36発目 高貴と平凡の狭間で
「んん~……!やっぱり野宿の後だと,ベッドでの休み心地が改めて感じられますねカトラ様♪」
ここはシノゾイック工房の所有する社員寮。流石に先日泊まったホテルとまではいかないが,それより二回りほど小さい程度の広めのスペースに,ベッドが2つ,入り口のすぐ手前にキッチンがあり,風呂とトイレも別。クローゼットは二人分と考えると多少狭いものの許容範囲内であるうえ,ベランダに物干し竿も完備されていて,寮としては十分すぎる広さだ。
ただ,そんな条件でも,カトラ様はどうにも不服そうな顔をしている。
「……むぅう。今日から私は,こんな狭い部屋で過ごさねばならないのか?」
「……まぁ,そう仰らずに。これも庶民の暮らしの形ですから」
「しかしだなぁ……」
ぎし,とベッドを手で押さえる。周囲を見渡し,彼女ははぁっとため息をついた。
「ベッドが硬い。寝心地も良くないし……何より部屋が狭い。あのホテルですらギリギリ許容範囲だったというのに,それよりも狭いとは何なのだ。先ほど見た風呂も,あのような小さな浴槽では足もまともに伸ばせないではないか」
「カトラ様……」
「だいたい,庶民の暮らし庶民の暮らしというが,この崇高なるカトラ・フローリアは民を護り,民の上に立つ存在なのだ。相応の力を持つ以上,相応な権力と,相応な暮らしがあってしかるべきなのだ。何故才能もなく権力を持て余し,遊び惚けている奴ら貴族どもが,今のこの私より快適な暮らしが出来ているのだ」
その悩みが贅沢で,自分勝手なものであるということは,カトラ様自身も,内心理解はしているのだろう。メルトロン市のホテルでは興味を抱いていた庶民の暮らしという言葉も,単に物珍しく,働かせた知恵の結果に感心していたのだ。
このアイオワに訪れた時,バスの待ち時間に納得してくださったのも,あくまで庶民の暮らしを学ぶという目的で,体験会的な意味合いが彼女の中では強かったのだろう。
彼女にとって,あくまで庶民の暮らしは目線を学ぶ意味合いが強く,裕福でない暮らしに完全に溶け込み,その環境で暮らそうと思ってのお考えではない。崇高なる者には崇高なる行動を,それと同様に,崇高なる者には崇高なる暮らしを,提供されるのが当然であり,そうであるべきなのだ。
「……仕方,ありませんよ。それが庶民の暮らしというものですから」
「そんなものは理不尽だ!正当でない!」
カトラ様は声を荒げる。一応社員寮の壁には防音魔導が施されており,部屋の中の物音が他の部屋に漏れることはないとの説明は借りる際にされたものの,つい肝が冷え,壁に目線を移してしまった。
「エゲツナーもそうだ,ベリエスもそうだ!なんであのようなまともな力も持っていない無能どもがふんぞり返って裕福な暮らしを約束され,この崇高なるカトラ・フローリアが迫っ苦しい小部屋で窮屈な暮らしを強いられねばならない!奴らがここに押し込まれればよいのだ!空いた席にはまともな力のある者がつけばいいというのに!」
「カトラ様,落ち着いてください。そうした理不尽があるということは,あなた自身ご存じでしょう?」
「知らん!こんなにも不当な扱いなどされたことがない!」
ばふっと枕に頭を押し付け,不貞腐れてしまうカトラ様。貴族という身分を剥奪され,今まで過ごしてきた2週間ほど。それまでに溜まってきた鬱憤の,一つ一つはきっと些細なものだったのだろう。それこそ,他の者が周りに1人いるだけで,“崇高なる存在としてのプライド”というたった一つの感情で覆い隠してしまえるほどに,矮小な不平。
それが積もりに積もったうえで,押さえつけていたプライドの貌が剥がれたことで,一気に爆発してしまったのだ。
思えば,自身を“この崇高なるカトラ・フローリア”と自称することそのものが,そうした小さな不満を表に出さないための無意識のストッパーの役割を果たしていたのかもしれない。どれだけ強大な力を持ち,偉大な責任感を持っていようと……彼女はまだ成人にもなっていない,1人の少女なのだ。
