憂鬱な一日
怒髪天を衝くということは、まさにこのことなのだろう。
「とっとと消え失せろこの害虫どもがぁっ!」
顔を鬼のように真っ赤にして怒り狂ったダンは、十分なほど暴れた末に、彼女であるヘレンとその浮気相手を力ずくで外に追い出した。
浮気相手とヘレンを同時に外に追い出す途中、「まだ私たちならヨリを戻せる」や、「誤解だって!」と言われたのを覚えている。
なんとかダンは二人を締め出し、二度と来れないよう厳重にドアチェーンも掛けると、扉を背もたれにして、身を任せた。
―彼女が、浮気をした。
その事実が、ダンは未だ実感できないでいた。
頭の中はまだ真っ白で、激しい運動をしたわけでもないのにも心臓の鼓動は早まるばかりだ。
「はあ…!はあ…!はあ…!はあ…!」
楽しかった二年間の思い出が一気にフラッシュバックする。
「っ…!クソビッチが…!」
頬を伝って流れる大粒の涙を手で拭いながら、ダンはそう吐くのが精一杯だった。
それから三日が経った後も、ダンは浮気を引き摺っていた。なんでも、彼女が自分を捨てたという事実がかなり堪えて、仕事中でも私生活でも全く頭が回らないでいたのだ。
「―おい!おい!聞こえてるか!?」
オフィスでパソコン作業をしていた時、目の前にいる会社の上司、“マイク”に声をかけられ、ダンはハッとした。
「すみません…」
「ったく…本当にあの仕事任せて大丈夫なのかよ…」
マイクはそう呟くと、履いているグレーのスラックスのポケットから、何かの情報が入ったチップを取り出した。
「仕事中悪いんだが、この先お前が行く街の情報が入ったソフトを渡しておく。まずこれがありゃあ、不自由なことは無いと思う」
「あぁ…どうも…」
目の前に差し出されたソフトとマイクの苛立ちの顔を呆然と見つめながら、そのソフトをダンは掬い上げるようにして両手で受け取る。
「頼むぞ…本当にったく…」
その場で舌打ちをすると、マイクは頭を掻きむしりながら歩き去ってしまった。
「……はぁぁ…」
上司が消えたのを確認すると、ダンはデスクトップの方を振り返って、ため息を吐いた。
自分の何が、彼女をあんな行動に走らせたのかを考える。
構ってあげられなかったから?逆に構いすぎてウザかったからか?単に愛想を尽かしただけか?
色々考えるが、これだという答えは出てこない。
―もう考えることはやめよう。
そう思っても、やはり気になって仕方がない。
結局、その日も仕事に手がつけられずに家に帰宅した。
自宅の扉のキーウェイに鍵の先端を挿入して鍵を開け、鍵を抜くと取っ手を引っ張り、扉を開ける。
自宅の中は、明かりがつけっぱなしだった。最近ボーッとしすぎて、明かりを消すのも忘れてしまったようだ。
リビングまで歩くと、緩く縛ったネクタイを片手で解きながら、ダンは片手に持っているバッグをソファの上に投げ捨てた。
いそいそとキッチンに向かい、冷蔵庫の扉を開けて缶ビールを一本取り出し、ソファにどかっと座る。
テレビを見る気分でもなかったため、ダンはヘレンとの交際記念で何故か買った古臭いラジオを机に置くと、電源ボタンを押して軽く目を瞑った。
「―では、“ヘドロニック”で“愛を嘆く”。どうぞ!」
ラジオ内では、次の曲が始まろうとしていた。それも、失恋系の曲だ。
ラジオから、哀愁漂うメロディと共に切ない歌詞が流れてくる。ダンは目を瞑ったまま、その歌詞を今の自分と重ね合わせた。途端に、ダンの目頭から熱くなった。
「あぁ…俺のヘレン。どうして俺を捨てたんだよぉ…!」
ダンは込み上げてきた悲しさを抑えきれず、思わず机に置いたラジオを両手で強く抱えた。ポタポタと、生温かい雫がラジオに数滴落ちる。
「ふぐっ…うぅっ…うう…」
三十代の男がうずくまって泣く姿ほど惨めなものはないが、幸い自宅で誰にも見られていなかったので、ダンは疲れるまで泣いた。
午後六時、既に社員達が去ったオフィス内を、ヒューマンコミュニティリポーターの社長、【ラミリア・ヨルダン】は火のついた葉巻を吸いながら歩いていた。
人が去ったオフィスは静まり返っている上、ひんやりとしているため、幽霊でも出そうな雰囲気がある。
