は娘の真似をして、飾ってある妻の形見の傘を使うことにした。気兼ねはない。なにせ前日に自分が入れ替えたニセモノの傘なのだ。

 仕事を終え、喫茶店で晴美と落ち合う。植え込みを挟んで隣のテーブルに、娘の手配した高校生が様子を窺っていることなど露知らずにだ。いつもならその後食事に行くのだが、彼女が仕事を残していたので、その日はそこまで。そして喫茶店を出て、彼女を会社まで送るべく氏が傘を差しかけようとして、傘が開かなかった。彼女は笑って、またねと言い残して自分の傘をバッグから取り出した。

 立ち去る彼女を見送りながら、氏は何がしの違和感を感じていた。

 中古の傘である。送られてきた傘を梱包から取り出した際、氏は傘に不具合がないことを念入りに確かめている。

 本格的に降り出した雨に喫茶店の中に戻り、もう一杯コーヒーを飲みながら傘をチェックする。すると傘の針の継ぎ目のピンが外れていた。

 偶然かそれとも……、と思ったとき、先ほど傘が開かないのを見て、彼女が冗談交じりに口にした一言が脳裏に蘇る。氏がとっさについた「娘の傘なんだ」という言葉に、晴美が応じた「娘さんが嫌がっているかしら」の一言が。

 もし自分が彼女に差しかけた傘が、本物の女房の傘で、開かなかったとしたら。彼女は亡くなった奥さんが二人の関係を嫌がっているのではと思ったことだろう。自分にしても、女房が二人の関係に抗議しているのではと、受け取ったはず。なにしろ娘に対して守護神のような働きをしている傘なのだ。

 そこまで考えて、氏の中にある考えが浮かんだ。

 これは娘が仕組んだことではないのか。父親が女性と付き合っているのを知った娘は、反対の意思を表明するために策を弄した。

 娘は父親が井戸端便りの愛読者であることを知っている。誌面にうさ玉の傘の話が載れば、読んだ父親は、信じる信じないは別として、亡き妻の想いが傘に乗り移っていると思い込むだろう。その傘にこっそり細工を施し、上手く雨降りの日に父に持たせれば……。

 どういうタイミングで父が傘を使うことになるかは、運が左右するだろう。しかし開くシチュエイションにさえなれば、父親は何がしかのメッセージを傘から受け取るはず。

 太市の説明に暎子がフンと鼻を鳴らした。

「それで、私に何を白状させたいわけ、あの話の真偽なの、それとも……」

 棘のある開き直ったような瑛子の口ぶりに、太市が指先を小さく振った。

「いや傘こっくりの真偽はいいんだ。それよりも、ボクに調査を依頼した時、君はすでにお父さんと晴美さんが、抜き差しのならない関係に陥っていることを知っていた。だからこそ、手の込んだ意思表示の悪戯を仕組んだ。でも知っていたなら、なぜボクに調査を頼んだんだろうって、それが不思議でね」

 暎子が、フーんとあごに手を当てた。

「記者をやる人って、そういうことに気が向くんだ」

 感心したように太市を斜めに見やると、暎子がケロリとした顔でそのことを口にした。

「ご明察よ。私が二人の関係に気づいたのは、母が亡くなった年の冬、もう三年も前のことになるわ。疑うきっかけは怪異譚の話の通り。あの頃から、父は彼女と会う予定の日は、会議で遅くなるって言い訳をするようになった。それが週一のペースで、この夏まで続いた。余りに同じペースなので、父には二人の関係を進める気は無い、仕事の息抜き、悪く言えば遊びで付き合ってるんだろうって思ってたの。それが突然、会う回数が増えてきた。出張といって家を留守にする日も半端じゃない。これは何かある。もしかしたら子供でもできちゃったかな。そう考えて、こっそり父のケータイをチェックしたけど、彼女とのメールにそれらしい文面は見当たらない。状況が掴めないということは、苛々するものよ。わたしこう見えて、せっかちなの。だからあなたに頼んだ」

