狼神様
コンコンと、何者かによって扉がノックされた。
「入れ」
麻袋を被った目の前の男は命令口調でそう指示すると、この後部屋にいた他の麻袋の男達にも壁の端に寄るよう、再び指示をした。
キィィっという、扉特有の軋む音がコンクリートの部屋に響いた。
「っ―!?」
入ってきたモノを見て、ダンは息を呑んだ。ふさふさの毛並みに、長い鼻。頭のてっぺんに生えた二つの耳と見るもの全てを恐れさせるような生え揃えられた牙。そして、異様に長くスタイリッシュな二本足。四足歩行ではないが、明らかに“それ”は狼だった。約三メートルはあるであろう巨体で、肩を揺らしながら歩く。その姿に、ダンは一つの名前を思い浮かべた。
「狼男…」
まさか、とは思う。だが、イヌ科の中でここまで大きく、二足歩行で歩ける狼はいない。
狼男の周りには、包囲するように四人の麻袋の男が同行しており、皆鉄の鎖を握っている。その鎖に注目し、元を辿っていけば、狼男の首に繋がる。狼男は着けられた首輪を鬱陶しそうに見ると、人間のようにため息を吐いた。
「今から汝には…狼神様の血を摂取し、適性があるかを試させてもらう」
「―は?」
直後、今まで黙って壁の端に立っていた二人の麻袋の男が、ダンに近づいてきた。
「な、なんだよ!何するんだよこのカカシ野郎!」
「………」
男達はダンの暴言など意に返さず、片方の男がポケットから何かを出した。それは、注射器だ。
「汝…形容し難い痛みに苦しむとは思うが…これが定めだ」
「なんだよ…それ!?」
もう片方の男は暴れようとするダンの右腕を強く押さえつけると、注射器を持っていた方の男がその注射器の先端の針を、ダンの右腕の血管に突き刺した。
「―っ!!」
瞬間、ダンの体中が灼熱の中にあるかのように熱くなった。
「っがぁぁぁぁ…!」
思いっきり声を出して叫びたいのに、絞り出るようなうめき声しか出ない。頭痛は頭をかち割られるような痛みで、吐き気の波は何度も押し寄せ、視界は再び歪み、耳鳴りも酷い。体の筋肉が溶けるような熱を帯びているはずなのに、発汗の様子はない。
「…なんと!…素晴らしい…!」
世界が水面のように歪んで見える中、目の前に立っていた三人の麻袋の男達はダンの苦しむ姿を見て、感動していた。
狂っている。人が苦しんでいるというのに、男達はそれを見て泣いている。
「こんな…ところで……!」
死んでたまるか―。
だが、ダンの願いとは反対に、ダンの意識が遠のいていく。
―俺は…まだ…。
やり残したことが沢山あるというのに、もう叶えることすらできない。
刻々と死に近づいていっている恐怖心と、何もできない悔しさで、ダンは瞼を閉じて、涙を流した。
次の瞬間だった。
「ヴァァァォォ!!」
鼓膜を破るかのような、凶暴的な狼の雄叫びが部屋を包んだ。
もう、死ぬことは確定しているが、気になってダンは瞼を再び開けてみる。
「―え」
瞼を開けると、広がっていたのはまるで違う部屋だった。コンクリートの壁は真っ赤に塗られ、生臭い匂いが再び鼻を刺激する。
「…あれっ」
いつの間にか、ダンの体は元の通りに戻っていた。耳鳴りも嘘のように消え、視界はくっきりと世界が見え、鼻も匂いをしっかり感知できている。
だからこそ、ダンは驚愕した。顎を外すとは、このことを言うのだろう。
「はっ…は?」
椅子に固定されたダンの、目の前に立っていたのは、男の首や腕を噛みちぎって食べる狼男だった。
股間辺りのズボンが、じゅわっという音を立てて内側から濡れた。そこから、無色の液体が椅子に流れ、落ちる。
「きたねぇな…」
目の前にいる狼男はそう呟くと、引きちぎった男の頭部を口に放り込んだ。もにゅもにゅと音を鳴らして味わいながら、口周りに付着した血を親指で拭う。
「で、どうしたい?」
狼男は人間のような、嗜虐的な笑みを浮かべるとダンの顎を両手で挟んだ。血に染まった紅の長く、鋭い爪の先端がダンの肉を食む。
くそ、なんでこんなことになった―。
ダンは平然を装おうとするが、触れる狼男の手が少しの震えを見逃さない。
「た、助けてくれ…!」
いつの間にか、口が勝手に命乞いをしていた。
「ックク…情けねぇなぁ…」
口角を釣り上げる狼男は、長い爪先でダンの股間部分を指差した。
「顔は平然を保ってる感じ出してるけどなぁ…体は正直なんだよなぁ…!ッケヒヒ!」
うっ、とダンはうめく。こんな醜態を見られるとは。
「おもしれぇっ!よし!思いついたぞ?」
ブチッと、ロープが切れる音がした。同時に、ダンの手足が自由になる。
「今から三十分やる!お前は必死に逃げろ!鬼ごっこだ!」
