第1話 仮面の令嬢
――――ぐったりと長椅子に横たえられたのは若い女性だった。
彼女の名はセレスティーヌ・ド・ヴァリエという。侯爵令嬢のセレスティーヌ――セレスは今、青ざめて気を失っていた。
セレスの右頬は不思議なことに、レースの仮面で覆われている。それをのぞけばセレスは、上品で非の打ちどころがないご令嬢なのだが――。
今その体は王国騎士の上着にくるまれており、大切な宝物のように扱われていた。
「何があって、こんな――」
怒りをにじませつぶやいたのは、騎士団員のレオだった。
ここは王家の私的なサンルーム。うららかな陽光があふれる部屋にあって、セレスの様子は痛々しかった。
若く精悍な騎士であるレオは苦しげにセレスを見つめる。その瞳に燃える気持ちは――恋。
だがそれは許されない気持ちだ。セレスは王太子の婚約者なのだから。
「――セレスティーヌ」
思わず名を呼んだ。するとセレスのまぶたが開く。
間近な翠の瞳が悲しみに凍っていたことで、レオの呼吸はとまりそうになった。
セレスが何故こうなったのか。
それは数日をさかのぼる――――。
✻ ✻ ✻
セレスは静かに茶器をテーブルに置いた。十八歳にしてセレスが作法を完璧にこなすのは、王太子婚約者としての努力の賜物。
翠色の瞳と白金の髪が印象的なセレスだが、ひとつ奇妙な特徴がある。
その顔の右半分が、不思議な仮面におおわれているのだ。
白い布地に精緻な花模様の白いレースの仮面。
――これは、セレスの頬に刻まれた傷を隠すためのものだった。
セレスがいるのは王宮のサンルームだ。春の陽が射し込む明るい窓辺は、王族のみが憩う部屋。小じんまりして華美ではないのだが、同席する人のおかげであまり居心地がよくなかった。
目の前に座るのは王太子のリュシアン。セレスの婚約者だ。
「香り高いお茶ですのね、殿下」
「そうか」
「はい、とても。こちらの茶葉はどちらから献上されたのでしょう」
「知らん」
リュシアンはいつものように不機嫌だった。
セレスとは婚約者として最低限の関わりしか持とうとせず、冷淡なリュシアン。
(きっと私の顔の傷がお気に召さないのだわ)
セレスはため息を飲み込んだ。
愛されなくても仕方ないのだろう。だってセレスは「傷もの」だから。
――だけどその傷を負ったのは、リュシアンのせいなのに。
「セレスティーヌ、おまえのその仮面を見ていると不愉快だ。もう何年になる。いいかげん治らないのか」
フン、と鼻を歪めてリュシアンはセレスをにらんだ。とても婚約者を見る目ではない。
泣きたくなるのをこらえ、セレスはうつむいて答えた。
「……怪我は治っております。ですが跡が薄く残っておりまして。殿下にお目にかけるのは失礼だと父に申しつけられました」
「ははッ――寝室でも外さないつもりか」
セレスは言葉に詰まる。
二人の婚儀は、もう準備が進められているところだった。
結婚するということはリュシアンと夜をともにするということ――セレスは王家の血を引く子を産むために嫁ぐのだから。
だがそれは、こんな茶の席にふさわしい話題とはいえない。黙りこむセレスをリュシアンは鼻で嗤った。
「お堅くて面白味のない女だな。夜も興ざめなことだろう」
「……努力いたします」
「期待はしないぞ。もういい、今日はここまでだ」
セレスと会うのは義務でしかないと態度で示しながらリュシアンは立ち上がる。足早に出て行きしなに振り返り、投げつけてきた言葉は嫌みだった。
「またミレイユを連れてくるといい。あれはおまえの妹にしては愛嬌のある女だ」
返事も待たずにリュシアンは行ってしまう。セレスは頭を下げたまま動くことができなかった。
ミレイユというのはセレスの妹だ。