 なるほどと頷きつつ、太市が念を押すように問い掛ける。

「でもそれなら、自分で聞いたほうが手っ取り早いだろう。誠実そうなお父さんじゃないか。今回のことを話すと、お父さん、反対なら反対って、はっきり言ってくれればいいのにって、憤慨してたよ」

 屈託のない顔で話す太市に、暎子が呆れた表情を浮かべた。

「あのね、会話のない男親と年頃の娘というのは、会話のない夫婦よりも難しい関係なの。男女の問題ともなれば尚更よ。それによく言うわよ、あのクソ親父、自分はメシフロネルしか言わないで」

「でも、君に彼氏が出来たことは、率直に喜んでいたけど」

 暎子が小鼻をフンと膨らませた。

「娘の私が、家事と俳優修行にてんてこ舞いで、恋愛する暇なんてどこにもないのを知ってるくせに、よくも単純に彼氏の存在を信じられるものね」

「いや、お父さん、君が家の事で大変だということは理解してると思うよ。だから少しでも君の負担を減らしてあげようと、再婚を考え……」

「こそこそ、逢引してたってわけ?」

 父親に成り代わっての太市の弁明を、暎子がぴしゃりと撥ねつけた。

「母さんが亡くなったあと、俺は一生独身を通すぞって大見得を切ったのよ。それが半年もたたないうちに彼女を作った。母さんとの約束はなんだったのよ。大体相手に失礼でしょ。子供、それも高校生の娘ために再婚するなんて。私、付き合ってる相手のことが気になったから調べたわ。晴美さんて優秀な女性よ。アメリカの大学を卒業してるし、今は会社でプロジェクトリーダーを任されてる。順調にいけば管理職だって夢じゃない。彼女の今後のキャリアにとっては、今が正念場なの。許せないのは、クソ親父のほう。女性が子供を生む人生を送ってみたいという気持ちを利用して、彼女を家庭に取り込もうとしているんだから」

 なるほどそこなのかと、太市は得心がいった。調査を頼まれたときから、暎子の苛々が、相手の女性よりも自身の父親に向けられているのが引っ掛かっていた。おそらく俳優修行をしながら必死に自分の夢を切り開こうとしている暎子にとっては、父親などよりも、晴美さんの方が遥かに身近で思い入れの出来る対象なのだ。

 その暎子の考えは十分理解できる。が意図を伏せた形で利用されたことに、引っ掛かりは残る。そう感じた太市は、意地の悪い質問かなと思いつつ問い掛けた。

「でも、仕事一筋で行くのか、家庭を持つか、自分の生き方は彼女が判断することで、お父さんの責任じゃないだろう」

 琴線に触れたのか暎子が即座に断じた。

「一般的にはね、でも内は違うわ。亡くなった母は、建築家として未来を嘱望されていた。それが私を身ごもったために、事務所を辞め、そのまま子育てと、グータラ亭主の世話を焼いているうちに、病気で亡くなってしまったの。自分の才能を埋もらせたまま亡くなったのよ。いい、あのクソ親父、連れ合いの可能性の芽を摘むという暴挙をまたやろうとしているの、これが許せると思う」

 噛み付くような剣幕に、思わず太市が身を縮めた。

 これ以上話を続けると喧嘩になってしまうと太市が押し黙った時、タイミングを計ったように太市の背後、観葉植物の仕切り越しに肩を覗かせていた後ろの座席の男性が、「そろそろ代ろう」と声をかけてきた。

 恰幅のいい男性が立ち上がり、深々と押し被った帽子を脱ぐ。

「お父さん!」、暎子がひしゃげた声を上げた。

 あっけに取られた暎子をよそに、恒明氏と太市が席を交換。

 太市はそのまま帰ろうとしたが、氏が太市の腕を取って引き止めた。

「鵜狩沢君、そちらのテーブルでいいから、うちら親子の話を聞いて証人になってくれないか。親子で頼みごとをするのもなんだが、これも縁だろう」

「何でも好きなものを注文してくれ」と、恒明氏が強引にマスターを呼んだため、太市は断りきれずに椅子に腰を落とした。

 ふてくされた顔の娘に、父親が詫びるように話しかける。

「怒らないでくれ暎子、これは鵜狩沢君に父さんが頼んだんだ。会話のない親子では、なかなか話のテーブルに着くのが難しい。それにお前は母さんに似て、妙に我慢強くて、なかなか本音を口にしない。お前の本音がどこにあるのか、少し挑発してもいいから引き出してくれるよう、彼にお願いしたんだ」

