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男としてさほど逞しいわけでもない自分ですら、大男に思わせてしまうほどに道代は華奢で頼りない。
胸中にじわじわと拡がる、ほのぼのとした温かさとは別の、熱い、動物的な衝動が、彼の身体の中心でたちあがってきた。
まずい。
どうしてこんな時に?
だめだ、鎮めなくては。けれど――どうやって?
痺れた足を動かすように一度、身をずらした時、道代は言った。
「お顔――見てもいいですか?」
「僕の、ですか?」
クスリと道代は笑う。
「悟さん以外いないじゃないですか」
「それもそうですね」
あははと笑って、袂に入れていた眼鏡を探った。
僕は、素顔は恐いと言うから。彼女を怖がらせたくなくてかけた眼鏡の顔を、前へ回った道代は覗き込むように見る。小さく首を横に振りながら、違うの、と言うように彼の眼鏡に手をかけて外す。
「ああ、この目だわ」
安堵の表情を浮かべて、道代は彼の顔を見つめた。
「私を助けてくれる、真摯な目に、私、恋をしたの」
「恐く……ないんですか?」
「どうして?」
「僕は、その……。よく言われるんです。目付きが鋭くて冷たいと」
「思ったこと、ない。いつも真剣で物事をきちんと見る人の目は、恐くないです」
彼女の手からフレームを取り戻して眼鏡を掛けて。悟は気を落ち着かせようとする。
彼女に触れたい。
その顔に、唇を寄せたい。
「キス、してもいいですか」
道代は少し目を見開き、はにかんだような笑みを浮かべた。
「あの、おでこじゃなくて、ほっぺでもなくて、その……」
クスクスと笑う顔は、くすぐったそうで可愛かった。
「だめです、って言ったら、どうするんです?」
「あ、その、うーん、そうですよねえ、どうしましょうか」
「どうしましょうか、って、いやだわ、悟さん」
箸が転がってもおかしい年頃の少女のように、彼女は鈴を振るような声で笑った。
「今まで一度もしてくれたことないのに?」
「あ、そうでしたね」
「手も握ってくれたこと、数えるくらいしかないです」
「そうでしたっけ」
「そうなんです。……気兼ね、していたんですか?」
「違いますよ!」
つい、悟は力を入れて断言した。
「とても大切な人だから、その……どうしたらいいかわからなかったんです。だって、僕、女の人と付き合ったこと、ほとんどないんですよ」
「あら、ほとんど、ってことは、少しはあるのね」
ちょっとふくれっ面をして、道代はすねた風を装った。
ああ、彼女が甘えてる。――なんて可愛いんだ。
「いつも僕は女の人から捨てられるんです。ほんとですよ? 何を考えてるかわからない目が恐い、って」
「そうなんですか?」
「だから、女の人は知りません」
あ、と悟は慌てた。
「今日みたいな日に、何言ってるんでしょうね、すみません、すみません」
「どうしましょう」
ふう、と道代は大きくため息をついた。
「だから、ふたりきりになった時、どうしたらいいのか――僕、わからないんです。男らしく、女の人をリードしたり、やさしくしたり――できないんです」
「やさしいです」
静かに、道代は言った。
「悟さんの側にいると、とっても安らげるの。他の男の人ではこんな気持ちになれない。だから私、お見合いの話をお受けしたの。わからないふたりで、わからないなりにいっしょにいられればそれでいいと思う……。違います?」
「違わないです。僕も……道代さんが好きです、大好きです。愛してます。あなたがいつも笑ってくれるように、笑顔が絶えない家庭を作りましょう。僕、あなたを守ります」
「はい……!」
花嫁衣装に身を包んだ彼女も美しかった、でも、今の道代の方が数倍もきれいだと悟は思う。
飾らない素の姿がとても愛しいと。
悟は道代の頬に手をかけた。
「一度でいいです、キスして、いいですか?」
今度は道代は何も答えず、静かに目蓋を閉じた。
お互いに好き合っているのがわかったふたりの、初めての口付けだ。
しかし。
ごっつん!