そして……きっとこうして,思いのたけをぶつけることも,今までずっとカトラ様を見てきた,私にしかできないのだろう。今この場にいるのが私以外の誰であったとしても,このような泣き言は決して述べたりしないはず。
……ならば,私のやるべきことは何だろうか。そんなもの,1つしかないだろう。
「不当な扱い……確かに,そうかもしれません。今までずっと裕福な暮らしをしてきたカトラ様にとって,こんな状況は初めてかもしれませんね」
そう思った私は,ゆっくりカトラ様の元へ歩み寄り,ベッドの間の通り道に腰を下ろす。
カトラ様と同じ目線となり,そっとその手を握る。そうしたうえで,彼女の頭を真っすぐ見た。
「いくら理不尽があるということを知っていても……単に見聞きすることと,実際にそうした目に遭うことは違いますから……戸惑いなさるお気持ちも,よくわかります」
「……ミーア……」
「特にカトラ様は,ちゃんとしたお力がありますから。力があるからこそ,力のない者がご自身より上に立つことが許せない……そうですよね」
「……誰だってそうだろう。自身の価値と同等の立場を持つことは,正当な権利だ。そこから逸脱することは,過剰に上に行くことも,過剰に下に行くことも,不当なのだ」
「よくわかります。それを実現するために,カトラ様が動いていらっしゃることも」
顔を横に向けるカトラ様。お互いの瞳にお互いが映り,静寂が訪れる。
「その思想を,正当に理解する者は,きっと私だけではありません。それに共感し,カトラ様に正当な立ち場を与えることが必要なことだと理解する者も。だって,正しい者に正しい立場と権力を……それが,正しい形なのですから」
カトラ様の瞳が揺れる。つないだ手から,行き場のない,淡い力が伝わってくる。
「……やはり,ミーア……お前は他の誰よりも,私の隣に立つに相応しい。この崇高なるカトラ・フローリアが抱える鬱憤を,こうも見事に押し流してみせるのだからな」
「ええ,それが私の才覚ですから」
ふっと笑うと,カトラ様は上体を起こす。それに合わせて私も顔を上げると,空いた胸にぎゅっと彼女の頭が押し付けられた。
「……すまないな,ミーア。もう少し,このままでいさせてほしい」
「ええ,構いませんよ。しばらくなどと言わず……カトラ様の傷が癒えるまで,いつまででも」
髪に触れ,頭を撫でる。
カトラ様の方から手が組み代わり,手首の付け根が合わさる。
ふたりの体温が混ざり合い,密度が深まっていくのを感じる。
「ミーア……」
どれほどそうしていただろうか。不意にカトラ様の声が聞こえる。
「ええ,どうしましたか,カトラ様」
「感謝する。お前のおかげで,弱気になっていた心を発散できた。さしもの私も,変化した状況に心が追い付かなかったみたいだ」
「だれだってそうですよ。それでカトラ様の品格が落ちることなどありえません」
「そうだろうか……」
再び口ごもるカトラ様。まだ何か,心のつっかえがあるようだ。
「何か……気になることでも,あるのですか?」
「……お前は,どうなんだ。ミーア……私のように,何か溜まっている感情などはないのか。それがないなら,誰だってそうとは言えないだろう」
「私ですか?それなら心配は要りませんよ。それをため込む前に,少しずつ発散を続けているので」
「少しずつ,発散……何によって?」
興味を示したカトラ様が顔を上げる。私はふっと笑うと,その唇に指を当てた。
「勿論……カトラ様,あなた自身によって,ですよ」
一瞬だけ,カトラ様の動揺が表情に現れる。しばらくの間押し黙り,逡巡するそぶりを見せた後,納得したように彼女は頷いた。
「なるほど……そういうことか。この崇高なるカトラ・フローリアの存在自体が,ミーアにとって心の傷を癒すもの。そういうことだな」
「ええ,その通りでございます」
「理解した。ならば……この崇高なるカトラ・フローリアがお前にできる,最高の御礼をお前に還すとしよう」
「……カトラ様……」
私の胸が,とくんと高鳴る。その様子を見て,カトラ様はふっと微笑んでくださった。
ゆっくりと,二人の顔の距離は縮まっていく。そして……窓に差し込む夕焼けの中,二つの唇が触れ合った。




