第15話 不気味の谷の住人
「そこ、気に入った?」
出口への道を塞ぐ形で待っていたのは、深衣が二人の友人と共にいじめを行っていた相手。
大宅カルテだった。
「カルテちゃ……」
「一学期はずいぶんお世話になったわ。その四番目のトイレに」
深衣がさっきまで嘔吐していたのは奇しくも、かつての被害者だったカルテが同じ様に使うことを余儀なくされた場所。特別棟四階の女子トイレ、その四番目の個室だった。
「アンタに譲ってあげるわよ。アタシにはもう用済みみたいだから」
「……カルテ、ちゃん」
「……なに」
ぼそりと呼び掛ける深衣。
いじめが始まってから、たった四日。
しかしこの四日で、深衣の頬は痩せ始めていた。
いじめを受けるたび周囲の感情の奔流までも受け止めることになる彼女。
その感情に共感して自らを憎むことになる彼女。
しかし『いい子の呪い』により反撃も自罰も許されない彼女にとって……たった四日の地獄で十分、心身を崩壊させるに足りていた。
それでも。
「学校のトイレは、みんなのものなのです……。譲ったりできない、ですよ」
「……は?」
終われない。
「でも、不快に思ったなら、ごめんなさいです。今度から、別の場所を、使うのです」
「アンタ、なに言ってんの? そういうことじゃないでしょ」
深衣は。
【いい子にならなくてはならない】
「なんか言うこととかないの? アタシに。 あいつらにも。 あるでしょ言いたいこと、言うべきこと!」
「……一学期のあいだ、カルテちゃんにひどいいじめをしたこと、心から申し訳なく思うのです。許してもらえないとは思うけれど、償っていこうと、思います」
「ッ……そうじゃない。意味わかんない。なんで急にそんな態度になるわけ? アンタ夏休みに何やらかしたの?」
「それは……きっと信じてもらえなくて、嘘をつかれたって嫌な気持ちにしてしまうので、言えないのです」
「チッ。……アンタが今してること、償いって? アタシの代わりにいじめられてあげてるって言ってんの? やめさせないのも、やり返さないのも、アタシの代わりだから? 代わりだからっての!? 守ってやってるって!?」
ふざけんな。
激高するカルテの声はほとんど叫び声になっていた。
ここが朝の特別棟でなければ誰かに聞かれていたかもしれない。
しかしこの時間ここに人が寄り付かないことは二人とも知っていた。
だから彼女は本心から叫んでいた。押し殺し続けてきた感情を。
怒りを。
燃え盛る腹の底の憤怒を。
どす黒く濁って全てを塗りつぶしてしまう感情を。
共感の呪いがその煮え立つ怒りを深衣の心に転写するが、いい子の呪いはそんな瞋恚を人に向けることを許さない。荒ぶる悪感情は頭痛に変えられ、軋む脳はただ誠実な対応を彼女に強制する。
【本心を答えなくてはならない】
「守ってあげてるという気持ちが、ないとは、いえないです」
「……ッ!」
「でも、それが全部だと思われると、困ります」
「ハァ?」
「カルテちゃん。あたしは、あなたを守ることにもなるなら、良いことだと思って、いじめを受けているのです」
【人を怒らせてはいけない】
【人を侮辱してはいけない】
【いい子にならなくてはならない】
迂闊な言葉選びにずきずきと頭が痛む。
肩を震わせるカルテからの怒りの感情も相まって、それは経験したことのないような苛烈なものとなる。
暴れる鉄槌に脳をミンチにされるような痛み。
それでも。
「いい子として、本心を言います」
いい子の深衣は、光を目指す。
「あたしは、あたしがいじめられているとクラスのみんなが幸せになるから、この方が良いと思っているのです」
「…………は?」
遠くからチャイムの音が響いてくる。一限目が始まってしまった。
遅刻をするのはよくないことだと頭痛に刺されるが、カルテとの大切な対話をいい加減に終わらせることもまた、よくないことだろう。
深衣はかまわずに続ける。
「わかるのです。あたしが惨めな目に遭っているとき、滑稽な反応をしたとき、辛くて悲しいとき。そんなとき、みんなは心が安らかなのです」
見てみぬフリのクラスメイトたち。
──冷杯がいじめられてるうちは、目立たなければ大丈夫だ。
──少しはしゃいだ程度なら、深衣の方が面白いから目を付けられない。
──冷杯があれだけいじめられてるんだ、こっちには飛んでこないだろう。
カルテへのいじめを快く思っていなかったクラスメイトたち。
──自分がいじめてたんだから仕方ないよね。
──まさかあの女王様がいじめられるなんて。でもいい気味。
──今日はどんないじめになるのかな。授業よりよっぽど面白い。
リコとエミ。
──明日はどんなことして遊ぶのがいいかな。もっと面白いリアクションを引き出せるイヤなことってなんだろう?
