プロローグ 天を揺るがす悲劇
「はぁ…はぁ…ぅぐ、がはっ…!」
純白の鮮血を飛び散らしながら、彼女はガクッと膝をつく。
彼女の名は、ミカエル。
天界に棲み、神々によって作り出された存在、「英霊族」のひとり。
その中でも、かつて世界最大と呼ばれた主神に仕え、最強の大天使とすら呼ばれた存在だった。
だがその面影も、今となっては見る影もない。
輝きを失った4枚の翼。
神の加護を受けた衣はズタズタに引き裂かれ、無残な状態の素肌を晒している。
周囲を見渡せば、夥しい数の死体の山。
皆等しく、翼を生やし、甲冑を纏ったミカエルの軍勢達。
それらは全て、たったひとりの手によって奪われた命だった。
「サリエル…お前ほどの者が、何故…」
空のように澄んだ蒼の羽衣に、純白の長髪。
3対6枚の巨大な翼は、異様な美しさを纏っていた。
「何故……?私からすれば、身を奉じていた主神ヤハウェを失い、英霊族などという烙印まで押されて尚、生き残って知らぬ神の元で働くことの方が、天使の恥と思うがね」
詭弁だった。
天を仰ぐサリエルの瞳には、ぎらぎらした黒い野望が渦巻いている。仮にこの世界を少しでも想い、英霊達の栄誉のために起こしている行動であるならば、そんな光を宿すことなど決して無いだろう。
だからこそ、大天使ミカエルは、それを止めなければならなかった。
同じ神の元に生まれた仲間として、堕ちていく様を見過ごすわけにはいかないと想ったのだった。
「そんなことは、無い…最も尊ぶべき主が消滅しようとも、天使の使命まで霧散するわけではないだろう!
何故だ?お前は変わってしまった!あの日,神が魔獣達に喰われるお姿を見て、お前は何を思ってしまったというのだ!!」
ミカエルの言葉は、サリエルの信仰心を呼び起こそうとしたものだった。
しかし、その結果は…真逆。
目をカッと見開いたサリエルは、高らかに、猟奇的な笑い声を上げた。
「フハハハハハハッ!!何を思ったのか、だと?そのままさ!
神というものの矮小さ……そして,私が真に信奉するべきものの偉大さをだよ!」
「真に,信奉するべきもの……?どういうことだ,サリエル……」
「ッフフフフフフ……なんだ,ここまで言ってやったのに気づかないとは……しばらくの平和で頭脳まで歯抜けになってしまったのか」
不気味な笑みを浮かべるサリエルは,自身の胸に手を当てる。うっとりとしたその口調からは,狂気的な自己陶酔が感じられた。
「私はずっと,人々の犯した罪を裁く者……死を司る天使だった。だからこそ,死の持つ意味を誰よりも理解しているのだよ。私が敬うのは神でも何でもない,死だ。
私はね,最も尊ぶべき死によって,世界を埋め尽くすことが善であると気付いたのだ。だからこそ……“死の象徴”を,今再びこの地上界に現す」
「……まさかサリエル,貴様!!」
驚愕にミカエルが眼を見開いた時,その背後から日輪の如き輝きがその場を照らした。
光の矢が豪雨のように降り注ぎ,反逆の堕天使を撃ち貫かんとする。
濛々(もうもう)と煙が立ち上り,視界が曇る。しかしそれも,すぐさま強烈な太陽神の光が打ち払ってしまった。
「……アポロン神……」
振り向くと,紅蓮の甲冑に身を包んだ巨大な神格が,大量の英霊を引き連れて降臨していた。
その場に佇んでいるだけで周囲を焼き尽くしてしまいそうなほどの熱波と共に,何者を以てしてもひれ伏さずにはいられないほどの強烈な威光を放つ彼は,ミカエルの頭に直接話しかける。
「大英霊ミカエル。このアポロンが来るまでの間,よくぞあの堕天使をこの場に留めてくれた。良い活躍であった」
「……光栄にございます」
サリエルの姿は,既にそこにはなかった。衰えたミカエルの力では,気配すらも追うことが出来ない。
「しかし……サリエルは取り逃してしまいました。奴の目的も,その口からは聞きそびれてしまいました」
「仕方のないことだ。それに……おまえのことだ,何も得られなかったわけではないのだろう」