 氏はまず自分の至たらなかった点を率直に謝ると、さきほど暎子が太市に話したことを確認するように尋ねた。どうやら暎子のこだわりが、亡き妻との約束以上に、相手の可能性を削ぐという点にあることが気になったらしい。

「お前も、おおよその所は知っているらしいが」と前置きの上で、恒明氏は妻が亡くなった後の新しい彼女との経緯を一通り説明した。

「私にとっては亡くなった由里も大切だし、娘のお前も、そして新しい彼女の晴美さんもだ。誰の気持ちもないがしろにしたくない。だから迷っていたんだが、でもようやく自分がどうすべきか結論が出た」

 父親の吹っ切れたような口調に身を硬くする暎子の前で、恒明氏が「その前に」と、店のマスターに目配せをした。

 マスターが店の反対側のテーブルにいた婦人に声をかけた。

 立ち上がった女性を見て太市はハッとした。髪型を変えているし背を見せていたので気付かなかったが、晴美さんだ。彼女がここに来ていることを太市は知らなかった。

 気配を察して暎子も立ち上がると、狼狽を抑えるように口に手を当てた。

 テーブルの横に来た晴美さんが、暎子ににこやかな笑みを向けた。

「紹介が遅れたが、古川晴美さんだ」

 芝居をやる者らしく物事には動じないタイプの暎子が、思いのほか慌てている。

「あ、あの、始めまして、父がいつもお世話になっています」

「早く、ちゃんと引き合わせなきゃと思っていたんだが」

 恒明氏が自身の横に座るよう彼女を促す。

 父親が想いを寄せる女性が暎子と向かいあった。

 晴美と瑛子が型どおりの挨拶を済ませると、恒明氏は晴美さんに向き直り、背広の内ポケットから折畳んだ書類を取り出した。大学系の総合病院の名が紙面の端に覗いている。

「やっと懸案が解消した。腫瘍は良性だった。これで君にプロポーズができる」

 水面に投げ込まれた石の波紋が収まるのを待つような、静かな間合いが生まれた。

 その瞬間まで暎子と太市は、先日の恒明氏が晴美さんに対して口にした、「諸般の問題を解決したら」という言葉の「諸般」が、妻との約束であり、暎子の説得のことだと思っていた。それが違っていた。すでに氏は晴美さんに求婚することで結論を出していたのだ。ただ一つ大きなハードルが残っている。それが体のことだ。氏は以前から甲状腺にしこりを感じていた。ガンの可能性があった。

 恒明氏の妻は、丸二年に渡る闘病の末、膵臓ガンで亡くなっている。闘病で苦しむのは当人だけではない、見送る側もだ。大切な人の命が尽きて行くのを見届けるのは、想像以上に重い負担を心にもたらす。その看取る側の辛さを痛感した氏は、もし自分にガン、それも悪性のものが見つかった場合は、きっぱり相手との関係を清算しようと決めていた。看取る苦しさを相手に強いることは出来ないと考えたのだ。

 その不安が、やっと今日取り除かれた。

「言って下されば、深夜の試食会になど、付き合わせたりしなかったのに」

 慈愛を含んだ眼差しにほんの少し恨めしそうな色を漂わせて、晴美が恒明氏を見やった。

「余分な心配をさせたくなかった。しかしガンの疑いが掛けられたことで、逆に迷いが吹っ切れた。妻との約束はあるが、人生はいつエンドマークが下りるやもしれん。決断は先手必勝、それは妻も分かってくれると思う」

 ガンの疑いが払拭された開放感も手伝ってか、恒明氏が雄弁に話を続ける。

「それにだ。娘の指摘にもあったが、晴美さんには事業家としての才能がある。ぜひイスラム型の食文化と和食の融合という夢を追いかけて欲しい。海外への赴任と家庭を天秤に掛ける必要はない。私が君についていく。仕事の整理で半年はかかるだろうが、それを終えたら、向こうで挙式を上げよう。むろんそれまでに、君に負担を掛けないように、家事もこなせるように訓練しておくつもりだ」

