サラブレッド記者
目の前の社長室に入る前、男は何を言われるのかを楽しみにしていた。
「もしや…昇進か…?だとしたら今晩はパーティーだなぁ…」
そんな独り言を天井に向かって呟きながら、男は着用しているスーツの身嗜みを直す。
「…よし」
覚悟を決め、男は社長室の扉を三回ノックした。
「入ってくれ」
数秒経ち、扉の向こうから嗄れた男の声が聞こえる。
「はい…!」
男は嬉々とした表情で、扉を開けた。
社長室は、男の気分とは全く違う雰囲気が漂っていた。光沢のある木製の床、部屋の両隅に置かれた存在感を放つ本棚と分厚い本の数々、部屋のちょうど中心に敷かれた、赤を基調としたふわふわの絨毯、部屋の奥に設置された重厚な机と椅子。そしてそこに鎮座していたのは、強面な顔でこちらを見つめる社長だった。
「今回は、一体どういう件で?」
男は社長相手だというのに、全く緊張している様子で尋ねた。
「……君が作成する記事は中々上出来なようだな…ダン・マーティンくん」
「どうも…?」
社長は困惑する男を一瞥すると、整えた鼻の下の白銀の髭を片手でゆっくり撫でた。
「君のおかげで、我が会社【ヒューマンコミュニティリポーター】の売上は右肩上がりだ」
その話を聞いたダンという男は、当たり前だと心の底で思った。事実、新聞記者であるダンが書く記事は、本人の人を惹きつけるコミュニケーション能力と読者を惹きつける文章力が相まって、中々の読み応えがあり、ダンが書いた記事が載る新聞は必ず発行部数が二百五十万部を超えるという。
「そんな君に、任せたい仕事があってね…」
「おおっ!なんですか?」
昇進でないことに少し落ち込みはしたが、社長直々に下す仕事となればまた話は変わる。その仕事とやらを成功させれば、どれほどの大金が手に入るのか。ダンはすっかり有頂天になった。
「ヒューマンコミュニティリポーターは今や、シカゴに会社を構えるほどまでに成長している。だが、今回のその仕事を成功させれば、ニューヨークの中心部の大きなビルに会社を移転するというのも夢ではなくなる」
「ニュー…ヨーク…!」
世界的に注目されている都市の名前が出て、ダンの気持ちが更に昂る。
「これから伝える仕事の内容を一言一句忘れてはならんぞ?いいか?」
唾を飲み込み、頷くと社長はゆっくりと語り出した。
「アメリカの有名な州に数えられるカリフォルニア州、そこのとある山の中に一つの街があるらしい。
名は【ワンダーエリア】という。噂によれば、その街、ワンダーエリアでは度々“超常現象”なるものが起きると言われているそうだ。これからダン、君には約五ヶ月間その街で取材を行って欲しい。そして、分かったことをまとめた記事を毎日パソコンで送信して欲しいんだ。できるか?」
ニューヨーク、大金持ち生活という単語がダンの脳内に幾度も過ぎる。
「任せてください。俺を誰だと思ってるんですか?
三ヶ月間の出来事、全て面白い記事に仕上げて見せますよ」
「ふふっ…頼んだぞ」
精一杯のキメ顔を社長に見せつけると、ダンは一礼して「では」、と社長室から去った。
「―ということがあってね」
「へぇ…そうなのね…」
マンションの自室に着いたダンは、帰ってくるなりダイニングの椅子にドサっと座り、彼女である“ヘレン・ジェイソン”に今日の出来事を話した。
「―あの、大丈夫ですか?」
後ろに並んでいる客が迷惑そうにしているのも忘れるほど、目の前の女性は魅力的だった。サファイアのような綺麗な青色の瞳。普通の人より少し目尻が吊り上がっている目。完璧なほどまでに美しい顔の骨格。艶のある金色の髪は、肩まで伸びており、遠くからでもいい匂いがする。
「う、ウワァオ…」
列の先頭に立つダンは、目の前にいる女性で意識が飛びそうになった。
五年前、新聞会社に就いたばかりの二十五歳ダンは、すぐ隣のこじんまりとした珈琲店で働くヘレンに恋をした。
付き合ったのはその約二ヶ月後。
「―俺と…俺とお付き合いしてください!」
砂浜といういかにもな場所に連れてきて、緊張の雰囲気を隠すわけでもなく漂わせながら、ダンはヘレンにプロポーズをした。
「はい…!」
元々好きだったヘレンだが、そんなダンの不器用さを見て更に好きになり、オーケーを出した。
「―この動画めちゃくちゃ面白くない!?」
「っはは!確かにぃ!」
価値観も一緒で、趣味も一緒、好きな食べ物も嫌いな食べ物も、好きな人にキスをしたい部位だって二人は一緒だった。
二人の相性は本当に良く、この二年間一度も喧嘩をしたことはなかった。
そう、この日までは。
「というか…いつにも増してこのステーキ凄く美味しいね。じゃがいもも柔らかくて最高だ!」
「はは…そうでしょ?」
「…最近なんだか肌寒い気温が続くなぁ!そう思わない?」
「確かに…ね?」
ダンは必死に話題を作ろうとするが、ヘレンは引き攣った笑顔を作るだけで全く作った話題に乗っかろうとはしない。
いつもなら明るく接する彼女の素っ気ない態度に、ダンは薄々違和感を感じていた。
「ねえ…もしかして疲れてる?」
「いいえ!そういうことではないの…」
思い切って聞いてみるが、また軽く受け流されてしまった。
そうか、とダンは呟くと、思い出したかのように声を張り上げてこう言った。
「そうそう!それでさ!さっき言ってた社長からの仕事のことについてなんだけど。もし、その仕事が成功したら大きな金額が舞い込んでくるはずなんだ!そうなったらなんだけと…正式に夫婦になる…とかできないかな?」
三十代に入ったというのに初々しい笑顔を作って、ダンはヘレンの反応を覗くように下から見た。
「いや、あの…ごめんなさい」
「…え?」
ヘレンの対応は、ダンの“まさか”を突いてきた。
だが、ここで諦めるほどダンも弱くない。
「どうしたんだい?何か…やっぱり理由が―」
ピンポーン、とインターホンが鳴った。
咄嗟にヘレンが振り向き、声を上げる。
「マズイマズイマズイ…!」
ヘレンはなだれるように椅子から落ちると、慌てふためいた顔で玄関へとドタバタ走っていった。
彼女のおかしな行動に、ダンは不審がりながらも後を追おうとする。
「ヘレン!?ちょっと待っ……」
「へーい!ヘレンちゃあん!今日も旦那さん居ないんだよね?沢山ハメ外しちゃおー!」
しかし、玄関先から聞こえたチャラ男の声に、ダンは動きを止めた。どうしてか頭皮から脂汗が噴き出し、喉が乾き、舌がピリつく。
まさかな―。
ダンは、にわかには信じがたかった。自らの彼女がまさか―。
するわけがないという、何の根拠もない理由をもとに、ダンはゆっくりと、リビングの壁から玄関を覗いた。
「会いたかったよーん!」
「本当に…今はやばいから!」
ダンの期待とは裏腹に目に映ったの光景は、自分より高身長で顔立ちが良い、日焼けした二十代の男と、嫌々言いながら満更でもない顔をするヘレンの抱き合いだった。