「……奴の最終的な,目論見については……微力ながら」
「ならば,来い。対策をたてねばならん」
「……は」
身を翻すアポロン神に,ミカエルは続く。
天界を揺るがせた騒動は,これにて一時の幕引きを迎えるのであった。
♢♢♢♢♢
光の魔導に満ちた,神聖な空間。
純白の素材に,黄金の衣装をあしらったその部屋には,広大な天空を司る天上神・アイテールの加護が,砂一粒の隙間もなく満ちている。
そんな大神域の中心に,ミカエルはひざまずいていた。
「……それで。あの堕天使,サリエルの目論見は,何だというのですか」
頂きの神は問いかける。その声はひどく怯えた様子で,その威光にも陰りが差しているようにすら見えた。
「奴の……サリエルの目的は……」
ミカエルの言葉にも,緊張が籠る。ためらいの沈黙の後,彼女はその重い口を開いた。
「……かの冥望龍,アペルピシアの復活です」
神殿全体に衝撃が走る。
アペルピシア……それは絶望を意味し,一度世界の全てを終わらせた名。
神と対を為し,あらゆる生物を超越する,「天龍族」と呼ばれる種族の一体だった。
「あの冥望龍を復活させるなど,正気の沙汰とは思えん!!」
「堕天使め,せっかく平和の戻った世界をまた混沌のもとに崩壊させようというのか……!?」
「あぁ……そんな,ことが……」
ざわめきの中,アイテールはがくっとその場に崩れ落ちてしまう。
「アイテール様!!お気を確かに!!」
英霊たちが駆け寄る。頂の神は恐怖に慄き,ガタガタ肩を震わせている。冥望龍という存在がどれだけの絶望を齎す者なのか,一目でわかるほどだった。
そんな衝撃の中,1人の英霊が首をひねる。
世界の結界を司る大英霊,オネイロスだ。
「しかし,英雄ユーティが施した強大な結界が,そうそう簡単に破れるとは思えません。それはさしものサリエルも知っているはず。一体どうするつもりなのだ……?」
「それには,私がお答えいたしましょう」
名乗りを上げたのは,天上神アイテールを直接守護する英霊たちの長・四徳天のひとりにして,知恵を司る大英霊,メティス。
神殿の神々が見守る中,ゆっくりと彼女は口を開く。
「恐らくサリエルの目的は,かの闇竜皇を目覚めさせることにあるでしょう。闇属性の竜族達の頂点に君臨するかの者が再び活動を始めれば,世界は再び,冥望龍の絶望を思い出すでしょう。そうなれば,冥望龍の力も高まる……自身の復活へ向けて,動き出すのです」
「闇竜皇……神や天龍と共に“超越魔導生物”と呼ばれる,皇獣族の一体を……」
こくんとうなずくと,彼女は暗く重い空気を漂わせる神殿に,凛とした声で呼びかける。
「しかし,それがわかっているのなら,いくらでもやりようはございます。サリエルが闇竜皇の復活を目論むのならば,我々はそれに対抗する手段を創りだすまでです」
「手段,ですと……?一体何ができるというのですか。闇竜皇が眠っているのは地上界。あちらの要請が無い限り,盟約によって我々天界の者が直接手出しをすることは出来ないぞ」
「わかっております。しかしそうであるならば,その地上界に届ければよいのです。我々の想いを乗せて……」
神殿が次第にざわめき始める。
「託しましょう。闇竜皇に打ち勝つに足る才覚を宿した子供を,地上界の者に産んでもらうのです。彼か,彼女かはまだわかりません。ですが,運命づけられたその子供は,きっと自ずから,使命を全うしてくれます」
サリエルに打ち勝ち,闇竜皇を討伐する……その目的を果たすためには,あまりにも確率の低い賭け。
しかし,それでも……もしこの暗くよどんだ未来に可能性の希望が残されるのならば。
知恵の英霊・メティスの言葉を信じた神々は結託し,地上の世界へ生まれるために世界の境界を越える1つの魂に,加護を与えた。
いつかその者が……民の上に立ち,民の平穏を護ることのできる存在になるよう,祈りを込めて……。