第19話 許せないから
「なに!? とっとと帰れば!?」
始業式以来の怒声で、まだ教室に残っていた生徒が蜘蛛の子を散らすように出ていき、放課後の教室はあっという間に閑散とする。
教室の中は深衣とカルテだけになった。
深衣は席を立ち、机の横へ。
背の高い彼女を少し見上げる形で、カルテと正面から向き合う。
「なんで死んでくれないの」
「っ……それは、あたしが死んだら、お父さんとお母さんが悲しむからです」
「アタシも悲しいよ。アンタが死んでくれないから」
「ごめんなさい……でも、いい子として、お父さんとお母さんを悲しませるようなことはできないのです」
「ハッ、いい子として? アタシの言うことなんでも聞くって言っといてなんにもしてくれないのに? ウソつき。何がいい子よ馬鹿馬鹿しい」
容赦などあるはずもない言葉の暴力。殴りつけるような怒りの声音が深衣の脳に痛みをもたらす。
しかし、どうしてか。
深衣の思考はあの昼休みの空のように晴れていた。
痛みに喘ぎながら後悔と懺悔が洪水を起こす脳でも、相手を冷静に見つめることができた。
「それじゃあアンタは何ができるのよ。何をしてくれるっていうのよ。どうしたら、どうしたら……ッ!」
償ってくれるっていうのよ。
噛み殺すように軋む歯から滲みだす、燃え盛る怒りの言葉。
けれどカルテの碧い瞳は、潤んでいて。
目の端に雫を溜めていた。
これは……かなしい、気持ち……?
ずっと、見落としていた感情があった。
自分の痛みに気を取られ、目指した光に盲目となり、気づくことができなかった心。
今なら、手を伸ばすことができる。
「カルテちゃん。教えてください。……どうしてそんなに、苦しんでいるのですか?」
「……冷杯深衣。アンタを許せない」
拒絶ではない。単なる事実だ。
その前提の確認から、彼女の告白は始められたのだ。
どうして、いじめの魔の手を逃れたはずのカルテが、こんなにも苦しんでいるのか。
その告白。
「始業式の日アンタを殴り飛ばしたけど、全然足りない。アタシの高校デビューをイジってネタにして、ノリとか言ってずっとアタシをいじめてきて、アタシの高校生活が……絶対忘れられない人生の一部がぐちゃぐちゃのボロボロにぶち壊された。死にたいと思った。辛くて苦しくて、助けてほしいけど誰にも言えなくて、優しくしてくれるママに申し訳なくて、信じて見守ってくれるパパに申し訳なくて、やり返せない自分の弱さがどうしようもなく嫌いで、疲れて、嫌になって……全部諦めて終わりたくなった」
きっと共感の呪いなどなくともその心を理解できただろう。
深衣のこの一週間は、カルテが過ごした三か月近い地獄の追体験だったから。
「……それでも、引きこもりにもならず自殺もしなかったのは……アンタと同じ。パパとママが悲しむから。だからずっと耐えてきた。耐えて、耐えて、いつかくる終わりまで、ずっと、ずっと耐えて壊れてやろうって、思ってた。…………それが」
あの日、突然終わった。
狂った深衣が、突然手のひらを返して、いじめをやめさせた。
「散々いじめてきた張本人が、いきなりいじめはいけないことです謝りましょうとか言い出した。……殺したくもなるでしょ。殴って当たり前でしょうが」
怒気の滲む静かな声に深衣は頷いた。
その瞳にはもう炎がないことをわかって、深衣はただ黙って聞いていた。
「腹が立った。屈辱だった。怒りでいっぱいになって、アンタを殴った。生まれて初めて、人を殴ったの。……頭に血がのぼって、そのときは何も思わなかった。けど振り返って…………すごく嫌な気持ちになった」
自分が最も嫌悪していた奴らと、同じ場所に立ってしまった気がした。
これまでされたことを思えばあんなものでは済ませられない。済ませていいはずがない。
なのに、どれだけやり返しても気持ちが晴れることはないと確信していた。
間違ったことをしたなんて思わないけれど。
「これ以上は要らないと思った」
カルテの白い頬の上を、透明な雫が一筋流れる。
綺麗なその雫の中には黒い憎悪などどこにもなく。
そのとき彼女が確かに救われていたことを映したようだった。
「だから、みんながアンタを避けてた一週間、アタシも何もしなかった。もう何もするつもりなかったわ。二度と関わらないで生きていければそれでよかった。……でも」