ひとつ年下で、愛らしく天真らんまん。ミレイユが宮中に伺候するとリュシアンは楽しげに彼女と話す。そんな二人の姿をながめ、セレスは胸の痛みを感じていた。
「ミレイユ――あの子の方が殿下にはお似合いなのかしら」
口に出してしまって、セレスの心は崩れ落ちそうになった。
真面目でつまらないセレス。
華やかで甘え上手なミレイユ。
リュシアンの好みは、きっとミレイユだ。
セレスは過去、身を挺し王太子を守った。頬の傷はその時のもので、その気概を国王陛下に気に入られリュシアンの婚約者になったのだ。
王太子妃とは、すなわちいずれ王妃となる者。リュシアンと国とを支えるために、作法も学問も必死で学んできたのだが。
「私――なんのために」
妃になどなっても、ちっとも幸せではない気がする。
涙ぐみそうになるのをこらえ、セレスはそっと廊下に出た。
――カツ。カツ。
磨き上げられた大理石の廊下にセレスの靴音がひそやかに響く。
大きな窓から入る陽射しは明るいのに、セレスの心は沈んだままだ。高い天井のフレスコ画も、飾られた優美な形の壺や活けられた花々も、気持ちをなぐさめてはくれなかった。
「――これは、ヴァリエ侯爵家ご息女殿」
力強いが礼儀正しい声を掛けられたのは馬車寄せへと向かう途中だった。
セレスに対して無駄のない礼を取ったのは若い男性。やや癖のある栗色の髪で騎士団の隊服を身につけている。
「ラヴォー公爵家のご子息さま」
「お帰りですか。ヴァリエ家の馭者を呼んできましょう」
「そんな。あなたのような方をわずらわせるのは」
「かまいません」
言葉は少ないが、あたたかい声色だった。
彼の名はレオ・ド・ラヴォー。セレスよりいくつか年上で、ラヴォー公爵家の次男だ。
第一騎士団に所属し、王宮と都を守る気鋭の武人のレオ。だが荒々しいところはまったく感じさせない。
「すぐに馬車を回させます」
「あ……」
レオはキビキビした足取りで行ってしまった。そんな雑用をするような身分の人ではないのに。
ラヴォー公爵夫人は今の国王の姉。つまりレオは陛下の甥で、リュシアンの従兄にあたる。兄である公爵家長男ともども、王位継承権すら保持する立場なのだった。
「申し訳ないわ……」
レオは騎士らしく礼を尽くしてくれただけだとわかっている。でもセレスにそんなことをしてくれなくてもいいのだ。リュシアンにないがしろにされるセレスなどには。
セレスはうつむきかけるのを必死でこらえた。そんなの淑女としてみっともない。前を向かなくては。これでもセレスの肩書は、王太子の婚約者なのだから。
ゆっくりと優雅をよそおいセレスは廊下を進む。すると馬車寄せの手前でもうレオが戻ってきた。なんて足が速いのだろう。
「まもなくです」
「ご親切にありがとうございます」
「いえ」
レオの言葉は短く、そっけない。だがリュシアンよりよっぽど優しく聞こえた。それが悲しくてセレスは力のない微笑みを浮かべる。
「……どうしました」
仮面越しなのに、セレスはよほど情けない顔をしていたのかもしれない。レオの焦げ茶の瞳が案じていた。
「いえ――」
言えない。王太子がセレスのことをうとんでいるだなんて。
そしてセレスも――リュシアンのことを愛おしく思えずにいるのだなどと、口が裂けても言ってはならないのだった。
「ああ、来ましたね」
ヴァリエ侯爵家の紋章をつけた馬車が見えて、セレスは外に出た。さりげなくエスコートしてくれるレオに軽く礼をする。
「お送りくださってありがとうございます」
「お気をつけて」
馬車に乗り込み帰っていくセレスと、見送るレオ。そこで――。
紳士だったレオのまなざしが狂おしく変わった。
「セレスティーヌ……」
つぶやくのはセレスの名。
それは親しい仲でなければ呼んではならないものだ。だから本人の前で呼ぶことはない。
――たぶん、一生。