そう言ってはしゃぐ狼男に張り付く笑みは、無邪気な子供そのものだ。ダンは恐怖に煽られ、椅子からすぐさま立ち上がると、突撃するように扉をぶち破った。
「―っはぁ!はぁ!」
恐怖と焦りによる冷や汗が、革ジャンの下に着ているTシャツに滲む。
目の前は異様に長い雑草が行手を阻むように邪魔をし、掻き分けて通るとたまに草の先が頬を掠める。
そんな中、ダンは汗や涙、鼻水で顔をぐしょぐしょにしながら、狼男から逃げていた。
「クソ…!クソ…!」
なんでこんなことに―。
行く先に永遠と続く雑草と暗闇に恐怖を助長され、一歩一歩踏み出す速度がさらに速くなる。
“死にたくない”、獲物を弄ぶように背後から少しずつ迫りくるその狼男に、ダンは怯えていた。
長時間、それもかなりの速度で走り過ぎたせいで、息も絶え絶え、脇は汗でびしょびしょ、体は草に切られて傷だらけと、中々ひどい有様だ。
混乱する頭の中で、一度、何故こうなったのかを整理してみるが答えは出てこない。
「あぁっ!んだよもう!!」
どこか身を隠せる場所はないかと辺りを見渡すが、丈が長い雑草のせいで全く周りが見れない。
どうやら、今日という今日は特に運がついていないらしい。
「ッダハハハァ…!」
「だぁぁっクソォ!」
背後から聞こえた邪悪な狼男の乾いた笑い声が、ダンに更なる恐怖を与える。
「俺が…俺が何したっつうんだよぉ!」
恐怖と同時に不甲斐なさを感じたダンは、両目を手で押さえ、そう嘆いた。
だがそれが不幸を招くこととなった。
ドンッ、という鈍い音と共に、ダンの体が目の前に立っていた大木と衝突した。
一瞬の間、男の思考が真っ白になる。
「あれっ…」
走り続けたせいで酸素が不足していたこともあったのだろう、倒れてしまいそうな上半身をなんとか立て直そうとしたが、足が絡んでついにダンは地面にへたれこんでしまった。
「あぁ…くそ…」
そこからはもう、察しの通りだ。
確かに背後から追いかけてきていた狼男が、地面に仰向けになって倒れたダンの上半身に馬乗りになった。暗闇な上、大木との衝突の衝撃であまり目は効かなかったが、馬乗りになった狼男は切長く黄金に輝く眼をより細め、人間の数倍伸びた鼻でダンの匂いを嗅ぎ、口から大量に垂れる汚い涎を拭わず、ダンのどこの部分から食べようかと考えている。
「お、俺は上手くないぞぉ?た、タバコしか吸ってこなかったからなぁ…それに…お前のせいで今にもケツからアレが出そうだ…!」
今にも食べられそうな男は焦りのあまり、ぺらぺらと謎に流暢な無駄口を叩く。
「だから…だからお願いしますぅぅぅ…!」
ダンは情けない声を上げて、目の前の“狼男”に許しを乞うた。
「…無理だなっ!」
狼男は嘲り笑うかのような目でダンを一瞥すると、鋭く研がれた爪を天目掛けて振り上げた。
「っ畜生…!」
死ぬなら目を瞑ろう。目をひん剥いたままよりは、ほんの少しまともな死体になる。
ここまで来ると、ダンは自分の死を客観視していた。体を力ませ、瞼を震わせながら目を閉じる。
数秒後、きっと爪は自分の体を斜めに切り裂き、血飛沫を上げながら体は二つに分かれて地面に転がる。
数秒が経った。未だ、爪は振り下ろされない。
次の数秒後だ。きっと相手は焦らしているのだろう。だが、もう死ぬ覚悟はできている。
「―っえ?」
その数秒後も、ダンの体は切り裂かれることはなかった。恐る恐る目を開け、馬乗りになっているはずの狼男を見やる。
「……ッケヒヒッ!やっぱやめだ!」
爪を振り上げていた狼男は愉快に笑うと、張り上げていた腕を下ろした。
「じゃ…じゃあ助けて―」
「ちげぇよ!テメェはこれから、生きたまま食われんだぁっ!ックフッヒッヒッヒッ!」
最悪だ。ダンは、初めてこの時、この狼男に殺意が湧いた。気付かれないよう、右手で土を握りしめ、左手はそこら辺にあった掌サイズの石を強く握る。
狼男の口がこれでもかというほど開かれ、鋭く尖る牙の数々がダンを威嚇する。
「じゃ―いっただっきまーす!」
狼男が、ダンの首元に噛みつこうとした。
ここだ。
「っらぁぁぁ!!」
ダンは左手に掴んでいた石を狼男の口に勢いよく入れ込んだ。思わぬ反抗に、狼男はたじろぐ。
「やってやるよ…!」
一瞬の隙も見逃さず、たじろいだところにダンは右手でかき集めた土を、狼男の目をビンタするような形で直接入れた。
「ッガッアァァァ!!」
狼男の激しい鳴き声が、ダンの耳にこだまする。 瞬間、ダンは再び恐怖に陥った。
怖い。その感情だけがダンの脳内を支配する。
「余計なこと…しやがってッ!」
狼男は片目を充血させながら、再び口を開き、そして―
「っは?」
ついにダンの、首元を噛んだ。