 そこで一旦声を途切らせると、恒明氏は含むような声で月並みなプロポーズの言葉を口にした。

 彼女が恒明氏を見詰め返し、穏やかな緊張がテーブルの上に漂う。

 その二人にとっての神聖なひと時を乱すように、晴美さんのバッグの中で、スマホが無粋な振動を掻き立てた。

「ごめんなさい、こんなときに」

 晴美は氏から視線を外すと、席を外して奥の化粧室に身を滑りこませた。

 肝心の間合いを外され所在ない父親を、暎子が上目使いに睨んだ。子供の前でよくぞ愛の告白ができるものだという、冷ややかな目だ。

 化粧室の中で話す晴美の声が、太市たちのいるテーブル席に漏れ聞こえてくる。

「部長ですか。ええ、いま連絡を入れようと思っていたところです。例の件、結論が出ました。赴任の話は別の方に。えっ、それはありがたいのですが。でも……、詳しい事情は後ほど社に戻ってから……」

 気を使ったのだろう店のマスターが音楽のボリュームを上げる。

 戻ってきた晴美は、なぜか暎子の隣に座った。そして対面する恒明氏の困惑した顔を覗き込むと、「聞こえちゃいました?」と、悪戯っぽく舌を出した。

「晴美さん、海外へは私が付いて行くと言ったろう」

 ナゼと問いたげな恒明氏の前で、晴美が深々と体を折り曲げた。

 ゆっくりと体を起こした晴美さんの目に、涙が滲んでいた。

「本当にありがたい申し出なんですけど……」

 晴美は懐から一通の封筒を取り出すと、中の書類を黙って恒明氏の前に置いた。

 訝しげに書類を開いた恒明氏が、表情を強張らせる。それはさきほど氏が晴美に見せた書類と同様、病院の診断書だった。手術の術式の説明や親族の同意書なども添えてある。氏の視線が病名に釘付けになった。書類を持つ手が小刻みに震える。

 子宮筋腫……。

「赴任が決まってからだとバタバタするので、先にオーバーホールしておこうと思ってドッグに入ったら大当たり、びっくりしちゃいました」

 ビンゴの景品でも当たったように話す暎子と違って、恒明氏は信じられない物でも見るように、書類の上に何度も目を上下させる。

「術式は全切除となっている、子宮を取ってしまうつもりなのか」

「転移を考えると、そのほうが無難だろうって」

「しかし……」

 声を詰らせ黙り込んでしまった恒明氏に代わって、暎子が聞く。

「子宮を取ったら、もう赤ちゃんは生めないってことでしょ」

「そういうことね」

「そんな……」

 親子で声を無くしている二人を前に、晴美が一人、あっけらかんと話を続ける。

「なんだか私の人生って、ガンに恵まれているみたい。父も、前の亭主も、ガンで逝っちゃったし、弟もつい最近胃ガンの手術をしたばかり。まっ、弟の場合は酒飲みの自業自得ってヤツだけど。でも生殖細胞や人工胎盤の研究が日進月歩で進んでいるから、長生きして、お金さえ稼いでおけば、自分の赤ちゃんを腕に抱くのは不可能じゃないと思うの」

 稼ぐというところで、晴美が腕を折り曲げ力こぶしを作った。

「そういう問題じゃないだろう」

 恒明氏の生真面目な憤りをすかすように、晴美が大きく伸びをした。

「やっぱ、亡くなった彼との約束を破った罰が当たったのかなあ」

「約束って?」と反応良く身を乗り出す暎子に、「聞きたい、でも笑っちゃいやよ」と、晴美が気を持たせるように前置きする。

 会話に置いて行かれそうになった恒明氏が「私も知らないことなのか」と、体をテーブルに寄せる。控えめに太市も耳をそばだてる。

 聴衆の準備が整ったことを喜ぶように笑みを浮かべると、晴美はおもむろにその話を披露した。それは晴美さんが前夫と交わした約束で、ちょっとだけ笑いたくなる話だった。

 晴美さんは、四年前に連れ合いを亡くしている。急性の腎臓ガンで、あっという間の出来事だった。息を引き取る寸前、死の縁に立った夫は、晴美の手を握り締めて頼んだ。お前ほどの女だから、俺よりいい男がいくらでも捕まるはず、だからさっさと再婚して幸せになって欲しい。ただ一つだけ我ままを言わせて貰えば、名前は俺と違うやつにしてくれ。晴美が別の男を親しげに自分と同じ呼び名で呼ぶのは耐えられないから、と。

