第16話 大丈夫?
「みーちゃん、もしかして、いじめを受けていませんか?」
「えっ……」
土曜日の朝。
朝食を食べようとリビングへやってきた深衣に、彼女の母親は尋ねた。
その表情は一見、とても穏やかで柔らかい印象を抱かせる微笑みである。
しかし共感の呪いは深衣へと、その裏で渦巻くひりひりとした不安、焦燥、心配を伝えてきた。
自動的に共鳴を起こす深衣の心。弱音を吐いてしまいそうになる。
「だ、大丈夫なのです。昨日は、ちょっと……体調が優れなかっただけなのです」
しかし、折れない。
娘がいじめられているなんて知ったら、お母さんはきっとひどく傷つくのです。
いい子として、そんなことあってはいけません。
「その、最近続けているちょっと丁寧がすぎる口調も、何か理由があるのではないですか?」
「え、え? いや、これは全く関係ないのです。いい子として、ふさわしい言葉遣いを心掛けているだけなのです」
「みーちゃんは以前からいい子でしたよ。それがどうして、突然『ふさわしい言葉遣い』なんて、考えたのですか?」
「え……っと……」
人生破壊光線女のせい。
カルテに対してそうだったように、そのことは基本的に誰にも話していない。
信じてもらえないから。奇異の目で見られるから。怖がらせるから。心配させるから。
話すメリットがない。
例外的に話したのはその情報を立場上信じてくれると思えた占い師の六子と、怪異狩りの怪異【クロユリさん】にだけである。
でも、こんなに切実に聞きたいと思ってくれているなら、正直に話すのが『いい子』のすべきことなのです……?
だけど仮に信じてもらえたとしても、それはそれとして頭の病院に連れていかれそうな気がするのです……。
「……ごめんなさい」
「へ?」
悩んでいた深衣より先に、母親が申し訳なさそうに謝った。
「こんな問い詰めるような訊き方、よくありませんでした」
「いや、そんなことないのです。心配してくれて、嬉しかったのです」
「……それじゃあ、話してくれますか? 昨日の早退のこと、それに、この間同級生に暴力を振るわれたことも」
「それは…………」
【誠実に打ち明けなくてはいけない】
そうなのです。いい子はお母さんに嘘はつかないのです。
【親を悲しませてはいけない】
そうなのです。お母さんを悲しませるようなことを言うべきではないのです。
……あれ? どっち? 言うのか、言わないのか、どうしたらいいのです……?
目の奥がちかちかとチラつくのを感じる。光が眩しい。頭が痛い。唇が震える。
声が聞こえる。同じ声が、二つの事を同時に言ってくる。
言え。言うな。言わなくては。言ってはいけない。
どちらも同じ強制力を持っている。
いい子としての正しさを押し付ける呪いの声。
それがいつも一つとは限らないことを、深衣は今初めて知った。
「う、……うう」
「ああっ、みーちゃん! ごめんなさい、大丈夫ですか?」
「大丈夫なのです。ちょっと、頭が痛いだけ……」
「食事前にこんなこと、聞いてはいけませんでしたね。みーちゃん、食べられますか? 少しでもいいので食べて、それからお薬を飲んで、今日は休んでください」
「は、はいなのです……」
促されるままフォークを手に取りサラダを口に運ぶ。
やけにサラダが青臭く感じる。一昨日に見た虫のことを思い出して吐きそうになる。
抑え込む。母親が用意してくれたご飯を吐くなんて許されない。
深衣は何度も嘔吐しそうになりながら、出された料理を時間をかけて食べ終え。
薬を飲んだ後自室にもどり、ベッドに横たわって、まもなく眠りに就いた。
そんな調子で土曜も日曜も過ごしてしまい。
人生破壊光線女の調査は捗々しく進まないのだった。
◇
月曜。朝7時。
いつもよりずっと早くに学校に来た。
靴箱にも机にもロッカーにも手出しされないようにするくらいはしよう。いじめられすぎはよくない。そう思ってのことだった。
靴箱を開けると、中に腐葉土がばら撒かれていた。その上にノートの切れ端が置いてある。切れ端にはごく短い文言。
[来たん?笑]
共感の呪いが発動し、その短いメッセージに込められた底なしの悪意を脳内に流し込む。
これ全部、あいつらの靴箱に返してやりましょうか。
【悪意を抱いてはいけない】
「いたっ」
いい子の呪いが針を刺すような痛みで黒い感情を取り除くと、いい子の深衣は自己嫌悪に陥る。誰かを害したいなんて思ってしまった自分を心底嫌いになる。死んでしまいたくなる。
ずっとこんな苦痛と反省を繰り返して。
もう、終わらせたくなる。
【諦めてはいけない】【いい子にならなくてはならない】
「……痛いのです」
けれど、痛いのにも慣れてきてしまいました。
月曜日 昼までに起きたこと。
靴箱にメモと腐葉土が入れられていた。虫はいなかった。
机が空き教室に運ばれていた。中は空っぽだった。
登校してきたリコとエミにジュースを買いに行かされた。
ジュースのお礼にと貰ったお菓子の箱、中にはぐしゃぐしゃにされたプリクラが入っていた。以前二人と一緒に撮ったものだった。深衣の顔だけペンで黒く塗りつぶされていた。
体育の授業でボールを何度もぶつけられた。
授業終わりに更衣室に戻ると制服がゴミ箱の中に入れられていた。
そして、昼休み。
深衣は特別棟四階の女子トイレに来ていた。
母親が作ってくれたお弁当にだけは、手を出されたくなかったから。
彼女はいじめが始まってからというもの、人目に付かない場所で昼食をとっていた。
特別棟は職員室や理科室、家庭科室、その他準備室など特別な用途の教室が固まっている都合上、場所によっては生徒も先生もやってこない。
この四階の女子トイレは全体的に狭苦しいうえ教室棟から遠く離れているため、特に利用者が少なくなっている。
そして深衣も探してみるまで知らなかったことだが、このトイレの四番目の個室だけは他に比べて少し横幅が広く、便器の後ろに荷物を置けるような壁の出っ張りがあった。
深衣はそこに鞄と、いつも弁当を入れている水色の巾着袋を置いている。
トイレだということを我慢すれば、誰にも見つからずに弁当を食べるのに向いている場所だった。
「………………あ」
カップに入ったブロッコリーの中華炒めを食べ終えて、その底面に何か文章が書かれているのを見つけた。
よくあるおまけ程度の文章。
添えられたブロッコリーのキャラクターの絵から出た吹き出しに、こんなことが書かれていた。
[やさいのチカラが キミのミカタだ!]
「……………………う、……っ」
カップに雫が一滴落ちる。潤む視界をまばたきで取り払おうとすると、またぽつり、ぽつり。カップに、弁当箱に、まだ箸をつけていない卵焼きに、若菜の混ぜご飯に、雫が落ちていく。
視界はずっと潤んだまま。ずっとずっと、この先もずっと。
味方? そんなものはいない。
誰も助けてくれはしない。
深衣はもう、このまま苦しんで死ぬほかない。
「ううううっ、ぐすっ、すんっ、うっ、ううううあああああ」
涙が、流れて。
ふわりと、目元に布をあてがわれた。
「…………?」
「いや、その……キミ、大丈夫?」
甘い匂いと、ほのかに線香の香りがするハンカチ。
ぼんやり見つめる深衣に、頭の上から声を掛けられる。
いつのまにか四番目の個室の扉は開かれていて。
そこには絹のような白髪の少女がいた。
蘆屋小路。
春に転校してきて以来学校中から人気を集める、二年生の先輩だった。




