第4話 壊れた杯
「お、ミーコおはよー」
鈴山駅を出てすぐ、バス停で待っていた先客たちの中から深衣の友人、リコが声をかけてきた。
「おはようございます! 今日はいい天気ですね!」
「え……ど、どした? なにその喋り方」
あたしが知りたいよそんなの。
いつも通り挨拶を返したつもりだったのに、友人はおろか先生にすらしたことのない元気いっぱいの敬語の挨拶が出た。
いつの間にか消えていた酷い日焼け痕とは違って、思い通りに喋れないこの現象は改善していかない。
まさかこれが呪い……?
そう思っていた深衣だったが。
「実は今朝起きてからというもの、思ったことを思った通りに話すことができないんです」
「えーなにそれこわいじゃん。アタマの病気?」
「……あれ、いま言えてました? ですます口調は外れないけれど概ね思ってることが言えました!」
「え、聞いてない感じ? こわいこわいこわいこわい」
そのつもりなど無いのに「帰って勉強する」などと言ってしまった今朝とは違い、今は伝えたいことを伝えることができた。
ようやく人前でのコントロールを取り戻せそうな口を嬉しさいっぱいに開ける深衣。
しかしすぐにはっとなって、目の前の友人を見る。
──いやこわいんだけど。急になに? 二学期デビュー? 昨日会ってんのに?
薄らに開いた小さな口、そこから覗く舌の位置。
口角とは真逆に歪んだ眉の下げ幅と角度、とそれを取り繕おうとする表情筋全体の運動。左右非対称の表情。
耳の奥に残る直前の言葉の振動から現在の細い吐息への遷移が意味する感情。
そして肌に感じる刺々しい冷たさ。
友人が自分の言動に抱く嫌悪感を、冷杯深衣は瞬時に感じ取り。
それにすぐさま共感した。
「いやごめん。友達に敬語とかマジキショかったわ。あー鬱」
外せなかった丁寧口調が外れた、そのことへの喜びは今の深衣にはなく。
ただ心から自分のそれまでの言葉遣いに対して不快感を感じていた。
傍から見ると豹変としか言いようがない深衣の言動。
しかし彼女の友人は一瞬戸惑いこそしたものの、昨日までの深衣の口調に戻ったことにほっと安堵の息をついた。
「もーなんだよギャグかよー。変なクスリで頭ヤったのかと思ってガチでこわかったんですけどー」
「いやいやいやあたしが一番怖いかったからねこれー」
「なに? スベったらどうしようみたいな? スベってたけども」
「そーゆー意味でもなくてこれ半分ガチなんだけどー」
言いながら、ようやく到着したバスに乗り込み空いている席に二人で腰掛ける。
人が続々と乗り込んで揺れる車内。前方のロングシートに座った彼女たちの前に、マタニティーマークのキーホルダーを着けた女性がやってきた。
気の置けない友人との会話を弾ませていた深衣の脳がずきりと痛み。
「っ……」
目を閉じた一瞬、闇の奥でちかっと小さな光が瞬く。
【いい子は妊婦に席を譲らなければならない】
「…………」
「あれ? ミーコどした?」
がばりと席を立ちあがると、深衣はたった今用意した空席に手を差し出して言った。
「お姉さん、この席どうぞ」
「えっ」
二人の様子から譲られることを諦めていた女性は驚きの声を発したが、すぐに「ありがとうございます」と申し出を受けて座った。
困惑の目で見る友人をよそに、「どういたしまして」と深衣は笑顔を浮かべる。
友人はやはり、不気味なものを見る目をした。
──アンタって、そーゆーのじゃないでしょ……。
そこにいるのは、深衣の姿形をした別のなにかではないか。リコという友人はそう思ってすぐに、んなわけないよね、と。閉口して馬鹿げた考えをしまいこんだ。
◇
バスが鈴山学園前のバス停に停車し、深衣たちは二学期が始まって間もなくの体育祭について話をしながら、学校に辿り着くための最後の難関である急こう配の坂を登る。
鈴山学園高等学校、通称「鈴園」。
この私立高校は霊山としての歴史も有名な鈴山の山腹にあり、教育機関が位置する標高としては港庫県内第二位。バスに乗って登校する生徒であってもその最後には過酷な登坂を余儀なくされていた。
深衣たちの楽しい会話も、登りきる頃にはいつもどおり坂への恨み言に変わる。
ただ、頂上の景色はいつもとはかなり違っていた。
正門を通り過ぎて昇降口に入るまでの小さな広場に人だかりができている。その中心には体操服を着た女生徒に頭を下げて手を差し出されている、白髪の女生徒。
「うわ、またコミパイが告られてんのか」
みたいね、と適当な反応を返して深衣は人だかりの縁をなぞるように避けて校舎に入っていく。
「転校してきてから何回目だっけ?」
「三回は見たよね。今ので四回目?」
「はは、おモテになることで。あの白髪がそんなに良いのかねぇ」
その声色に滲む侮蔑と嫉妬心を感じ取ると深衣も同じ気持ちになる。
二年になってからやってきた余所者の分際で、学年も性別も問わず人気を集めるあの女にもやもやと憎しみが膨らんでいき、ほんの小さな悪態がその口から
【人を僻んではいけない】
「いたっ」
「ん、どした?」
「いや、ちょっと頭痛」
まばたきの奥で小さな光が閃くと、深衣は微笑みを浮かべて歩みを早めた。
「はやく教室いこ。クラスメイトと一ヶ月半ぶりの再会だよっ」
「えぇ……? ほんと今日なんなん……?」
背に受ける友人の黒い感情から逃げるように教室に向かう深衣。
だめだめ、人を僻むなんて。楽しいことで心をいっぱいにしていれば、そんな悪いことをしなくてすむのです。
深衣にとって一年四組の教室は気楽な場所だった。親からのプレッシャーを感じないし、勉強ができて社交的なために先生からも好かれている。
それに、
頭痛がする。教室に近づくたびにズキズキと。
それに、ここには……
スキップに近い早足でやってきて扉を引き開ける。
脳を締め付ける記憶が開く。
ここには……、あの子がいる。
すぐに目に入る、教室の奥、傷と落書きとゴミで汚れた惨めなあの子の席。
俯いてそこに座る少女、大宅カルテ。
ヘンで間抜けで面白い、あたしの一番の友達……。
がきり。特大の痛みが、歯車のかみ合ったような幻聴を頭の奥に響かせて。
【いじめをするのは「いい子」ではない】
深衣の信念が瞼を開けた。




