第17話 蘆屋小路という先輩
「ごめん、その、泣き声聞こえてきたからなんかあったんかなーって……扉開いてたから、思わず」
ハンカチを差し出すのは、柔らかで艶のある長い白髪を三つ編みのおさげにした女子生徒。髪と肌の白さとは正反対に真っ黒な瞳は、白くて綺麗なまつ毛に細く垂れ気味に縁どられていて、おっとりと優し気な印象を与える。
二年生。蘆屋小路。
一学期に転校してきたにもかかわらず今や鈴山学園高校で知らない者はない、誰からも愛される人気者の先輩。
その人がどうしてか、人の寄り付かない特別棟四階のトイレへやってきていて。
いじめの苦しみに喘ぐ深衣の前に立っていた。
「顔ぐしゃぐしゃやね。拭いたるからちょっと我慢してな」
「あっ、の、んぐ」
関西弁なのです……。
最初に思ったのはそんなことだった。
男女問わず告白されているほどの好人物で転校生。その神秘的な白髪もあって、きっとお上品な言葉遣いで話すものだと勝手に思い込んでいた。
それほど深衣にとって蘆屋小路は遠い世界の人だった。
「はい。キレイになった。どしたん? ウチでよかったら話聞こか?」
「え、っと、あの……」
便座の蓋の上に座る深衣に、しゃがんで視線を合わせてくれる小路先輩。
関西訛りの粗野な印象を微塵も感じさせない、澄んで清らかな高い声。寄り添うような穏やかで優しい声色。
今の深衣にはどうしてか、そんな優しさを向けられるのが一番苦しかった。
「ご、ごめんなさい、ハンカチ、汚してしまったのです……。洗って返しますので、お預かりさせていただけないでしょうか」
「気にせんでええでそんなん。ハンカチなんて汚れてなんぼやろ? それよりキミがそんな辛そうな理由の方が気になるわぁ」
そう言う小路先輩の微笑みは柔和そのものだった。
しかし、共感の呪いが発動すると。
その心のうちが深衣の中へと流れ込んでくる。
笑顔にしては平坦な目、訊くにも不都合な体勢、肌の冷や汗に、呼吸の浅さ……。
本当のところは、彼女は深衣の話を聞きたいとは思っていなかった。
──まさか人がおるとは……。思わず理由なんか聞いてもうた。どうしよ……。
しまったのです。このトイレを使いに来たのでしょうか。とにかくご迷惑をおかけしているのです、すぐに退散しなくては……。
──ていうか。
しどろもどろに応えながら弁当を片づけようとする深衣。
彼女の脳に、彼女には思いもよらないことが、理解もできない言葉が、蘆屋小路の思考から流れてきた。
──この子ちょっと落としといたほうがええな。
「へっ?」
「ごめんな」
そう言って蘆屋小路は。
折りたたんだハンカチをポケットにしまい。
反対のポケットから携帯ティッシュを取り出すと。
大量の紙をかしゃかしゃと乱暴に引き抜いて……。
深衣の顔をがしごしと拭き始めた。
「うぐっ、あっ、が、のっ、あのっ、ぐむっ!」
「あーごめんなーごめんごめんウチちょっと潔癖なとこある的なない的ななー?」
「どっ、どっちなのです!? うなっ」
ぼちぼちでんなー、などと意味のわからないことを言いながら、小路は深衣の顔を拭きまくったちり紙をまとめて持って隣の個室に行く。
「かわ……よみず……よ…ここ……れる……な……れを……したまえ………まえ……しょうじょ…き……さん…………つりょう」
カタン、チャッ、ジャー。何事かを呟く小路の声に被さるように紙を流した音が聞こえてくる。
「お待たせー。キミ、先に言うとくけどそれは彼氏が悪いで」
「恋愛の悩みというわけではないのです……。というか、ティッシュはトイレでは流せないのです! よくないことですよ先輩!」
「キミもウチのこと知ってくれとるんやねえ。安心してええよ。これ水に溶けるやつやから」
「そ、それなら……」
問題ないのです、言っている間に小路は深衣の膝の上に展開していた弁当箱をさっさと重ねて、深衣の手からひったくった水色の巾着にしまうと、ひょいとそれを取り上げてしまう。
「あのっ、あたしのお弁当っ」
「外いこ。ウチええ場所知ってんねん」
