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【エピローグ】島津一族興亡と盛衰の道

 慶長五年十月三日、島津義弘はようやく無事本国へ帰還した。生き残りの兵わずか八十余人、足を引きずる者もいれば、疲労からよろめく者もおり、中には無事薩摩へ帰還できたことに涙ぐむ者までいた。

 大隅の富隈城に龍伯を訪ねた義弘、龍伯しばし冷厳な表情を浮かべ、やがて、

「こん、うつけもんが……」

 と一言いった。この数年の兄弟間の不和は深刻で、龍伯はかろうじて無事薩摩に帰還した弟義弘に暖かい言葉をかけようにも、言葉が見あたらなかったのである。だがその目はうっすらとうるんでもいた。それをおおい隠そうとするかのように、足早に義弘のもとを立ち去ろうとする龍伯。だが去り際ふと足を止めると、

「義弘よ、こいだけは覚えておけ。おいは島津の家ば守るため、おまんの首、あれいは家康殿にさし出すことも十分ありうるということを」

 すでに龍伯の眼は雲烟万里の彼方、遠く上方の家康の方角をのぞんでいたのである。


 ほどなく家康のもとから現当主忠恒か、前当主龍伯の出頭をうながす書状がとどく。しかし龍伯は容易に動かず、国境を封鎖し、出水、大口といった国境の外城の防備を厳重にし、臨戦態勢を固めた。その上で家康には、薩摩本国が中立を保ったことを盾に、出頭命令を拒絶したのである。これは島津龍伯の島津家存続のための最後のかけであった。

 国境の各外城の中にあっても、特に龍伯が重視したのは、義弘の居城帖佐の近くにある蒲生城であった。

「思いだすのう。あの合戦からすでに四十年以上も年月が流れたか……」

 自ら蒲生城の視察に訪れた龍伯は、現当主忠恒と馬を並べ、遠い昔を振り返り長嘆息した。龍伯のいう四十年前の合戦とは、まだ三州統一前、蒲生範清を攻めた合戦のことである。

「あんおりは、おいも義弘もまだ若かった」

「父上から聞いておりもうす。なんでも敵の将と一騎打ちに及び、そいを倒した後、背に矢を五本も受けながら城に迫ったとか」

 忠恒は、若かりし頃の義弘の勇姿を想像しながらいった。

「あの合戦で、もし矢の当たりどころが少しでも悪かったら、義弘はすでに死んでいた。それから後も、あいは幾度生死の淵をくぐりぬけたことか、よもやこの年になるまで生きておられようとは……思ってもみなかったじゃろう。思えば命冥利な奴よ」

 龍伯はしばし目を閉じた。

「じゃっどん、あいもすでに年じゃ、もう戦せんでよか。あとはおいがやる。ふりかかる火の粉は払わねばならぬ。今少しじゃ、こいがおいが島津家のためにできる最後の仕事じゃ」

 龍伯はかすかに眼光を鋭くした。蒲生城は整備がゆきとどかず、城の周囲に生えた苔が、時の流れをものがたっていた。

 

 やがて、柳川の立花宗茂を屈服させた黒田、鍋島、そして加藤等の九州諸大名は、薩・隅二国の国境にまで押し寄せたきた。だが関ヶ原に千五百の軍勢しか送らなかった島津家には、まだ兵力に余裕があり、しばし無言の睨み合いが続く。十一月中旬をむかえ、国境にひしめいていた軍勢は突如、総撤退を開始する。家康の公式は発表はただ、冬が訪れるので一旦兵を退くというものだけだった。

 関ヶ原での島津勢の壮絶な撤退劇を間のあたりにした家康は、むろん島津の武力を軽んじてはいなかった。これより十三年前島津領に押し寄せた秀吉の時と異なり、家康の天下統一の基盤はまだ極めてもろく。例え島津を滅ぼすことができたにせよ。そのための犠牲が甚大になれば、徳川の威信に傷がつくことも十分ありうる。それよりもすでに老齢の家康には、徳川の天下を長久のものとするため、残された時間で、やらなければならない仕事が数多く残っていたのである。