 そう言って前夫の彼は事切れた。

「もしかして、その名前って……」

 小声で聞く暎子に合わせるように、晴美がヒソヒソ声でその名を告げた。

「ツ・ネ・ア・キ、うん、あなたのお父さんと同じ名前よ」

 聞こえたのだろう、恒明氏が喉に詰まったような声を上げた。

 どうやら晴美さんの亡き夫の名を知らなかったらしい。

 ただし漢字は違うという。

「しかし、じゃあなぜ私と……」

 咽込みながら正す恒明氏に、晴美が肩まである髪を後ろに束ねながら言った。

「彼、字のことまでは言わなかったのよね、だから恒明さんと出会った時、字が違うから問題ないかなと思ったんだけど。でも良く考えたら、彼、呼び名と言ったんだから、やっぱりこれは同じ名ということになるのよね」

 恒明氏と晴美、二人は仕事の関係で出会い、打ち合わせの合間の雑談で、互いにガンで連れ合いを亡くしたばかりということを知った。心に痛手を負って鬱々としている時期だったこともあり、二人は心の隙間を埋めるように親しくなった。

 晴美が出会った当事を懐かしむように宙に視線を流す。

「まさかね、私も同じ呼び名の人を、また好きになるなんて考えなかったし」

 その通りとばかりに、恒明氏が相槌を打つ。

「私も、女房以外の女性を好きになるなんて、思いもしなかった」

 恒明氏としても、歳の差はあるし、当初は同じ境遇の話し相手が見つかった程度にしか感じていなかった。それが男女の仲とは不思議なもの。

 晴美が茶目っ気たっぷりに口元を緩めて暎子に目配せをした。

「この人、年頃の娘にどう対応していいか分からないからって、ずいぶん私に相談を持ちかけてきたのよ」

「おいおい、変なことをばらすなよ」

 照れを隠すように恒明氏がコーヒーをがぶ飲み。コホコホと咽ている。晴美の体の状態を知って悲壮な顔をしていた恒明氏にも、少しだけ笑みが戻っていた。それを認めると、晴美が改めて恒明氏に向き直り、「約束を覚えてますか」と、真面目な口調で言った。

 はっとしたように恒明氏がカップをテーブルに戻し、晴美と視線を合わせた。

「もちろんだが……」

「ちょうど証人が二人います。ちゃんと宣言しましょう、今日を持って、二人の関係を清算する、別れると」

 突然の展開に「どういうこと」と、暎子が二人を見交わす。

 苦渋の表情を浮かべる恒明氏に代わって、晴美が説明した。

 共に連れ合いをガンで亡くした二人は、付き合い始めた段階で約束を交わした。どんな条件下であろうと、ガンが見つかった場合は、笑顔で関係を清算しようと。それは看取る側の辛さを、相手に背負わせないということだ。

