おおぞらを舞う
『彼』が、ベランダを乗り越えて落ちていった。
舞うように。
飛ぶように。
冬の冷たい風にあおられて、それでも重力には逆らえないと言わんばかりに――地上に、落下していった。
「――っ!」
私はあわてて、部屋を飛び出した。転げ落ちそうな勢いで階段を駆け下りる。
一直線に『彼』の元へ。
このあいだ降った大雪の名残が、まだ地上に残っている。
昼間の日差しで雪の一部は溶け、水となってアスファルトの上に流れていた。
その雪解け水の中に――『彼』は倒れ伏していた。
「……ねえ」
問いかけても返事はない。
ただなにも言わぬモノとして、そこに在るだけだ。
私は『彼』を見下ろす。
「……嘘、でしょう……?」
現実を受け入れられなかった。
昨日の夜、いや、今日の朝まで、一緒にいたのだ。
『彼』に抱かれて、私は幸せだった。
あんなに温かく、安らいだ気持ちになったのに。
それが、少し目を放した隙に、こんな風に――
「……――ッ!」
私は奥歯を噛んだ。違う。まだ諦めては駄目だ。
「大丈夫……まだ、大丈夫……っ」
しかるべき処置をすれば、まだ間に合うはずだ。そう思った私は、水に濡れ泥に汚れた『彼』を抱き起こして、部屋に戻った。
そして、ふと気づく。
しかるべき処置をすればというが、私は『彼』になにをしてやればいいのだろうか?
後から思い返せば、『彼』が落ちたのを見た瞬間から、私はパニックに陥っていたのだと思う。
とりあえず助けに行かなければならないと、反射的な行動をとったまではよかったのだが――私はこれからどうしたらいいのか、『彼』を抱えたまま途方にくれた。
冷たい。
『彼』の濡れた部分に手が触れて、私はぞくりとした。
駄目だ。ここで突っ立っていても、どうにもならない。
私は行動を起こすことにした。まずはこの濡れているのを、拭いてあげなければ。
私は『彼』を床に置き、タオルを取りに行くため隣の部屋に走った。
タオルを持って戻る途中で、ひょっとしてこれは夢なのではないか、という馬鹿げた思いがよぎる。
私はそれを嗤った。
そんなことを考える自分自身を嗤った。
これは私の判断ミスが招いたことだ。
『彼』をベランダに置き去りにした、私の責任だ。
責任逃れなど、今さらしたところで始まらない。
起こってしまったことは、覆せないのだ。
大切なものは、なくしてからその価値を知る。
私はそれを、身をもって知った。
部屋に戻ると、私が部屋を出たときと変わらぬ姿で『彼』は横たわっていた。
見るのもつらい姿だ。それでも私は唇を噛みながら、『彼』を拭いた。
泥と水をぬぐう。
ごめんなさい。私は心の中で、ずっと『彼』に謝り続けた。
ごめんなさい。あなたをこんな風にしてしまった、私を許してください。
そんなことをしているうちに、私は『彼』についた泥を拭き終えた。
水も拭いた。しかし、染みこんでしまったものはどうしようもない。
どうしよう。
横たわる『彼』の姿を見つめ、私は苦悩した。
そのときだ。
私はそこであることを思いついた。
これこそ後から考えれば、パニックの最たるものであったのだが。
私は再び『彼』を担いで、ベランダに向かった。
そこには節分を過ぎて春に近付こうとする、温かな日差しが降り注いでいた。
私はそこに『彼』を横たえた。
こうしておけば、太陽が『彼』を温めてくれる――そんな、都合のいい妄想に従ってしまった。
あんなにこれは私のせいだと、自分に言い聞かせたはずなのに。
自分の否を認められなかった。
最後の最後まで、私は馬鹿だった。
日差しは強さを増してきたとはいえ、まだまだ冬の風は寒くて強い。
吹き荒れるその冷たさに私が身震いをしたとき。
『彼』が再び、宙を待った。
「あ――」
私は呆けた声をあげて、それを見送るしかなかった。
デジャヴ。
さきほどと同じく私の判断ミスで――『彼』はもう一度、地に落ちていった。
今度は助けに行く気には、なれなかった。
もう、駄目だ。そんな絶望感だけが、私の中でうごめき続けていた。
けれど。
そんなになっても、私の目には焼きついて離れない光景があった。
『彼』の最後の姿。
ベランダを乗り越えてふわりと舞う――白い影。
『彼』は、いや――
『ニトリで買った白いポリエステル敷布団』は――冬の澄んだ空のなかを、翼のように軽やかに飛んでいったのだ。
その光景を、私はたぶん、生涯忘れることはない。
そして私は、新しい敷布団を買うために、ニトリへ走る。
なぜなら、それがないと今晩眠れないからだよチクショウ!
こういうのも叙述トリックというのだろうか。
これは本日、私の身に起こったほぼ実話です(二割は創作です)。
悲しみのあまり勢いで書きました。後悔はしていない!