 武力衝突の危機はひとまず回避されたが、その後も家康は龍伯か忠恒いずれかの出頭を求める使者を再三にわたって薩摩へ下向させる。だが龍伯はそのたびごとに、のらりくらりと交わし続ける。弓矢ではなく、外交もってしての家康との抗争。だが家康同様、龍伯もまた残された時間は後わずかしかない。子孫のため、果たして己になにができるか。龍伯はついに非常の手段をもって活路を見出そうとするのである。


 家康は天下統一の後は、大国明との交易をのぞんでいた。しかし秀吉の朝鮮出兵以降、日明両国の関係は冷却しきったままである。そこで家康は、朝鮮の役で捕虜となった明の将軍茅国科の送還を島津家に命じていた。この捕虜送還は、家康がかねて予期していたとおり、ことのほか明の朝廷を喜ばせ、返礼のため福州船二隻が薩摩の沖合いに姿を現わした。

 ところがである。この福州船二隻が奄美大島の東方、喜界ヶ島近海で海賊の襲撃を受け座礁してしまったのである。下手人として名前があがったのは、堺の商人伊丹屋助四郎という者で、この人物は間もなく捕縛され磔の刑となったが、明国の使節を乗せた船が島津領の近くで座礁させられたことは、家康に深い衝撃を与えた。

 家康は背後に島津家の黒い影を見た。大国明との間に太いパイプを持つ島津を滅ぼすことは、同時に日本国が大陸との交渉ルートを失うことでもある。これを家康は、龍伯の無言の恫喝ととらえた。


 慶長七年(一六〇二)二月、関ヶ原で島津兵の狙撃を受け深手を負った徳川四天王の一人井伊直政は、傷口から破傷風に感染し死の床にあった。家康はこの三河以来の股肱の臣のため、自らその病床に見舞う。

「殿、それがしはもう長くはござりません。恐らくこれが今生の別れとなりましょう」

 病重い直政は、絞りだすようにして、ようやく声をだした。

「何を申す、徳川の世を磐石なものとするため、そなたのような家臣がまだわしには必要なのじゃ、しっかりせい」

「いえ、人間寿命には勝てませぬ。願わくば、それがしの最後の願いを聞いてくだされい」

「なんなりと申せ」

「他ならぬ、島津のことでござる」

 家康は、瞬時表情を険しくした。

「あいわかった。何も申さずともよい。そなたの無念わしが必ず晴らす」

「いや、そうではござりませぬ。こい願わくば島津を許していただきたいのでござります」

「なんと、無念を晴らすでなく、島津を許せとはいかなる存念じゃ?」

 家康はしばし怪訝な表情を浮かべた。

「そもそも関ヶ原で島津殿が西軍の一翼を担いしは、思わぬ行き違いと、成り行きによる栓なきもの。また戦場で傷を負うも倒れるも武士の宿命なれば、それがし後悔しておりませぬ。この井伊直政、生涯の最後にかような手強き武者と刃を交えることができ、武人としてこれほど喜ばしきことはなく、この傷はそれがしの誇りにござります。島津家のこと、どうか穏便に取り計らわれますよう、切に願いあげたてまつる」

 家康はしばし苦りきった表情を浮かべ、返す言葉を失った。間もなく井伊直政は世を去ったが、家康は薩摩処分につき、いよいよ最後の断をくださなければならなかった。


 慶長七年五月、ついに家康は島津家に対し全領国安堵の起請文を、上洛した島津忠恒に与えた。家康に反旗を翻した外様大名のうち、会津上杉家は米沢へ移封となり、百二十万石の領土を三十万石にまで減らされていた。また山陰・山陽に十二カ国の領土を誇った毛利家も、わずかに周防・長門の二カ国にまで大幅に減封されている。すなわちこの破格の待遇は、義弘の捨て身の勇と、龍伯のしたたかな外交による、島津家だけが勝ち得たものだった。この年島津龍伯七十歳、義弘は六十八歳になっていた。


 