 恒明氏自身、そのことは重々承知していた。しかしすでに付き合って三年。頭では納得しても、重ねた歳月と関係の深さがそれを素直に認めさせてくれない。

 氏が額に手をあて苦悶の表情を浮かべた。

「子宮を残すかたちで、なんとかなる可能性もあるだろう」

「なんとかならない可能性もよ。恒明さん、最初にこの約束を提案したのは、あなた。今ならまだ後戻りがきく。大切な人を苦しませないためのね」

 病への対応は、病を抱えた当事者の意見が優先される筋のものだ。しばし目をきつく瞑って考え込んだ氏だったが、肩で大きく息をつくと、想いを吹っ切るように姿勢を正した。

「分かった、今日この場をもって、君とは良き友人ということだ。でも、もし手術が上手くいって体が回復したら、その時は……」

「父さん、未練がましいよ」

 娘に諭され、恒明氏が頭の薄くなりかけた毛を掻き回した。

「悪い、恥ずかしいところを見せたな」

 晴美さんが気分を変えるように、パンパンと軽く手を叩いた。

「ほら、後ろの彼もこっちに来て、恒明さんが男一人で応援を欲しがっているわよ」

 強引に促され、太市が恒明氏の隣に腰を下ろす。

 晴美さんは徹頭徹尾、前向きで明るい人だった。思っても見なかった話の成り行きに意気消沈の恒明氏をよそに、病など吹き飛ばさんばかりに一人で話を盛り上げる。その内容は、さっき恒明氏が口にした晴美さんの夢、新しい異文化融合食の話だ。目新しいアラビア世界の菓子の話もそうだが、印象に残ったのは、晴美さんが今試作を繰り返している、ナツメヤシの干した実と餡子のフュージョン菓子。日本人の甘みの原点に干し柿や小豆の餡があるように、アラビア世界の甘みの原点に、干したナツメヤシの実があるのだそうな。ボーイミーツガールならぬ、スイーツミーツスイーツである。

 賑やかに話を交わしているうちに、あっという間に二時間が過ぎる。

 不思議なお茶会を閉めるように、晴美が立ち上がって恒明氏に手を差し出した。

「恒明さん。少しは暎子ちゃんの家事を手伝ってあげてね」

「分かってる、こちらは君が無事にガンを克服することを願ってる」

「ありがとう、恒明さんも体に気をつけて」

 握手を交わす二人は、まるでノーサイドのラグビー選手。

 会計を済ませて店の外へ。いつの間にか雨が舗道を叩いていた。晴美さんは入院前に溜まった仕事を片付けておきたいので社に戻るという。

「傘を持ってきてないだろう。会社まで送るよ」

 恒明氏が先ほど太市から渡されたあの傘を取り出した。

 その傘に目を落とした晴美さんが、窘めるように氏の肘を突いた。

「バーカ、それ奥さんの傘でしょ、会社には代えの服があるの、濡れても大丈夫よ」

 晴美さんはチャオとばかりに胸の前で小さく手を振ると、雨の中を颯爽と歩き出した。雨などものともせず背筋を伸ばして歩く晴美さんは、なんとも雄々しい。残された三人のほうが、心が塞いで末期ガンの患者のように思えてくる。

 強くなってきた雨足に、晴美さんの姿が霞む。

 微動だにせず彼女の背を見つめる恒明氏に、堪らず太市が声を掛けた。

「いいんですか、おじさん」

「いいも何も……、大人の約束だ」

 その瞬間、暎子が詰めていた息をカッと吐いた。

 父に縋るように言い寄る。

「なにが約束よ、そりゃ、母さんを看取るのは辛かったかもしれないけど、そんなの自分が耐えればいいだけじゃん。好きな人が病気で心細いときに、よく平気で、はい別れましょなんて言えるわね。格好ばっかりつけて、自分に都合のいいところだけで、付き合ってたんでしょ」

 怒りで声を詰らせながら、握り締めたコブシを父親の腕に打ち付ける。

「心配をかけまいと必死で背筋伸ばして歩く気持ちが、どうしてわからないのよ。どうして……」

 当惑した恒明氏と、駄々を捏ねるように怒りをぶつける暎子。

 その様子を、太市は一歩引いた姿勢で見ていた。恒明氏は奥歯をかみ締め、娘のしたいようにさせている。しかしその目は濡れた路面の先に据えられている。

 おそらく恒明氏は、いま晴美さんを追えば、もう自分の心を押し留めることができなくなると、判っているのだ。だから走り出したい気持ちを抑えるためにも、平然とした顔を装っている。

 いや違う。あの二人は、とうの昔にお互いの体の状態を知っていたのではないか。

 ガンであれば別れるという取り決めはした。しかし障害があればあるほど、男女の心は燃え立つものだ。このままでは、昂ぶって来る気持ちに自分たちは押し流されてしまう。それを嫌がおうでも踏み留まるために、恒明氏と晴美さんは、意図して子供たちの前で病を告白し、別れを宣言した。それが氏の証人になってくれという言葉の真意ではなかったか。これをして、大人の理性といえばいいのか。