ラミリアはそんなことお構いなしに、ズンズンと歩き進めると、とある一つのデスクで足を止めた。
「―あ、居ましたか」
ふいにかけられた声に、ラミリアはゆっくりと振り返る。
「おぉ、マイク君じゃないか。こんな時間にどうした?」
「それは社長も同じじゃないでしょうか?」
オールバックの髪型をブラシで整えながら、マイクはラミリアに問う。
「このデスクはダン・マーティンの物ですね」
「あぁ、そうだとも」
「…何故、あの仕事を任せたんですか?」
はて、と首を傾げながらラミリアはとぼけたフリをしてみせる。
「誤魔化しても無理ですよ。話、聞いてましたから」
「聞き耳とは、なかなか良い趣味をしてるじゃないか?」
にやっと笑うマイクに対し、ラミリアははっはっはっ、と笑う。
「まあ、君には言ってもいいかな。随分ダン君のことを嫌っているようだし、理由が聞きたいのも当然か」
「そんなこと―」
言い返すことができなく、言葉が詰まる。マイクは「そうです」と正直に答えると、再びあの問いを尋ねた。
「何故、あの仕事を任せたんですか?」
「……何故だろうね。でも、彼は確かに優秀だった」
ラミリアは今まで吸っていた葉巻を机の灰皿にぐりぐり押しつけて火を消すと、話を始めた。
「マイク君、君はこの話を聞いたことはあるかな?」
蒸し蒸しとする暑さの日だった。日照りが続き、燦々と降り注ぐ日光が煩わしい夏。ダンは首筋から流れ落ちる汗水を気にせず、とある豪邸の玄関前に立っていた。汗で濡れた指先で、ダンはインターフォンを鳴らす。
「すみません。ヒューマンコミュニティリポーターのダン・マーティンという者です。よければ中に入ってもよろしいでしょうか」
返事はない。
ダンは五歩ほど後ろへ下がると、再び、その他の家とは比較物にならない大きさの豪邸の姿を眺めた。
―先週からこの豪邸では、とある噂が立っていた。それは、連続殺人鬼が住んでいるという噂だ。
ネットサーフィンでやっと手に入れた多数の目撃情報をもとに、ダンはせっかくの休日も無駄にしてここへ来たのだった。
「あのー!」
思い切って、ダンは大声で呼びかける。
しかし、扉が開くことはない。
やはりネットが作り出したデマ情報かと、ダンは肩を落とした。ここに長居しては、当の豪邸の主人が困ってしまう。
仕方ない、こういう時もある―。
片腕で、額にかいた汗を拭いながら、その場を立ち去ろうとした時だった。
バンッ、と物音がして、ダンは扉の方を振り返った。
「たッ!助けてッッ!」
ダンを見るなり、猛ダッシュで走ってきた血まみれの女性は、タックルするようにダンの体に抱きついた。体格や顔の感じからして、三十代だろうか。
「おぉっ!落ち着けよ!」
突如として扉から現れた女性と、その姿に困惑を隠しきれない。だがそれでも、目の前にいる女性を落ち着かせようとダンは平然を装った。
「すみません!すみません…!」
「とにかく…何があったか教えてもらってもいいか?」
徐々に落ち着きを取り戻してきた女性に対し、ダンはそう尋ねた。
「ここには…ここには殺人鬼がいるんですぅっ!」
「なに」
もともと半信半疑なままここへ来ていたダンは、その言葉を聞いて驚いた。
「私は先週殺人鬼に連れ去られたんです!気づけばこの豪邸で眠っていて…!それで…それで…!」
「分かった」
再び興奮してきていた女性を宥めるように、落ち着き払った声でダンは言った。何せ、女性は血まみれだ。自分では想像もつかないような凄惨なことが起きたのだろう。
「他に、知ってる中でこの豪邸に連れ去られた人たちはいるか?」
「…あっ!子供が二人で十五歳ぐらいの女の子が一人!まだ残っているはずです…!」
なるほどな、と呟いた。
この豪邸に住む殺人鬼は、か弱い人たちを狙っているのだ―。
よく見れば、この女性もお腹に赤子を宿している。殺人鬼はこういう体がまだ幼い人や、不自由な人をわざと狙っては、殺してを繰り返しているのだろう。
これは、いい記事ができそうだ。
「ありがとう。あとは俺に任せろ。アンタは警察に通報だ」
