第6話 初夜
レオからの誓いの口づけは、唇にとても近いけれど頬――しかも仮面へなされた。
見ていた人々にはわからなかったろう。でもセレスは動揺していた。事前に「夫婦になるから」と口づけは許していたはずなのに。
式を終え、祝福されつつ教会を出たセレスとレオはそのまま新居へ向かう。大勢でのパーティーなどはせず、花嫁と花婿だけで静かに祝おうとレオが提案してくれたのだった。
婚礼衣装のまま馬車に揺られながら、セレスは口ごもった。だって聞きにくい。「何故、口づけなかったのです」などと。
だがセレスの様子でレオは察してくれたらしい。ポリポリと頬をかきながら白状された。
「――セレスティーヌが怖がっているように見えて。ためらってしまった」
「レオさま……」
レオの方から苦笑まじりに言われると、やや気が楽になった。セレスはほんのり微笑んで訴える。
「あれは……ヴェールを取ったからなんです。マスクがご出席の皆さまへ向いていたので」
「そんなことだったのか……ああいや、セレスティーヌにとっては一大事だな。気づかなくて悪かった」
「私こそ申し訳ありません。人目にさらされたと思ったら、ふと不安になって」
セレスは夫となったレオの気配りに驚く。レオは今、「セレスティーヌにとっては」と言ったのだ。
親や婚約者に従わされてばかりだったセレスにとって、自分の意見を気に留めてもらうのすら稀なこと。
(レオさまは、私をひとりの人として扱ってくれるのね……)
それだけのことに鼓動が速くなる。嬉しくて思わず笑みをこぼしたセレスの視界の端で、レオの手が動いた。そっと伸ばされた手が仮面の前でとまる。
「セレスティーヌは……仮面をつけていても美しいと俺は思う」
「レオさま」
「ふれてもいいか。外したりはしない」
「そんな。式の時も手を添えたじゃありませんか」
「そうだった」
レオが笑ってくれて、セレスの胸はもっとあたたかくなった。
そうっとセレスの頬をなぞる指先にジンとした。大切なものを守るように、右頬を仮面の上から包まれる。レオは真剣なまなざしだった。
「どんな傷跡があるか知らないが、それはセレスティーヌが王家に忠実だったという証だろう。恥じることなどない。こんなに勇敢な人を妻にすることができて、俺は幸運だ」
その考え方は、とても騎士らしい。女性へのほめ言葉として適切なのかは疑問だが――セレスにとっては大きな救いとなった。
やがて到着したのはささやかな館だ。レオは男爵として独立するにあたり公爵邸を出て、セレスと暮らす家を求めたのだった。
二人の新居の使用人は多くない。だが晴れて夫婦と認められた主人たちの帰宅に拍手がわいた。
「お帰りなさいませ。ご結婚おめでとうございます」
代表して迎えたのは執事のダニエルだ。公爵邸に仕える執事の一人だったが、レオの独立についてきてくれた。年も四十を過ぎ、執務経験豊富な男だった。
「これで奥さまとお呼びできますわね」
セレスに微笑んだのは家政婦長のアネット。新しい館をととのえるため、女主人セレスもたびたびここを訪れている。主だった使用人たちとはもう顔なじみなのだ。
他の下男や女中たちもそろっていた。区切りとしてセレスは皆に微笑みかける。
「これからよろしくお願いしますね。皆でレオさまを支えていきましょう」
「俺よりも、セレスティーヌが不自由しないように頼む」
「仲のよろしいことで何よりですな。ごちそうさまと申し上げましょうか」
ダニエルがわざと小難しい顔でおどける。大らかに笑ってアネットが後を引き取った。
「本当のごちそうはこれからですのよ。さあお着替えくださいませ。婚礼衣装はとてもお綺麗ですけど、ソースをはねかしたら大変ですものね!」
「セレスティーヌの作法は完璧だと思うが」
「旦那さまがテーブル越しに飛ばさないとも限りませんでしょう?」
茶目っ気たっぷりに主人をからかうアネットも公爵邸からの移籍組だ。レオの母ほどの年齢でもあるし、幼いころの失敗をたくさん知っているのかもしれない。レオは渋い顔でつぶやいた。
「……もうナイフは得意になったんだが……剣が仕事道具なんだぞ」
セレスはくす、と笑ってしまった。使用人たちから心を許されているということは、レオは気さくな坊ちゃんだったのだろう。これからはそんな顔も見ることになるのだろうか。
騎士として城で見せていた落ち着きある姿。セレスと二人の時の誠実な笑み。そして――家族としての穏やかでやわらかな佇まい。変わっていくレオの印象を受けとめて、セレスは幸せの予感にふるえた。
――この人となら、きっと安らげる。
だが食事を済ませたセレスは、極度の緊張に追い込まれていた。自室の中をうろうろと歩きまわる。
今日セレスとレオは結婚式をあげた――となると今夜は。
(だいじょうぶ。レオさまはきっと乱暴などなさらないわ。やさしく導いてくださるから落ち着いて)
式での口づけすらためらってしまうレオなのだから心配いらない。そう自分に言い聞かせるのだが、セレスの不安は消えなかった。
だってレオは、戦う男だ。力を入れたつもりなどなく抱きしめても、セレスにとっては骨が折れるほどなんてこともあるかもしれない。
これまでレオの端正な姿しか見ていないが、実は胸板が厚いし腕も太いと服の上からでもわかる。背もセレスの頭がやっと肩先を越すぐらいに高い。あんな体にのしかかられたら――と思うと身がすくんでしまった。
夫婦の寝室はいちおう別だ。間に簡単な洗面を挟んでいてドアもあるのだが、就寝の支度をすませたらレオはこちらに来るだろう。それともセレスが呼ばれるのか。
夜着に薄いガウンを羽織ったセレスは、ドアから離れたところにある椅子に倒れこんだ。動悸が激しくてもうだめだ。
――コンコン。
ノックにセレスはハッと顔を上げた。永遠かと思うほど待ったが、たぶんそれほど経っていない。
「は、はい」
静かにドアを開けたレオもガウン姿だった。寝台ではなく椅子にいて青ざめるセレスに苦笑いしたように思えた。
「セレスティーヌ……」
名を呼んで、レオは向かいに腰をおろす。いつになく表情が強ばっていた。ひとつ大きく呼吸をすると、単刀直入に切り出される。
「無理はさせたくない」
「……は、い?」
目をそらし気味なレオに、セレスは間抜けな声で応えてしまった。緊張の裏返しだ。チラリと視線を戻したレオが眉をひそめていて、セレスの心臓は凍りつきそうになる。
「やはりセレスティーヌが怯えているように思えて――俺が、怖いか」
「え……あの」
セレスはうろたえた。




