制限時間の契約
人生が詰むというのは、このことだろうか。
終わった。何もかも―。
狼男に首元を噛まれたダンは、ついに終わりを感じた。頭の中で、両親に遺言を残そうとする。
お母さん、お父さん。俺、先に天国で待っとくよ―。
死を覚悟した、その時だった。
「……なん…ぁ?」
狼男の目が、上を向いた。そのまま、命が途切れたように噛んでいたはずの歯がダンの体内から抜ける。
「うっ…うぇ?」
痛みを殺すため、ずっと目を閉じながら唇を噛んでいたダンも、異様な様子で目を開けた。
「…え、は?」
ダンは思わず、腑抜けた声が出た。
何せ、目の前にいた狼男の後ろに、麻袋の男三人が立っていたのだから。
「よし、狼神様を連れて行け」
「はい」
麻袋のリーダーらしき男は二人に命令を下すと、狼男は二人に任せて、ダンに鼻先寸前まで男は近寄った。
男の鼻息が、ダンの顔にかかる。
「…あ、あんたら。何が目的―」
首元に何かを刺され、ダンは喋る口を止めた。
注射器―。
「こうなったら、狼神様とダン・マーティンはまた別の神に捧げるものとしよう。我らが聖地へと戻るぞ」
「はい」
男二人は無機質な声でリーダーの男に返事をすると、巨大な狼男を丸太を担ぐように持った。
「目が覚めれば、汝は神の捧げ物として役割を果たす…喜ばしく思え」
「く…そ…」
再び、目の前が真っ暗になる。意識が、遠のく。
―何度も同じことしないでくれない?いちいち面倒臭いんだよ。
―今回の売り上げ、お前低すぎだろ。大丈夫かぁ?
―今月の生活費、どうしましょう?
―やりやがったな!クソ記者!
ダンが目を覚ましたのは、大きな揺れを感じた時だった。
ハッと目を覚まし、今まで聞こえてきた自らの過去の声は、夢だということを悟る。
辺りは真っ暗でほとんど何も見えず、時折桃色の壁のようなものがチラリと見えるくらいだ。
生臭い匂いと、磯臭い匂いのダブルコンボがダンの鼻を刺激する。
「…やぁっと目が覚めたか」
ふいに聞こえた、覚えのある声にダンは振り向くと、狼男が床に胡座をかいて座っていた。
「―っ!」
一瞬、ダンは狼男のことを警戒する。しかし、当の本人はどこ吹く風とダンのことは気にしていない様子だ。そんな姿を見て警戒を解きつつ、慎重に言葉を選んで、ダンは狼男に尋ねた。
「ここは…」
「“ハムトール”とかいう奴の腹の中だ」
「腹の中?」
そうだ、と短く返事を返すと、狼男は大きなため息をついた。
「ハムトールってのはあの乳飲み子の会とかいう奴らが神に仕立て上げた、ただの大きな豚のことだ。今俺らは、そいつの腹の中にいる」
「…え?」
嘘か本当かわからない話に、ダンはいやいやいやと手を振る。
「そんなわけ…」
「あるんだよなぁ…!」
鋭い狼男の眼光が、ダンを睨む。
「…すまない」
「…まあ、このままいけば…二人とも消化されるだろうな」
一度萎縮したダンだが、その言葉を聞いて再び狼男を見た。
「はぁっ!?」
「仕方ねぇよ。俺らは運が悪かった」
そんな理由で死んでたまるか―。
ダンには、まだやらなければいけないことが山ほどあるのだ。
有名になって…ファストフードだけ食べて…高層ビルに住んで…高いシューズを買って―。
それらをやり遂げることができないまま、何処の馬の骨かも分からない連中に殺されるというのは、あまりにも理不尽だ。
沸々と、怒りで体に熱が帯びる。
「……ただ、このままの話…だけどな」
ダンの様子を見た狼男は、にやりと口角を吊り上げて笑うと近寄ってきて、こんなことを言った。
「お前の体を、三分間貸せ」
「―は?それってどういう」
ゲェェェェェッ!!
