第10話 タルトシトロン
それはセレスが個人的に所有する土地のこと。頬の傷の慰謝料として譲り受けたものだ。説明されてレオも思い出す。兄のマティアスがそう教えてくれていた。
その所領、これまでは父侯爵の管財人を通して管理していた。だが結婚した今となっては夫のレオに協力をあおぐべきではと侯爵家から言われてしまったのだ。
「それでレオさまの所領はどうなさっているのか、と尋ねたんです」
「ダニエルは家令も兼ねるからな。任せてしまっているが……」
「そう聞きました。あの……ダニエルは、私にも当家の帳簿を見てほしいと」
「うん?」
首をかしげるレオに、セレスはもじもじする。差し出がましいことだと思ったのだ。
ダニエルが依頼したのは、レオの財産が正しく運用されているかのチェックだった。信頼されているダニエルだが、ひとりで処理を続ければ不正を行うこともできる。なので「奥さまが目を通して下さい」というのだ。
逆にセレスの領地の運営にダニエルも力を貸す。どうせ隣接しているのだし、問題が起これば共通した対応が必要になるだろう。協力態勢を築きましょう、というわけだ。
「セレスティーヌは領地の経営もできるのか」
「できる、というほどではありません。少し学んだだけで。いちおう私が領主であるならば、領民を飢えさせるわけにいきませんから」
言ってからセレスは少し後悔した。こんな可愛げのないことを口に出さず、何もわからないふりをすればよかっただろうか。
だがレオは感嘆の声をあげた。
「さすがだな」
「え――いえ、そんな」
「いや。民が幸せでなければ、土地だけあろうと何もならない」
スクっと立ったレオはごく自然にセレスへ手を差し伸べた。一瞬目をみはったセレスだが、そっとつかまり立ち上がる。レオは両手でセレスの手をやわらかく包んだ。
「俺が学んだのは軍事ばかりで、経営にはうとい。なのにどういうわけか領地と爵位を持つ身になってしまった。セレスティーヌが助けてくれると嬉しいのだが」
「――私などでよろしければ」
「頼りにしている」
明るく笑んだレオにつられ、セレスも微笑みを返した。
(私――ここにいてもいいんだわ)
セレスはやっと安堵したが――すると握られたままの手が気になってきた。どうしてレオは離してくれないのだろう。
セレスがもじもじと手を引きかけたのがわかって、レオはあえて手に力をこめた。片手をつないだまま歩き出す。
並んで館に戻りながら、セレスはなんだか心臓がうるさくなり困ってしまった。しかしレオの方は、なんとか成しとげた「手を握る」ミッションに小躍りしそうだったのだ。
✻ ✻ ✻
ここは館の台所。あまり使用人の領分に立ち入るべきではないのだが、今日のセレスはそっとお邪魔していた。晩餐の仕込みが本格化する前の時間でデザートを作ろうとしているのだった。
「……レオさまも、甘いものを召し上がるのね」
「ふふふ、そうなんですよ奥さま」
「たくましい方なのに、意外だわ」
夫のことを思い、セレスははにかんだ。
庭で手を握られてからもう数日。それ以上のことは何もないが、新婚夫婦はそっと視線を合わせたりはする。互いに照れてドギマギするだけだが。
寝室にそれぞれ引き取る前に、微妙なぎこちなさで「おやすみなさい」「ああ。おやすみ」と挨拶するのも日課になった。不甲斐ない主人にダニエルとアネットは「そこでもうひと押し!」と念を送っているが、届いていない。
今日の台所でセレスをサポートするのはアネットだ。夫婦仲のためなら、女主人が台所に入るぐらい仕方あるまい。
作るのはタルトシトロンだった。秋口とはいえまだ日中は暑さの残る頃にピッタリの、さわやかな菓子。
レオが昔から大好きなのだと聞いたセレスはつい、「子どもの頃、お菓子を焼いてみたいと思っていたの」と漏らしてしまった。
セレスは王太子と婚約する前、台所に忍び込みんで菓子作りをながめるのが好きだった。つまみ食いさせてもらえるのも嬉しかった。
まだ自由だった幼い時のそんな思い出は、幸せな甘い香りにいろどられている。
追憶に微笑むセレスの顔を見てアネットは即決し提案した。「ではタルトを焼きましょう!」と。
ダニエルがレオを焚きつけているのと同様に、アネットもセレスを後押ししなくてはならないと息巻いている。
「奥さまが、旦那さまのことを理解しようとなさるなら協力いたしますとも」
「それは……レオさまを支えるのが私のつとめですものね」
セレスの言い方は表面的だった。でもかまわないとアネットは思う。政略で結婚したばかりなのだから。すべてはこれからだ。
ボウルの前に立たされたセレスは砂糖と卵をかき混ぜる。溶かしバター、小麦粉も加えてサックリまとめ、タルト型へ。オーブンに突っ込む。
「あ……もういい匂いが」
「火は料理長に任せてよろしいですよ」
材料の分量も火加減も、難しいことは料理長が黙々とやってくれていた。セレスのような素人が手を出せることは限られている。それでもレオのためにセレスが頑張ったという点が重要なのだ。
「レモンの皮をおろして下さいますか?」
「皮を……? ふふ、気をつけないと指までおろしてしまいそう」
セレスは初めての作業に楽しげだ。
結婚以来ずっと所在なかったのは、何をすればいいかわからなかったせいかもしれない。王妃という仕事に就くため努力するのが日常だったから。何もしなくてよくなると、ぽっかり虚ろになってしまった。
ほろ苦いレモンの皮の香り。
次に果汁を搾ってみたら、ピッと顔まで飛び散って仮面が汚れた。でも気にならない。
バターや卵と合わせ、鍋を弱火にかけかき混ぜる。もったりしたら、すぐ下ろす。
「仕上げのメレンゲは時間をおくとしぼんでしまいますから。後ほど料理長にやってもらいましょう」
「そうなのね。ああ、とても楽しかった! お仕事の邪魔をしてしまってごめんなさい」
台所に潜入した女主人は、料理担当の使用人たちにも気をつかう。高貴な人の意外な丁寧さにそこにいた者はみな目を丸くした。