「いたたた!」
鈍い音と共にふたりは同時に声を上げ、眉間を押さえ合った。
おでこから突っ込んでしまった悟の、眼鏡のフレームがお互いの顔に当たってしまったからだ。
「ごめんなさい、痛かったでしょう!」
「ええ、少し。悟さんは」
「僕はいいです、ああ、ここ、赤くなっちゃいましたね」
彼はぽっつんと道代の眉間にできた赤い斑点を擦った。
「……鼻がぶつかる、って聞いたことはあったけど」
ぽつりと道代がつぶやき、ふたりはこれまた同時に吹き出した。
「これで僕がいかにそっち方面がダメか、よくわかったでしょう」
「ええ、やっぱり、眼鏡がない方がいいのね」
道代は再び彼の顔からフレームを外した。
「そっちのお顔の方が、私、好き。悟さん、かっこいいもの」
彼はフレームが当たってこしらえた眉間の赤い斑点に、唇を寄せた。
道代の手からフレームが落ち、布団の上にトンと落ちる。
「今度は、ぶつけません」
と言って、壊れものを扱うように道代の顔を両手の平で抱えて、触れ合うだけの口付けをした。
――いつ離したらいいかわからず、しばらくそのままでいたふたりは、やっぱりどちらともなく笑ってしまった。
「ね、やっぱり僕は苦手なんですよ」
「でも……」
「はい?」
「私、嫌じゃないです」
「僕もです」
頭を抱えていた手を肩に滑らせて、悟は彼女の背に腕を回した。こわがらせないように。
ほう、と大きく息を吐いた彼女が、身を預け、彼の肩に頬を埋めるのがわかる。
「もう一度だけ――いいですか」
彼女の耳元で伝える言葉は、苦しくて、欲しいと言いたいけれど言えない気持ちを乗せる。
「悟さんが望むなら何度でも」
浴衣をぎゅっと握る気配に、悟は抱く手に力を込めた。
道代はさらにしがみついてくる、彼の思いに応えるように。
もう一度のつもりだった口付けは、けれど、一度は次の一度を呼んできて、どうにも止められなかった。
ああ、だめだ。陥落だ。
僕はもう、自分を抑えることができない。
ふっつりと読書灯の紐を引き、暗くなった室内で衣擦れを立ててふたりで横たわった時、悟の鼻孔をくすぐったのは、彼女の柔らかい髪や全身から漂う薫り。
とても甘くて良いにおいがした。
吐息まで甘い。
もっと近づきたい、彼女と繋がりたい。
それだけの思いで初めて触れた道代は、やっぱり華奢で、柔らかくて、清々しかった。
女をとろかすような甘い言葉や手練手管なんかいらない、真心をこめるだけだった。
悟は思う、不器用な僕を受け入れてくれる人がいると、自分も強くなれる気がする。
だから、もっと優しくしたい。
不慣れなりに両手に思いを込めて抱きしめた、きみはとても大切な人だから、愛したいと。
彼女にも自分の思いは伝わっていると信じられた。
なぜなら。
震えながら必死で抱き返してくれる彼女の指先に、自分もうれしさで震えたから。
小さな子供ですら、つたないなりに仔猫や子犬を、人に教わるなく愛でる方法を知っている。
喉をならして目を細め、尻尾を振り切れんばかりに振る物言わぬ動物にだって、大切にされている、愛されている思いは伝わるではないか。
同じだ。
深々と更ける夜の闇の中、小さな疲労感と気怠さの中で微睡みながら彼は、すやすやと寝む道代の肩を抱いて思った。
明日、道代にプレゼントを贈ろう。
髪を彩る緑色のリボンを。
しっとりとした天鵞絨は、彼女にきっと似合うから。
喜んでくれるといいな、と。