 慶長十四年(一六〇九)三月。丸十字の旗をふりかざした島津家の軍船は、屋久島の西方約十二キロの永良部島に上陸した。

 すでに世は二代将軍秀忠の時世である。琉球王国は、この時まで日明両国の間の二重冊封体制の中にあり、北は北京から南はジャワ島に至る、実に広大な交易圏を保持していた。島津家久(島津忠恒が家康の一字をもらい改名)は、シラス台地で痩せて産業の乏しい薩摩藩の財政の改善に役立てるため、この琉球王国に目を付けていた。家康の許しを得て、ついにこの年武力侵攻にふみきったのである。むろん琉球侵攻は龍伯の反対を押し切り、家久が独断で決定したもので、この頃から龍伯と家久の対立も少しずつ顕在化し始めていた。

 島津兵は老中樺山久高を大将とし、兵の数わずか三千と少ないが、天下に精強をもって知られる精鋭部隊である。一方琉球王国の不覚は、王都首里城を守る常備軍とでもいうべきものが、ほとんど皆無に等しかったことであった。

 島津軍は三月七日奄美大島到着。ここから軍勢は三手に別れ、それぞれが津代湊、深江津、西古見に上陸。山丹花が赤く咲き乱れ、阿壇といわれるパイナップルに似た実をつけることで知られる亜熱帯性の植物が生い茂る中、薩摩軍による無人の野を行くがごとき侵攻が続いた。

 

 三月末には早くも琉球国都首里の近くまで軍勢を進め、この間琉球王国の抵抗らしき抵抗といえば、那覇港を守る屋良座城、三重城の二つの沿岸城砦から石火矢による砲撃を敢行、島津勢に正面からの上陸を断念させたことぐらいだった。

 島津軍の首里接近に対し、およそ一千の兵が首里入口の大平(平良)橋で迎え撃つ。大平橋付近は浦添グスク(城砦のこと)から首里へ入る道が整備され、また首里北方面から市街地へ進入できる通路となっていた。琉球側はここで島津軍に対する最後の抵抗を行ったが、勝敗を分けたのは鉄砲の桁違いの威力だった。琉球の守備兵らしきものはあえなく壊滅し、ついに首里城へと退いた。

 首里城は中国の城の影響を大きく受けている。門や各種の建築物は漆で朱塗りされており、屋根瓦には初期は高麗瓦、後に赤瓦が使われ、各部の装飾には国王の象徴である龍が多用された。城郭は他のグスク同様、琉球石灰岩で積み上げられていたといわれる。だがこの城も日本の城砦とは異なり、いわゆる防御用施設ではない。

 四月四日、琉球尚寧王はあえなく降伏。わずか一月ほどの戦に決着がついた。この合戦は、まぎれもなく薩摩藩による琉球に対する軍事介入であり、薩摩・琉球双方の間に後々まで禍根を残したことは間違いない。だがこの合戦をもって、戦国の世に日本はもとより東アジアを舞台とし、数多の合戦をくぐりぬけてきた島津家も、ついに兵を収める時がきたのである。


 関ヶ原後の島津家では、龍伯・義弘そして家久の三人の主をいただく、いわゆる『三殿体制』とでもいうべき状態が長く続いた。特に龍伯と家久の対立は年々深刻となり、家久は琉球出兵の後も、かっての庄内の乱の首謀者伊集院忠真を狩猟の最中、事故とみせかけて射殺するなどし、島津家中での専横が目立った。また龍伯の家老平田増宗も家久の手の者に暗殺され、さらに正室で龍伯の娘でもある亀寿姫もまた遠ざけられ、不遇の身となった。

 こうした中慶長十五年(一六一〇)年暮れもさしまったある夜半、晩年の龍伯の隠居城とでもいうべき富隈城で一大事はおこった。

「大殿がお倒れになったぞ!」

「早くに薬師を呼べ! 早くにじゃ!」

 龍伯倒れるの報に、たちまちのうちに城内は騒然となった。島津龍伯は八十に近い高齢に加え、この数年の家久との確執のため、すっかり心身をすりへらしていたのである。

 龍伯重篤の知らせは、加治木城を晩年の隠居城に変更した義弘のもとにも伝わり、年が明け、もはや余命幾ばくもない病床の龍伯を見舞った義弘は、変わり果てた姿に驚愕した。


「目を閉じると、弟達の顔が浮かぶわい……」

 龍伯はようやく声をだした。

「三州統一の志に燃えていた頃が懐かしい。おはんとはいつぞや約束したのう。共にこの日の本の動乱を鎮めるさきがけになろうと」

 龍伯は相変わらず空ろな眼光なままでいった。

「覚えており申す。まるで昨日のことのようでごわす」

 義弘もまた高齢のため、しわ深くなった顔で相づちをうった。

「じゃっどん、おいはこん齢になるまで、ついに心薩摩を捨てることができず、天下に志をもたんとする、おはんの足を引っ張ってしまった。九州制覇の夢も挫折し、おまけに……弟達を守ることができなんだ」

