ワンダーエリア
雲一つない快晴の朝、ダンは洗面所の鏡で自分を見つめていた。昨夜は泣きすぎたせいで、目はパンパンに膨れ上がり、鼻水が固まって鼻はカピカピに乾燥してしまっている。
「……よし!」
そんな自分に喝を入れるように、ダンは自らの両頬を両手でぶつと、蛇口から流れる生ぬるいお湯で顔を洗い流した。
今日は念願のダスティンタウンへと行く日だ。もし仕事がうまくいけば、余生を十分に楽しめるほどの大金が手に入る。それ故に、ダンは緊張していた。
失敗など許されない、そう自分に言い聞かせる。
「ふー……」
ゆっくりと息を吸い、吐くと、ダンは顔をタオルで拭いた。そして玄関へと向かい、早朝から準備していたスーツケースを片手に、扉の取っ手に手をかける。
―ヘレンのことはもう忘れよう。
今度こそ、訣別する思いでダンはそう思うと、扉の取っ手に力を込めた。
「―お、随分と早いじゃないか」
マンションの階段を下り、外に出るとそこには一台の高級車と上司の姿があった。
「早い方がいいでしょ」
「まあそうなんだが…」
上司の男は口角を上げると、後ろの高級車に目配せした。
「この車は会社が用意したものだ。これに乗って、ダスティンへと向かってくれ」
「はいはい。感謝しないとですね」
少し捻くれた言葉でそう答えると、上司の男が顔を顰めた。
「言っておくが…もし車に少しでも傷がついたなら、お前が責任を取ることになっているんだ。少しぐらい責任感を持て」
「分かりましたよ。でも…タクシーで送迎の方が良かったなぁー」
まだ言うか、と上司の男は苛立ちの声で言った。
「愚痴は社長に言え。本当に……」
そうは言っているが、上司の顔には微笑が浮かんでいる。きっと、ダンの言っていたことが上司の心の中のどこかにもあるのだろう。
「さ、そろそろ予定の時刻だ。とっとと乗ってダスティンに向かえ」
「はいはい」
ダンは上司の横を通り過ぎると、高級車に近づいた。車体は真っ黒に塗装されており、日光のせいもあって触ると火傷してしまう程の熱を帯びている。
ダンは車体の後ろに回ると、トランクを開けて持っていたスーツケースを放り込んだ。
そして次は運転席の扉を開けて、車の中に乗り込み、挿入口に鍵を差し込む。
コンコンコン、と窓がノックされた。勿論、ノックしたのは上司の男だ。
「聞き忘れていたんだが、ちゃんとソフトの情報は前日に確認したよな?」
「……はい」
実際は、ヘレンのことを考えすぎたせいで全く確認していなかったが、ややこしいことを避けたかったダンは首を縦に振って答えた。
「分かった。じゃあ気をつけろよ」
それだけ言い残すと、上司は車から少し離れたところに移動した。
なんだかんだで良い人だな。と思いながら、ダンはハンドルを握り、アクセルを踏んだ。
直後に、とてつもない速度で車が走る。ダンはその勢いの凄さに圧倒されながらも、なんとか車の操縦を行った。
やっとのことで高速道路に乗ったダンは、小さく息を吐いた。外から入ってくる風が、ダンの日光で熱せられた体をひんやりと冷やしてくれる。
これから先、ワンダーエリアではどんなことが起きるのだろうかと、胸をワクワクさせる。こうも胸を躍らせるのは、幼少期以来だろうか。
怪奇現象が起きると噂の街、その街ではどんな人が住み、どんな現象が起きるというのだろうか。
「…こりゃ、良い記事が作れそうだ…!」
頬を緩めてそう呟くと、ダンはスピード違反ギリギリの速度で車を走らせた。
山奥にある街、ワンダーエリアは車で32時間も経ててやっと着いた。一度、車中泊をして休憩したとはいえ、なかなか体力が削られる。
車の中から見える“ワンダーエリア、この先100メートル”と書かれた看板と、数々の木々が遮りながらも、向こう先に微かに見える静かそうな街を眺めて、ダンは一息つく。
「やっとだぁ…」
車のハンドルに身を預けるように、ダンは前のめりに倒れた。
高速道路と険しい山道を何時間も走り続け、やっと着いたこの街には、一体どんな事が起きるのかと、ダンは胸を躍らせる。訳ではなく、ただただ寝たいという欲望がダンの胸中にある。
今の時刻は午後の二時。とりあえずダンは車を山道の路肩に寄せると、扉から降りてトランクに回り込み、スーツケースを下ろした。
「とりあえず…宿を探さないとなぁ…」
車中泊の時以外全く寝ていないダンは、目の下にできたクマを擦ったり、乱れた髪を掻き回したりしながら、ダスティン目掛けて歩き始めた。
歩いている途中、目の前に立ちはだかった数々の大木や自分の背丈ほどまである雑草に目が入った。
「こりゃまた凄いなぁ…」
これほどまで長い雑草がこの世にはあるのかと、ダンは驚愕した。だがそれ以前に―
「がぁっ!邪魔くさい!」
歩いても歩いても前に現れる雑草と木々に憎悪のような感情を抱き、ダンは一つの大木に目をつけた。すると、ダンはその木に思いっきりローキックを仕掛けたのだ。膝を曲げた軸足と反対の足から放たれたその一撃はなかなか強烈なものだった。しかし、痛いのは当然ダンだけである。
「ッチ!」
冷や汗をだらだらと流しながら、ダンは痛いのを我慢してその場でぎこちなく動くと、舌打ちをして再び歩を進めた。
しばらく歩き続けた後、ついにダンは目当ての街へと着いた。例の街は、絵に描いたような田舎街で、昔のカリフォルニア州を彷彿とさせた。
その時だった。
「お待ちしておったぞ、ダン・マーティンさん」
どこからともなく、軟弱そうな老人の声が聞こえた。
キョロキョロ辺りを見渡すが、そこに老人の姿はない。
「ここです、ここですぞ?」
二度目の声の先は、ダンの真下からだった。
困惑しながらも、ダンは真下を見る。そこには、八十センチ程しかない禿頭の老人が立っていた。着ているローブはボロボロな上、右手には木で作られた杖が握られており、まるで昔話から出てきたような身なりだ。
「あんたが、ここの町長か?」
困惑していたことを勘付かれないために、ダンは平然を装おうとポケットから一本のタバコとライターを取り出すと、そのタバコに火をつけて一服をした。
「いかにも。儂はこのワンダーエリアの町長である、“ムーラン・デオリオス”ですじゃ。よろしゅう」
名前までなんだか西洋の昔話に出てきそうだ。
「こちらこそ、よろしく頼む」
差し出されたムーランの手を、ダンはそう言って軽く握った。ムーランは一瞬、驚いたような顔をすると、顔の皺をくしゃくしゃにして笑いダンの右手を引っ張って、ワンダーエリアの入り口へと入って行った。