──やっといつもの日々に戻れた。なんでミーコがあんなこと言い出したか知らないけど、自業自得で助かるわ。
──あいつがいじめられてて、よかった。
「…………なに、いってんの、あんた」
「みんなを見てたら、そんな声が聞こえてくるのです。だから、あたしがいじめられることで、みんなを幸せにできるのなら……『いい子』になれるのなら、あたしは、それで、幸せなのです」
「……………………」
紛れもない本心だった。
『いい子の深衣』にとって、誰かを幸せにできることは究極の善。
そのためなら、自らの快不快も幸不幸もどうでもいいことだった。
死にたいと思う気持ちさえ、浮かんでは消える泡にすぎない。
自己犠牲を厭わない行き過ぎた利他主義、滅私奉公の成れの果て、聖人君子の終極形。
それが、人生破壊光線女によって焼き付けられた光。
深衣が目指している光だった。
ふと顔を上げて、深衣はカルテを見た。
蒼白になったカルテは手で口元を抑え、悲痛な面持ちで瞳を揺らしている。
「は? はあ? 気持ち悪い。 気持ち悪い気持ちわるいきもちわるいきもちわるい!」
深衣は共感した。自分が気持ち悪くて仕方なくなった。
どんな異形の怪物もここまでおぞましくはない。人間に似せて作られた人形やロボットが時折陥る『不気味の谷』、自分はそこから這い出てきた谷の住人なのではないかと思えてくるほどだ。
そしていい子として、そんな気持ちをカルテに抱かせてしまったことに心を痛めた。
「気分を害してしまってごめんなさいなのです。カルテちゃんは、あたしにどうしてほしいですか?」
「は……? ……なに? なに言ってるの……?」
「カルテちゃんを不快な気持ちにさせてしまって申し訳ないのです。だから、どうしたら良い気持ちになれるのか、幸せになれるのか、教えてほしいのです」
カルテちゃんが幸せになれるのなら、あたしはなんでもやりますです。
呪われた少女の顔面は下手に精巧な粘土細工のような笑顔を象り、綺麗にできているのに、どこにも人間味がなくて。
カルテは、恐怖とも怒りともつかない激情に狂った。
「あ、アンタ……誰? アタシの知ってるあの女は、冷杯深衣はそんな顔しない。謝らない、気遣わない、優しくしない、性格最悪のクソ女……!そんな気持ち悪い笑顔、しない、しないでよ! やめてよ!」
「カルテちゃん?」
「やめて、やめてやめてやめてやめて! 寄らないで気持ち悪い!」
「ご、ごめんなさいなのです」
「謝らないで! 喋らないで! 消えて、もう消えてよ!!」
「死んで!! その顔、二度と見たくない!!」
絶叫し、カルテはトイレから逃げ出した。
深衣は涙を流していたが、先ほどまで嘔吐していたからなのか、罵詈雑言に傷ついたからなのか、判じることができない。
ただ。こう思っていた。
困りました……。死ぬのだけは、お父さんとお母さんを悲しませてしまうからできないのです……。
痛む頭を捻って悩む深衣。その視界に、洗面台の下に置かれたバケツが目に入る。
「その顔、二度と見たくない!!!」
一限目が始まって十分ほどのこと。教師が英文を黒板に書き連ねている最中の教室に、彼女はトイレのバケツを被った状態で現れた。
事の異常さを見て取らざるを得なかった英語教師は彼女を保健室へ連れて行き。
深衣はそのまま、学校を早退することとなった。




