住み込み店員 1
男性は菊地俊といった。
店の名は地竜堂というらしい。菊地の祖父が遺したという雑貨屋を継ぎ、喫茶店に改装したそうだ。
「地竜って、ミミズのことですよね?」
「ん? ……確かに」
「え?」
(ミミズを店名にしているなんて変わっていると思ったけれど、もしかすると物語に出てくるような竜が由来なのかな……)
改めてみれば、本当に不思議な店だ。
スノードームにも似た置物の中には桜の木が咲いていて、どういう仕組みなのかはわからないがフワフワと花びらが散っている。
「さあ、こちらへどうぞ」
「ありがとうございます……」
雨に濡れたまま二人は人のいない店内を通り抜けてバックヤードに入る。そのまま裏口から出れば、竹林だった。
表からはわからなかったが、敷地はずいぶん広いようだ。
雨はもう止んでいる。時々キラキラ輝きながらフワフワ飛ぶのは、蛍だろうか。それにしては大きい。
(蛍……? 冬なのに?)
もう一度見ようと視線を向けたが、すでにそこには何もいない。結羽は見間違いだったと思うことにした。
菊地の家は大きな2階建ての瓦屋根の日本家屋だった。
「明日説明するけど、その前にシャワーを浴びないと天音さんが風邪を引くな」
「大丈夫ですからお先に」
「はは、いくらおじさんでも雨に濡れた女性を差し置いてシャワーを浴びるような男になりたくない。……っと、着替えがないのか。ちょっと待っていて」
菊地は結羽を置いて2階へ上がると、樟脳の香りが漂う浴衣と帯を持ってきた。
「祖母が若い頃に着ていたもので悪いけど……。浴衣は着れる?」
「ええ……。着慣れているので」
「そう」
正確に言えば、いつも着ていたのは浴衣ではなく袴だ。
結羽は自分の境遇をもう少し説明するべきかと悩んだが、菊地はそれ以上聞いてくることなく、風呂場に案内してくれる。
「そこのタオル勝手に使って。シャンプーは、男物しかなくて悪いな……。明日買ってくるからとりあえずそれで良いかな」
「ありがとうございます」
シャワーを浴びれば、冷えた体が温まっていく。
菊地が使うシャンプーは、ミントの香りとてスースーとした清涼感が強い。
シャワーを手早く浴びると、結羽は浴衣に袖を通した。幾分和らいだ樟脳の香り。
ピンクのナデシコ柄の浴衣は可愛らしい。
菊地は祖母の若い頃の物だと言っていたが、大切に保存されていたのだろう。古びた感じはなかった。
(それにしても、見ず知らずの男性の家に泊めてもらうなんて)
今さらになっていつもとは違う自分の行動に驚く。
「そういえば、店員さんも一緒に暮らしているって……」
けれど、脱衣所にある洗面台には歯ブラシもコップも一組しかなかった。何となく違和感を覚える。
『ニャー!!』
「あら、あなた……。この家の猫なの?」
では、誤って外に出てしまったのだろうか。
しゃがみ込んでそっと触れてみる。
人懐こいのだろう。三毛猫は結羽の手に体を擦り付けてきた。その体はすでに乾いている。
「不思議な店、不思議な家」
風呂場から上がってきた菊地は、紺色の着物姿だった。普段は着物を着て生活しているのだろうか。目のやり場に困るほど色気があるのだった。
***
そして翌朝、結羽は布団に横たわる菊地の隣で……。看病していた。
「菊地さんって、人からお人好しだと言われませんか」
「……そんなに人と関わることがない」
「えっ、はじめから親切だったじゃないですか」
「そんなに親切な人間じゃない。僕は」
「そうですか」
氷水で絞ったタオルをそっと菊地の額にのせながら、結羽はため息をついた。
あのあと、冷たい雨に濡れた結羽に先にシャワーを勧めた菊地は、冷え切ってしまったのだろう。
すっかり風邪を引いてしまったのだ。
菊地の首元には、心配しているかのように例の三毛猫がすり寄っている。
「人に看病してもらうなんて、久しぶりだな」
「そうなんですね。……ところで、早番のお仕事は何をすれば良いですか?」
「そうだな、美紀に聞いてくれ。……昨日いた子だよ。店にいるはずだ」
『ニャ!!』
代わりに返事をしたような三毛猫に結羽はほほ笑みかける。
「ところで、この子の名は?」
「…………ミキだ」
「ふふっ、同じ名前なのですね」
小さな偶然を楽しみながら、結羽は台所を借りて作った卵粥を差し出す。
そして、立ち上がり菊地を見下ろした。
「……結羽さん」
「できることは少ないかもしれませんが、美紀さんに聞いてがんばるので、菊地さんはゆっくり休んでくださいね」
「ん……。すまない。ああ、言い忘れていた。この見せに来る客は変わり者が多いんだ……」
いくら変わり者だと言っても、見ず知らずの結羽を下心なしに家に招いてしまう菊地ほどではないだろう。それに不思議な店だ。お客様も変わっているに違いない。
「大丈夫ですよ」
「そう……」
「水も飲んでくださいね」
「ん……」
熱が高いのだろう。菊地はボンヤリとしているようだ。
心配だが、店を手伝ったほうが良いのだろう。
結羽は後ろ髪を引かれる思いで家を出て、昨日歩いた竹林の間を通り抜けて店へと向かうのだった。
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