鼓膜を破壊するようなゲップ音と同時、足場が小刻みに揺れた。
「早く貸せ!死にたいのかぁ?」
「………」
正直、ダンは不安だった。体感数分前まで、命を奪おうとしていた化け物に体を貸すなど、どうなるか分からない。
だが―ここで死ぬよりかはマシだ。
なにより―。
「俺は…あの血飲みの会どもが気に食わない…!だから手を貸す。分かったな?」
「っよし!決まりだ」
狼男が見せた邪悪な笑みに少し不安感を抱きながらも、ダンはOKを出した。
「―しかし…良かったのですか?狼神様を供物などにしてしまって」
薄暗い森林の中、麻袋の男達は供物をハムトールに捧げていた。大地から生えた木々をベットに、風船のように膨れた腹を掻きながら巨大な豚が横たわっている。
「いいんだよ。それより、ブタガミ様の様子はどうだ?」
リーダーの男とその側近は、ハムトールから少し離れた監視塔で供物が運ばれる様子を眺めていた。
「特に変わったところはありません!」
スコープを覗きながら、側近の男は答えた。
「よし分かった。では…ここらで私たちは引き上げることとしよう」
「は!はいっ!」
側近が頷くのを見ると、リーダーの男は監視塔の梯子から降りようとした。
「ブモォォォォ!」
その声に、リーダーの男は動きを止めた。
ハムトールが、爆発音に似た強烈な鳴き声を上げたからだ。
「一体何が…!」
途中まで降りていた梯子を再び登り、側近からスコープを強引に奪うと、遠くから見えるハムトールの苦しむ姿をスコープで覗いた。ハムトールの腹は何故か先程より二倍ほど大きくなっており、それがかなり痛いのかハムトールは聞いたことのないボリュームの声で鳴き、森林を走り回っている。
時には生えている木々に腹を擦り続け、時には地面をモグラのように深くまで掘って頭を埋めた。
だが、それらは全くと言っていいほど効果を示さない。
やがて、ハムトールの腹はもう破裂寸前にまで膨れあがった。
「ま、マズイ…!」
何を悟ったのか、リーダーの男は監視塔の床に体をビタッと平伏した。
「え、どうしたので―」
直後、側近の体が豪速球で飛んできた何かに衝突し、爆ぜた。肉塊になった側近が、血を撒き散らしながら壁に貼り付く。
「――!!」
先程まで会話していた手下の死に、リーダーの男は絶句する。
生暖かい湯気を立ち上らせながら、肉塊となった側近の真横には、その肉塊の三倍ほどある別の肉塊が転がっていた。
そう、あの時ハムトールは体内から爆ぜたのだ。理由は分からないが、自分だけは助かったという安堵が、徐々に湧いてくる。
「た、助か―」
男がため息を吐き、助かったと呟こうとした瞬間、大きな揺れが男を襲った。大きさからして六弱か
、それ以上―。
監視塔を支えるために幾千にも積まれた石の土台が、激しい揺れに耐えきれず、グラグラと揺れる。
「たっ!助け―」
次の瞬間、監視塔はジェンガのように崩れ落ちた。
青白く光る月の光が、体中血に染まった狼男の体を照らしていた。
約束の時間、あと二分。
「ッケヒッケヒヒヒ…!」
頬が裂けるほど口を開けて笑い、ダンの姿を借りた狼男は殺戮を始めようとしていた。
気持ちいい。あまりにも気持ちいい。
全身を駆け巡る殺戮の快楽に溺れ、狼男は恍惚とした笑みで血濡れた手を舐めた。
(おい!あと二分だからな!)
脳内から聞こえてくるのは、体を貸した張本人、ダン・マーティンだ。
「分かってる分かってるぅ……」
口ではそう言っているが、狼男は全く話を聞いていなかった。
人間は、人間は何処だ。
返り血を浴びた真っ赤な目で、文字通り血眼になって人間を探す。
歩くと、飛び散ったハムトールの内臓や腸を足蹴にしてしまう。
あぁ、なんで気持ちいいんだ。これが―。
「生きてる実感って…やつかぁ…!」
ケヒッ、と下卑た声で笑うと、地面を全力で踏んで駆け出した。
「―やっ!やめてくれぇっ!」
まずは一人目、男は地面を這いつくばっていた。
見ると、下半身部分が消失してしまっている。先のハムトールの爆発で起きた肉片の乱発が原因だろう。
「ま、どうでもいいかぁ…」
狼男は両腕で男の頭と肩を掴むと、男の首を貪った。
「っぎっぁぁっぁ!!」
首を噛まれた男は、悲壮感たっぷりな声で泣き叫ぶと、最後は血涙を流して死んだ。
(ぅ…うぉ…お゛えっ!)
一部始終を見ていたダンは、思わず吐き気を催した。約束の時間はきっちり三分。もう体を返す頃合いだ。
(三分…経ったぞ?さっさと体を返してくれ)
「ケヒッ…ケヒヒッケヒ…!」
だが、様子がおかしい。
ダンの声がまるで、狼男に届いていない。
この時、ただ狼男は、目の前に広がる殺戮の現場を見て、興奮していた。一人、こうして人を殺していくことに背徳感を感じていた。血染められた手を、爪を見て、狼男はある決断をする。
「決めたぁ…血飲みの会の奴らは全員この場で殺す…逃げようとしても無駄だぁ…」
(はぁっ!?お前約束と違うじゃないか!!)
ダンの訴えも虚しく、狼男は獲物を探しに再び駆け出した。
「―お、お助けをっ!狼神様ぁっ!」
二人目は、大木を背に隠れていた。声からして、女性だろうか。
「うまそうだなぁ…」
狼男は女性の頭を掴むと、あり得ない力で女性の頭を何度も回し、首を捻り切った。切断部分から溢れ出る血を、まるで天然水のように浴びながら飲む。
「っぷはぁ…!」
それから狼男は、計三十人を殺害した。時には舌を噛みちぎり、時には頭を丸呑みし、時には心臓を抉り出して食べた。
最後の一人を殺した時にはもう、約束の時間から十分経過していた。
(おい…おい…マジかよぉ…!)
体の自由も効かないダンは、その殺戮ショーを眺める一人の観客としかなることができない。自分の体が、三十人と一匹の命を奪い、残酷に食したということを信じたくない。
だが、これで血飲みの会への復讐は果たせた。
(も、もう十分だろ…早く体返せよ…!)
「っはぁ…!ふはぁ…!」
狼男もそろそろ限界のようで、息切れが激しい。吐き出る息は白く、生暖かい。
「ックク…クク…最ッ高だぁ…!」
天を見上げ、そう言うと、狼男は大の字で地面に倒れた。