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***** ** 1

夜も更けてから到着した最寄り駅から旅館へ向かうタクシーの車中でも、旅館へついてからも、夕食を取る時も、道代の顔は暗く沈み強張っていて、旅館の従業員や中居さんたちが悟を見る顔が怪訝、かつ非難を含んだものになっていたのは気のせいではあるまい。


新婚さんを迎える彼らが、新婦の顔色からただならぬ空気を感じたとしても仕方がないだろう。


道代は萎れきっていた。


ほとんど手をつけてない料理を下げる従業員に詫びを言い、少し祝儀を多めに渡しておいた。

「もう……やすんでもいいですか」


いいよ、という悟の了解もほとんど耳に入っていない様子で、風呂から帰って来た道代は寝室へ下がっていった。


今日は何を言っても多分、彼女の耳には届かないし何も響かない。


「うん、暖かくしておやすみ」


彼女の背に声をかけ、ことさら明るく振る舞うのもかえって嘘くさくて。悟は普段通りに接し、小さく頷く頭の動きに生返事でも返ってくることへ少しだけ安堵した。


輝かんばかりの花嫁姿を見たのはつい半日前のことだったのに。


ああ、そうだ。


僕は、彼女に見とれるばかりで、とてもきれいだと伝えずじまいだった。


明日。そう、明日言おう。朝起きたらまっ先に。


僕たちには明日も明後日も未来もあるんだし。


座卓に乗った小さなお盆には晩酌にと用意されたお酒が乗っていた。旅館の気遣いなのだろうけど、アルコールはたしなまない彼が今日みたいな日に飲むとろくなことにならない。別にもう一つ、布巾をかけたお盆から、香の物を1つつまんでぽりぽりとかじって、考え込むとあれこれ訪れるだろう意味不明な負の感情をつとめて外へ追い出して、ただ無為な夜を無為に過ごして。眠気が訪れるのを待つ。