深衣へのいじめが始まった。
あの深衣のことだ、すぐにやり返すだろう。やめさせるだろう。先生に言ったり弱みを握ったりして、なんとか切り抜けるだろう。そう思っていた。
それなのに、深衣は一学期のカルテと同じ状況に甘んじた。
いじめられることを受け容れた。
「いけないことだとか言ったくせに、自分がいじめられる番になったら黙ってされるがまま? ……ふざけんなって話よ」
ギラリと目つきが鋭くなる。
特別棟四階の女子トイレで話したとき、だからカルテはあんなにも怒っていた。「どうしてやめさせないのか」「やり返さないのか」と。
深衣の答えは「その方がみんな幸せだから」「みんなが幸せなら自分はどうなってもいいから」だった。
「あのときのアンタ、本当に気持ち悪かった。今思い出しても鳥肌が立つ。夏休み前のアンタと、別人すぎるでしょって。…………だから。だから、なのよ……」
許せなくなった。
許して、忘れたかったのに。
忘れて、前へ進みたかったのに。
『いい子』の深衣の眩しさは、みんなの幸せを重んじる彼女は、カルテにとって許し難いものだった。
「パパとママだけは悲しませないようにって、アタシは耐えた。耐えたの、二人のために。それをアンタは、みんなが幸せになるから、なんて言い出した。は? でしょ。なにそれ? みんなのためにいじめられてあげなかったアタシは弱者だってわけ?」
「それは違うのです」
「わかってるわよ。アンタとアタシは違う。……二人のためとか大層なこと言って、ただいじめられているしかできなかったアタシと違って……アンタはわざわざいじめられてあげてた。みんなのため。そう、みんなのために!」
「アンタの目に映ってるのはみんなであって、アタシはその中の幸せにされる一人でしかなかった。ついででしかなかった……
それがどうしても許せなかった」
その眩しさをみんなのために放っていることが、許せない。
深衣の胸倉をカルテが掴む。
強烈な力で深衣の顔とカルテの顔が急接近する。
ぐしゃりと怒りでしわを作った表情の上に、一つ。二つ。涙が線を引いていく。
「まず、 誰よりも、 優先して」
言うたびに、綺麗な碧の瞳が近づく。
切ない感情の高まりが、深衣の心臓をも打ち鳴らしていく。
「アタシに!! 償うべきでしょ!! アンタは!!」
「っ……!」
壊れた。
砕けた。
ぶち当たっていた分厚い壁が。抑え付けていた岩の天井が。
壊れて、その向こうにあった心に。
深衣は触れた。
始業式の日、深衣を殴って赦しの境地に踏み入ったはずのカルテがなぜ今、憎悪に囚われているのか。
何が被害者を憎ませたのか。
何が少女を狂わせたのか。
元凶は、『みんなのいい子』である深衣だ。
全体を慮る『いい子』の深衣の振る舞いがカルテを弱者たらしめた。
誰も彼も幸せにしようとするその生き方が、カルテを敗者たらしめた。
最も救うべき一人を、清く正しい『いい子』として、公平に扱ってしまった。
「……ごめんなさい。あたしは、カルテちゃんを見れていなかったのです」
白髪の先輩の問いが脳裏を過る。
『いい子である深衣』は何をすべきなのか。
その答えを、今見出した。
「カルテちゃんを幸せにできないと、いい子になる資格なんてあたしにはないのです」
カルテを、自分がその人生を破壊してしまった少女を、第一に救う。
それは他の誰にも、どんな聖人君子にもできない、この世で唯一彼女にしかできないこと。
今の深衣がすべきことだった。
「っ……、そうよ、アタシを無視して、アタシを救わないで、どのツラ下げていい子なんだっての。アンタがまず償うべきはアタシ。クラスの奴らとか、あのクソいじめっ子どもとかを幸せにするなんて、アタシの後でなきゃおかしいでしょうが」
「カルテちゃん。もう一度聞かせてください。あたしは、カルテちゃんだけのために、何をしたらいいですか?」
改めて問う。
彼女が言う『償い』とは、『救い』とは。
彼女の幸せに必要なこととは、何か。
「そう、そうね」
涙に塗れた顔をジャケットの裾で拭くカルテ。
「それじゃあ、とりあえず」
赤らんだ目元。晴れやかな笑みで。
「冷杯深衣。アンタは」
左の手のひらに、右の拳を。
バシンッ。
強烈に殴りつけて言う。
「性格最悪クソ女に戻って」
「今のアンタを殴っても、アタシは幸せになれないから」
「……え」