手を引かれて、深衣はトイレを後にする。
外、と言った小路だったが、彼女は女子トイレのすぐ横にある階段を上る。屋上へと向かっていた。
「一年生やんな。お名前は?」
「えっ、ん、深衣、冷杯深衣と申します、です」
「ええ名前やね。みーちゃんって呼んでもええ?」
「は、はい。 あの、屋上ですか? 閉まってるんじゃ……」
聞いた時にはすでに屋上へと通じる扉の前。
古くなって使われなくなったボロボロの机や椅子が積まれているその場所に、観音開きの扉の窓から白い陽光が差し込んでいる。
光に迎えられるように近づいた小路が、ガチャリ、ドアノブを回して押したところ、扉は抵抗することなくそのまま開いた。鍵は掛かっていなかったらしい。
屋上に出た。
返し付きのフェンスに囲まれたそこでは、降り注ぐ陽光を屋上面積の半分ほどを占める太陽光パネルが受け止めていた。
九月も中旬。晴天の空に昇る燦々とした太陽はその曙光に優しさを取り戻し始めている。
快適な陽気に加え、風がすぐそばの鈴山から土と木々の豊かな香りを運んできて、一層快い。
まさに、『ええ場所』なのだった。
「あのパネルの脚んとこやったら校舎からも見えへんから」
握っていた手を自然に離した小路先輩が先んじて座する。
先輩の手招きに従って深衣は隣に腰掛けた。
じゃあこれ、と言って膝の上に返却されたお弁当。先輩が手のひらを差し出して促すので、深衣はそれを開き直す。
まだ卵焼きと肉巻きアスパラガス、それに若菜の混ぜご飯が残っている。それらを見つめて、ふと気づく。
……吐き気がしない。早く食べたいのです……。
「聞かせて。なんで泣いてたんか。でも食べながらの話なんやから、楽しくな?」
どこからともなく取り出したバータイプの菓子の包装を解く小路。
綺麗で朗らかな空気に誘われるまま、深衣は彼女に話せることを話した。
ある少女にひどいいじめをしていたこと。
夏休み最後のあることがきっかけで、それを深く悔い改めることになったこと。
そして、その結果今は自分がいじめられることになり、いじめていた少女からも「死んで」と言われていることを。
明るくは無理でも、涙一つなく、言葉を喉につかえさせることもなく語ることができた。
「そら辛かったなあ……。よう頑張ってるわ、みーちゃんは」
話を聞いた小路は心底同情したというような声で、目の端の涙を拭うようなしぐさまでする。
共感の呪いでどんな感情を抱いているかわかるということは、もちろん伝えていない。
──おっも。気軽に首突っ込むんやなかった。どうしよ……。
面倒なことになった、という本音に深衣は心から共感する。面倒ごとを共有してしまった申し訳なさが湧き上がってきた。
心底億劫になっていたが、いい子として、深衣は正直に謝罪した。
「ごめんなさい、です。こんなこと話されても困ってしまいますよね」
「えぇ? ウチは別に困らんよ。困っとるんはみーちゃんの方やんなあ。どうにか助けてあげたいけど……」
──いじめの終わらせ方とかさっぱり思いつかんわ。できるとしてもウチそんな暇やないし……困ったなあ。
助けてあげたいなんて言葉は心にもないものだったが、それを少しも顔に出さないでいてくれることを深衣は嬉しく思った。
一緒に悩んでくれただけで、十分すぎるのです。
「あの、ありがとうございました先輩。気分が晴れたのです。これ以上先輩のお時間をいただくのも心苦しいので、あたしはここで失礼します」
「あっ、ちょっと待って。最後にいっこ、聞いときたいことあるんやけど」
立ち上がって去ろうとしたところを呼び止められ、振り返って見た小路先輩の顔には純粋な疑問の色が浮かんでいた。
「夏休みに色々あって『いい子になる』って改心した、やったね?」
「はい。詳しくはその、言いづらいことなのですが……」
「うん。そっち深掘りするつもりはあらへんよ。ウチが聞きたいんは」
太陽光パネルの下、日陰の中から黒い瞳で覗く蘆屋小路は、こう問うた。
キミの言う『いい子』って、なに?