小一時間ほどたった頃だろうか、隣の部屋からは、規則正しい寝息が聞こえてきた。


よかった、眠れているんだな、それだけでも良かった。


悟は座布団を二つ折りにして枕にし、ごろりと畳の上に横になった。





◇ ◇ ◇





敷布も何もない、慣れない部屋の畳だからか。


背中や肩や腰がごりごりと痛んでどうにも落ち着けない。


それでもうとうとしかけた時だった。


夢現の中、道代の声がした。


寝ぼけた頭は一気に覚める。


襖の向こうの彼女は、寝言ではない苦悶の声を上げながらうなされている。


かつてない早さで起き上がって、悟は彼女がいる寝室の襖を開けた。


様子を訊ねる余裕もなかった。


「道代さん?」


布団を巻き付けてもがく彼女の肩を軽く揺さぶる。


「道代さん、大丈夫ですか」


何度か声を掛けられて、道代は大きな目をさらに大きく見開いて、自分を起こした人を見た。


一瞬、おびえた顔をしたけれど、悟とわかると脱力した。


「僕が誰かわかりますね」


「悟……さん」


「そうです。うなされてました。……電気、つけていいですか?」


こくり、うなずく。


枕元の読書灯の紐を引くと、かちりという音と共に黄色い灯りが灯った。


「布団がぐるぐる巻きになってますよ」


「あ……」


「それでは苦しかったでしょう、すこし、裾をゆるめますけどいいですか」


「はい……」


彼女から身を離して、悟は身体に巻き付いている布団をほわんとひっぱって四隅をとんとんと整える。


「楽になりましたか」


「……はい」


「それは良かった。喉、かわいたでしょう」


枕元にあったガラスのコップに二口か三口分の水を差して、悟は彼女に差し出した。


「ひとくち、飲んでおくといい、気持ちが落ち着きます」


手を伸ばして受け取ろうとする、彼女の手が震えているのに気づいて、「ちょっとごめんなさいよ」と一声かけてから、彼は彼女の肩に手を添えて水を飲ませる手助けをした。


少し近づきすぎかなと思ったけれど、道代はされるがままでコップの水を飲み干す。


「もう一杯、飲みますか?」


首を横に振るのを見て、彼はコップを枕元に戻した。


彼女の肩を支える手がじっとりと湿る。全身汗みずくなのが、額に浮かんだ玉の汗でもわかる。汗だけではなく、涙も浮かんでいた。


「慣れない場所だから、落ち着けなかったんでしょうかね」


「……違うんです」


道代は大きく首を横に振った。


「夜、寝るのが恐いんです。気がついたら朝だったらいい、でも、また夢を見たらどうしよう、って」


「こわい、夢なんですね」


こくり、首を縦に振る。


「何度も同じ夢を見てしまうんです…」


ああ、と言って、道代は両手で顔を覆った。


「私、何も言ってないのに、私が悪いって言うんです、お前が……誘ったんじゃないかって」

「道代さんは悪くないでしょ」


悟は速攻で即答した。


悪夢の原因は……絶対、あのことだ。


車中で再会した、彼から受けた心の傷と、夕闇迫る公園で見た、地面に横たわる道代の痛々しい姿。


悟は事の経緯は何も知らない。知る必要はないと思っている。


もし、あの時、こうしていたら、と後で言うのはたやすいことだ。自分は上からことを判断するのではなく、一方的に道代を庇いたい。


だって、僕は彼女の夫なのだから。


悪いのは道代以外の全てだ。


「もう少し、ごめんなさいよ」と断ってから、彼は彼女をやんわりと抱いた。


道代が身を強張らせるのも無理もない、なぜなら、自分は彼女に男として振る舞ったとがないから。握手ぐらいはしたけれど、手をつないだり、肩を抱いたり、それ以上のことももちろん。


怖がらせないように、ただ肩と頭を、よしよしとするように撫でた。


彼女は当惑している様子でそのまま固まって、撫でられるに任せている。


逃げ出さないだけ、良いと思って。


悟はそのまま髪のほつれを解くように撫でた。


慣れつけないことだから力の加減がわからない。


ああ、僕はあやすのがへたくそだなあ、と思いながら。


「ずっと、眠れてないんですか?」


「はい……近頃はそうでもなかったけど」


「それじゃ、疲れは抜けませんよね、睡眠も取れてないでしょう」


「……多分」


「大丈夫です、もし今度恐い夢を見たら、僕を起こせばいいです、すぐ駆けつけます。あ、でも、僕の方が気づくの早いかもしれません、今みたいにね。だから、安心して眠って下さい」


くう、とくぐもった声がした。


道代は泣いていた。


こんな時どうしたらいいんだろう、と悩む頭を悟は持っていない。少し腕に力を入れて自分の胸元に抱き寄せた。


僕がいるから、大丈夫です、という気持ちを込めて。


浴衣越しに伝わる泣き声は子供のようで、今日までひとりで泣いていた彼女が不憫だった。


全てを、たった一回で洗い流せるわけではないだろうけど、気がすむまで泣くといい。


涙の嵐はいつかはおさまる。ひとしきり泣いた後、彼女がほうと息を継ぐのと、ぐう、と腹が鳴る音が同時に起きる。


道代は再び固まった。


けど、これは、緊張や恐怖からではなく、多分、羞恥心がなせること。


「おにぎり、ありますよ」


彼女から身を離して、悟は言った。


「作っておいてもらったんです、道代さん、今日はほとんど何も食べてないでしょうから絶対お腹空くと思って。僕も小腹が空いてきちゃったみたいです、いっしょに食べませんか?」


涙でがびがびになった頬をぴたぴたと叩いて、道代は「はあ」と気の抜けた返事をした。


「はいはい、じゃ、決まりですね」


お盆と急須を持ってきて、てきぱきとお茶を注ぎ、これは道代さんの分、こっちは僕の分とお皿を取り分けて。いただきまあす、と悟はおにぎりを頬張った。


彼は何を出されてもとても美味そうに食べ、その様子は見る側を幸せな気持ちにさせる。道代も釣られて海苔が巻かれたおにぎりを一口、口にした。


「……おいしい」


「そうですか、それはよかった!」


どんどん食べてしまいましょう、と悟に言われたからではないけれど、空腹を訴えた道代の食欲はとても素直に、皿の上のおにぎりはどんどんなくなり、香の物もふくめてすっかりさっぱりきれいに、ふたりのお腹におさまった。


こぽこぽと、なんとも抜けた音を立てながら急須から出されたお茶の、湯気の向こう側から。道代はぽつりと言った。

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