 そこまでいうと龍伯は、半ば涙声になった。

「なにば申されます。兄者はこん薩摩のため十分な働きをしたはず。我等の日の本のためにという志は、いつの日か必ずや他の何人かが受け継いでくれるはず」

 義弘は龍伯の手を取っていった。だが龍伯には、すでに言葉を返す余力は残されていなかった。

「しばし、一人にしてくれい」

 義弘等は涙ながらに、病床の龍伯の部屋を後にした。そしてこれが両者の最後の別れとなった。その夜島津龍伯は、ひっそりと息を引き取った。時に慶長十六年一月、島津龍伯享年七十九歳。

 かって日新斎忠良が、『三州の太守たる人望生まれながらに備わり』と予見したとおり、島津龍伯は一国の浮沈を担う政治家として傑出していたといえる。島津家といえば、精強比類なき薩摩隼人という印象のみで語られることが多いが、島津龍伯という当主を頭にいただいていなければ、さしもこの史上またとない動乱の時代を、くぐりぬけることができたか疑問である。こうして島津四兄弟も残すは、ついに義弘のみとなってしまった。


 この間も徳川幕藩体制は、着々とその基盤造りをすすめていた。七十四歳の家康にとり生涯最後の憂いは、大坂城の豊臣秀頼と淀君の存在であった。慶長十九年(一六一四年)、ついに徳川家康は『国家安康 君臣豊楽』という、方広寺の鐘に刻まれた文字にいいがかりをつけ、二十万の軍勢をもって大坂城を取り囲んだ。

 この合戦は七十を越えた家康が、その知略の限りをつくし、故秀吉の残した大坂城の堀を埋めたてる、史上空前規模の土木作業であったともいえるだろう。だが物理的に堀を埋める以前に、大坂城の秀頼と家康の間には、越えられない巨大な壁が幾重にも張りめぐらされていた。それが豊臣家を支える大衆の支持。福島正則・加藤清正等いまだに豊臣を慕う諸将。そして秀吉が残した莫大な金銀だった。

 このうち世の豊臣家に対する支持は、朝鮮出兵という暴挙により失われたといってよい。また大坂城の奥深くに眠る莫大な金銀も、家康が各地の寺社を修築させるという名目で多くが散財されていた。

 

 だが徳川の世に移り変わり、上方の一大名に転落したとはいえ、まだ豊臣を慕う大名は数多くいる。そのうちの一人加藤清正は、慶長十六年(一六一一)三月の二条城における家康と秀頼の対面の際、秀頼の背後に影のごとくよりそい、万が一の事態に備えたが、この会見が無事すんだ後、帰国途中の船内で突如病となり、ほどなく死去した。毒殺されたとも、梅毒による死とも伝えられるが真相は闇の中である。加藤家はその後、徳川幕府による粛清の対象となる。御家断絶の後、熊本城だけが残り、三百年後の世に鹿児島から北上する薩摩隼人と、西郷隆盛の前に立ちふさがるのである。

 残る福島正則にもすでに、家康の魔の手から秀頼を守る力はない。後日のことになるが、広島の福島正則の所領は、台風で崩れた広島城の石垣をわずかに修復したことが、武家諸法度に反するとして、ことごとく没収され、川中島に改易とされている。また清正・正則同様、賤ヶ岳の七本槍の一人として有名な加藤嘉明の家なども取り潰しにあっている。徳川家はこれら豊臣恩顧の諸将の力により、関ヶ原の合戦に勝利した。しかし天下を統一した後の徳川家は、彼等に決して好印象をもちえなかったのである。