「えっ…もしかして」
ああ、と返事をしながら、ダンは着ていた紺の革ジャンを脱ぎ、その鍛えられた筋肉を黒のTシャツの上から見せる。
「殺人鬼をとっ捕まえてくる。新聞の見出しはそうだな…“敏腕新聞記者、殺人事件に終止符を打つ”とか?」
「―ひとぉり…ふたぁり…さんにぃん……あれぇっ?」
薄暗い豪邸の三階の子供部屋、三人の子供達は横一列で正座をしながら目の前にいる殺人鬼となるべく目を合わせないべく視線を逸らしていた。
「ひとぉり足りなぁいっ!ァァァァアアアア!!」
殺人鬼は狂ったように叫ぶと、持っていたナイフで自らの左目を切り刻んだ。
「…んん?あぁっ?もうひとりいるじゃぁんっ!」
痩せ細った裸の上半身を揺らしながら、殺人鬼は愉快に踊る。あまりにも狂気じみた光景。だが、子供三人はただ見ることしかできない。一人の子供は目に溜めた涙を手で拭い、もう一人の子供は唇を噛んで恐怖を押し殺し、最後の一人の子供はただただ泣き叫んだ。
全身から汗が噴き出るまで踊った後、殺人鬼は疲れ果てた様子で天井を指差した。
「今日はぁ?ひとり殺すの日ぃー!」
右手に握りしめられたナイフに、少しだけ力がこもる。
「ママァッ!やめてよぉッ!」
かと思ったら、急に殺人鬼は泣き出した。
「なぁんで僕ばかりこんな目にぃっ!オカシイィィィィッ!!」
殺人鬼は鼻水と涙をボロボロ流しながら、一人の十五歳程の女の子に狙いを定めた。
「や、やめてっ!お姉ちゃんをころさないでっ!」
もう二人の子供は泣きじゃくりながら、必死にその子を守ろうとするが―。
「僕も殺したくないんだよォォッッ!」
殺人鬼は、無慈悲に、ナイフを振り下ろした。
ナイフの切っ先は正確無比に女の子の脳天を突き噴水のように血が噴き出る―はずだった。
「何してんだよっ!」
どこからともなく、一人の男が扉を蹴破った。
そして、男は風を切る勢いで殺人鬼に向かって駆け出す。
直後、男は殺人鬼に右ストレートを放った。右拳は殺人鬼の頬骨を粉砕する勢いで打たれ、肉が弾ける音と骨が砕ける音が鳴る。
「ぶげっしゅッ!」
モブキャラのような声を上げながら、殺人鬼は殴り飛ばされた勢いで壁に衝突した。
「クソっ…!めちゃくちゃイテェ!やっぱホウキとかスコップとかの道具とかで殴った方が良かったかあ…!?」
三人の子供達は、その男を救いの目を向けながら見つめた。
黒茶髪のツーブロックに、短めに揃えられた顎と口の髭の男。その男が、子供達の目にはヒーローに映る。
「あなたは…?」
「あん?俺か?」
待ってましたと言わんばかりに、男は親指を自分の顔の方に指すと、こう名乗った。
「お兄ちゃんの名前はダン・マーティン。コイツを捕まえるついでにお前らを助けにきた!
「―で、その殺人鬼は捕まったんですか?」
「勿論さ、逃げ出してきた女性がちゃんと警察に通報をしてね。ダン君も子供達三人を助けることができたんだよ」
話を終えると、ラミリアは再びポケットから葉巻を取り出した。
「でも、なんでダンの奴は殺人鬼の家に入るっていうハイリスクなことをしたんでしょうね。下手をすれば死んでしまうかもしれないのに」
「…私が思うに、彼は利益が多い方を命懸けでも取りに行く男なんだと思うよ。だから彼は、犯人を捕まえて子供も救うという、自分への利益が多い方を取りに行った」
吸うかい、とラミリアはマイクに葉巻を差し出す。ありがたそうに、マイクはその葉巻を受け取る。
「ありがとうございます……利益が多い方を命懸けでも取りに行く?なんか変な性格してますね」
「ま、それが彼のいいところでもあるんだけどね」
ふっ、と微笑むと、ラミリアは葉巻を口に咥えた。
「彼は…実に面倒くさい性格をしている。だが、その性分のおかげで彼は名誉と人気度を獲得していった。彼自身、どうも思っていないのだろうがカリスマ性が持ってしてある。そこらを評価して、私は彼、ダン・マーティン君なら仕事をこなしてくるはずだと考えたのだよ」
ライターで火を点け、先端が熱を帯びた葉巻を吸いながらダンを語るラミリアの姿は、とても楽しそうだった。