 乱れ振る秋の冷雨に霞む晴美さんの細い肩に目を凝らしつつ、それでもと思う。

 それでも……、

 苛立った暎子が思い切り父親の腕を掴んで揺さぶる。衝撃で氏が手にしていた傘が指の間から抜け落ち、濡れた路面で鈍い音を立てて跳ねる。

 娘の追及から逃れるように氏が腰を屈め、傘に手を伸ばした。とその時、氏の指先で傘がクルクルッと解れながら開いた。

 唖然とする恒明氏の前で、ウサ玉模様の赤い傘はフワリと宙に浮くと、見えない風を孕んだようにパッと頭上に舞い上がった。そして濡れた歩道の上を吹き飛ばされる。

 雨に抗うように飛ぶ傘の先には、交差点の信号待ちで佇む晴美さんの姿が……。

 恒明氏の顔が歪んだ。子供が泣き出す一歩手前のような顔をしている。

 しかしそれはほんの一瞬で、直後、氏は喉の奥を絞るような声を上げると、五十を過ぎた男とは思えないほどの勢いで濡れた歩道を走り出した。

 途中足が滑って腰砕けになるが、そんなことなどものともせず、雨を掻き分けるように走る。走りながら何か大声を上げている。

 太市と暎子は、その様子をあっけに取られて見ていた。

 やがて恒明氏は宙に浮かぶ傘をジャンプ一番掴み取ると、横断歩道の手前で立ち尽くす晴美さんに走り寄った。そして彼女の細い肩に傘を差しかけた。

 降りしきる雨の中、信号が青に代わる。二人は横断歩道を寄り添うようにして渡ると、やがてビルの谷間の並木の陰に消えていった。

 しばらくの間、暎子と太市は、雨に打たれた歩道をぼんやりと眺めていた。

 叩きつけるような雨に向かって、暎子が「すごい」と呟く。

「なにが」と問う太市に、暎子が首を捻りつつ言った。

「あれなんだ、お父さんが走り出した時の声、あれが声にならない叫びだ」

 確かに一瞬ゾクッとするような、心が風圧を感じるような声が聞こえたように思う。

 しかし太市には別のことが印象に残っていた。

「やっぱ暎子ちゃんは役者だな、ぼくにはオジサンが走りながら言ってた言葉の方が印象に残ったけど」

「なんて?」

 いつになく素直な顔で振り向く暎子に、太市がにやりと笑みを浮かべた。

「俺は絶対改名するってさ」

 一瞬目を点にした暎子だったが、次の瞬間腹を抱えて笑い出した。そしてひとしきり笑い終えると、「ばっかなオヤジ」と言って、目の下に滲んだ涙を拭った。

 

 その後のことを、少しだけ。

 恒明氏と晴美さんの約束は棚上げとなった。暎子の話では、晴美さんの手術の結果に関わらず二人は結婚、一緒に暮らすようになるだろう、とのこと。

 それともう一つ。これは恒明氏から暎子には内緒にしておいてくれと念を押されたことだが、あのウサ玉の傘は、もともとは恒明氏が亡き妻の由里さんとの婚約の際に、仕事と家庭を両立させて欲しい、つまり二兎を追うことにチャレンジしてほしいという意味を込めて、贈ったものだそうだ。ただ体に自信のなかった由里さんは、結婚して子供が出来た段階で、家庭に入ることを選んだ。これは致し方の無いことだろう。限られた人生、何もかもやることはできない。

 でも、だ。あの晴美さんのバイタリティーと明るさなら、いずれ子宮を取らずにガンから復帰、子供のいる家庭も、外国勤務もと、二兎を追うことが出来るのではないか。人生の先輩に暎子もそれを期待しているようだ。

 その暎子はといえば、俳優修業の合間にシナリオを書き始めた。こちらのほうが自分に向いていると判断したようで、ちなみにペンネームは、『桑原にと』。

 何を隠そう名付け親は、このボク。ちょっと自慢かな、エッヘン、てね。


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