 こうして大坂城は家康とじかに対峙することとなった。家康は半ば騙しうちに近い形で大坂城の堀をことごとく埋め、淀殿と豊臣秀頼は炎上する城と運命を共にすることとなった。豊臣秀頼が大坂城を密かに逃げのび、薩摩島津家の庇護のもとで余生を送ったという伝説もあるが、むろん言い伝えにすぎない。

 翌年徳川家康死去。享年七十五歳。遺体を西の方角に向けて埋めよというのが、家康の遺言であったといわれる。家康はその死が目の前に迫る時まで、薩摩島津家を恐れていた。この家康の懸念が杞憂でなかったことは、後の世の歴史が証明するところである。


「敵襲! 恐れながら右の林より謎の軍勢にござる!」

 島津義弘は、いずことも知れぬ戦場で、突如として出現した伏兵に動揺した。

「うぬ、あの旗は杏葉の旗大友の軍勢か!」

「恐れながら、左の林からも伏兵にござる。剣花菱の旗、龍造寺の軍勢に相違ござらん!」

「ただちに軍勢を二手に分けて応戦するのじゃ!」

 とその時、不意に眼前に出現した大軍は、徳川の葵の旗をひるがえした軍勢だった。

「鉄砲隊用意!」

 島津兵が銃を構えた瞬間、突如として義弘の周囲が真っ暗になり、狭い野に密集していた大軍が消滅した。代わって出現したのは海峡である。そして月の光の中浮かびあがったのは、おびただしい数の亀甲船だった。

「己、李舜臣! 生きておったか!」

 その時無数の弓矢が義弘めがけはなたれ、義弘は全身を射抜かれ昏倒した。


 島津義弘は、ほら貝の音とともに加治木城で正気に帰った。八十歳を過ぎ、さすが歴戦の猛将も老いには勝てず、寝たきりとなる日が多くなっていた。しかしほら貝の音を聞くと正気に戻ったといわれる。

 元和五年(一六一九)七月、島津義弘はついに死病におかされていた。意識が朦朧とする中、仏の前で祈りを捧げる義弘。突如として背後の襖が開いた。光とともに義弘はそこに、三人の男が屹立する姿を見た。

「兄上……歳久、家久おまんら生きておったがか……」

 義弘は声をかけたが、三つの影はついに一言も発しない。義弘は光の方向に吸いこまれるように消えていった……。

 時に元和五年七月二十五日の丑の刻(午前三時)、島津義弘は享年八十五歳にして、永遠の旅路についた。辞世の旬は、


 春秋の花も紅葉もとどまらず 人も空しき関路なりけり


 島津家にとり、一つの時代が終わりをつげようとしていた。だが島津四兄弟の精神は確実に後の世へと受け継がれる。徳川期を通じて、俗にいう三百諸侯が太平の世にあり、大半が凡庸な人材しか輩出しなかったことと比べ、島津家は代々傑出した人物を世に送りだした。


 鹿児島市吉野町にある心岳寺は、島津龍伯が豊臣秀吉が死んだ年に建立した、島津歳久の菩提寺である。安政五年(一八五八年)、鹿児島湾をゆっくりと移動し、心岳寺の近くまでさしかった一艘の小船があった。世にいう安政の大獄により行き場を失った、西郷吉之助(隆盛)と僧月照を乗せた船だった。

「月照どん、あいを見てたもんせ。そん昔元亀・天正の頃、島津の御家のため一命を捨てた尊か方を祭る社でごわす」

 この時西郷はむろん死を覚悟し、心岳寺の方角に向かい一礼を捧げると、月照とともに入水自殺を図った。だが月照は死んだが、西郷は死ななかった。西郷隆盛率いる薩摩兵がついに念願の倒幕をはたすのは、これより九年後のことで、実に関ヶ原の合戦から二六八年、天下のさきがけたらんとする島津兄弟の志は、後々の世まで継承されたのである。

 


長きに渡ってご愛読くだされた皆様には深く感謝します。問題点は多々あったと思いますが、物語を完結させることができ、感無量です。ゆくゆく新たに小説を書くこともあるかもしれませんが、その際御一読くだされば幸いと思います。それではひとまずこれでお別れとします。

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