【三州統一編其の六】龍ヶ城攻城戦
初陣での功により、忠平は弱冠十九歳にして岩剣城の主に任命された。だが立地条件の難しさから麓に平松城を築城し、そこを居館とすることとなる。
岩剣城を巡る戦いに勝利したとはいえ、祁答院良重と蒲生範清の勢力が、完全に滅亡したわけではない。祁答院、蒲生両氏及び蒲生氏を後方から支援する北薩摩の雄菱刈氏との戦いは、三年もの長きにわたった。だがさすがに粘り強く抵抗を続けてきた祁答院良重も、新たに居城とした帖佐城を落城せられ、菱刈氏の主菱刈重豊もまた島津氏との戦いで討ち死に。蒲生範清は居城としている蒲生城に孤立無援の体となった。
弘治三年(一五五七)四月、満を持した島津勢は、蒲生城の最終的な攻略を前にして、主将貴久以下多くの家臣が、桜島の麓にある霧島神宮に集い神仏に戦勝を祈願した。霧島神宮はもともと欽明天皇の時代、慶胤なる僧侶が高千穂峰と火常峰の間に社殿を造ったのが始まりとされる。しかし、火山の麓にあるという立地のため、たびたび炎上した。貴久はかすかに桜島の鼓動を耳にしながら、おごそかに神仏に手を合わせて瞑目し、居並ぶ家臣達もまた寂として声もない。
軍師(この場合の軍師とは戦場における作戦計画を立案するというより、呪術、祈祷の専門家)がさしだす盃を三度飲みほした貴久は、同時に勝栗、打鮑、昆布を肴として口にした。敵に打ち勝って喜ぶという意味である。一連の儀式がつつがなく終わると、介添えをする者が貴久に鎧や冑を着用させる。軍扇を手にした貴久は、
「神仏の加護は必ず我等にあり、戦は必ず勝つ、えい、えい、おう」
と大音声をあげ、居並ぶ武将達も貴久にならい、えい、えい、おうと三度音頭を唱えた。同時に島津家の象徴ともいえる丸十字の籏や、貴久の御旗である「時雨軍旗」が高くかかげられた。時雨軍籏は、島津家の始祖忠久が雷雨の中で誕生したという故事に基づき、貴久が軍旗に採用したものである。
蒲生城は現在は竜ヶ城城山公園となっており、曲輪から蒲生の市街を一望できる絶景の地にある。
周囲およそ八キロの大規模な山城であり、通常の城とは異なり、本丸は標高一六二五メートルの山の中腹にあった。二の丸と三の丸の間には、腰曲輪と呼ばれる小規模な曲輪が帯状に設けられており、さらに前面の前郷・後郷川を自然の堀として活用し、城の地形が龍の伏した姿に似ていることから、龍ヶ城とも呼ばれる天然の堅城である。
四月十日未明、かすかに蒲生城周辺にただよっていた濃霧は次第に霞み、合戦の火蓋は島津側の鉄砲隊の放った銃弾で幕を明けた。
「進め、進め! 退く奴は叩き切るぞ!」
主将である貴久自らの叱咤激励に答えるように、島津三兄弟他、伊集院忠朗、島津忠将、島津尚久等、島津方の武者達に率いられた薩摩軍の部隊が、城に至る崖をはい登っていく。なにしろ圧倒的多勢の島津軍である。さしもの堅城とうたわれた蒲生城も、苦もなく陥落すると思われた。ところが島津勢を待ち構えていたのは、予想だにしていなかった蒲生方の種子島銃による反撃だった。このころになると鉄砲は、九州全土に少しずつ普及し始めていた。だが蒲生範清がいつの間に種子島銃を入手したのか、全く島津勢にとって寝耳に水だった。山から撃ちおろされる鉄砲ほど恐ろしいものはない。島津側は混乱し死傷者が続出した。さらに弓矢はむろんのこと、熱湯、巨岩などありとあらゆるものが島津軍を苦しめた。蒲生側の最後の抵抗を前にして、島津軍は苦戦を強いられ、攻城戦は長期化する気配を見せ始めた。
「おまんらなんばしちょる、敵は我等の十分の一以下、こげん城一つ落とせんでは諸国からおい達が侮りを受けるは目にみえちょる。だれぞ良い策があるものはおらんのか」
攻城九日目、島津貴久は軍議の席で不満を爆発させた。
「恐れながら敵は城もろとも玉砕覚悟かと、死を恐れぬ兵ほど恐ろしい者はごわはん。ここは我等我慢こそ肝要かと」
口を開いたのは忠良の代から島津家に仕え、今や筆頭家老といってもいい伊集院忠朗だった。
「じゃっどん、ただ我慢するだけでは戦には勝てん。だれぞ良策はないのか」
座が静まりかえった時だった。甲冑の音とともに、不意に軍議の席に姿を現わした者がいた。
「歳久ではないか、おはん皆が城ば攻め落とすため軍議の最中だというに、どこでなにばしとった」
義久(この頃から義辰から義久に改名)の声に忠平も振り返った。
「されば父上に朗報でごわんと、こん周辺の地理に詳しい源助と申す百姓が、城に至る抜け道を知っとるということでごわんと」
「そいは間違いなかか、そん百姓をここへ通せ」
姿を現わしたのは粗末な身なりをした、白髪混じりの百姓だった。
「なんなりと条件を申せ」
「我等の村はここ数年の凶作に度重なる戦で難渋いたしておれば、しばし年貢の取立てを軽減することをお許し下され。なれば喜んで島津の殿に御味方いたす所存」
源助は貴久の前に平伏して答えた。
「いいだろう、絵図面をこれへ持て」
貴久と諸将は城周辺の詳細な絵図面を前にしばし沈黙した。源助の説明はおよそ半刻(一時間)ほど続けられた。
その夜、歳久と新納忠元及び五百ほどの部隊は、源助の道案内で音を消して裏道から城を目指した。新納忠元は歳久より十歳ほど年長で、「鬼武蔵」の異名をとる剛の者である。源助は年に似合わず敏捷で、月の光だけがかすかに夜道を照らす中、蝙蝠のように目を光らせて闇を急いだ。やがて一行の前に城の曲輪らしき影がおぼろげながら浮かびあがった。
「見張りがいるぞ、忠元どうする」
歳久は忠元のほうを振り返った。
「構いません。敵は油断しているはず突破しましょう」
同時に暗闇の中数百の影は、一斉に城の守備隊へ襲いかかった。
「チェストォォォォ!」
忠元がたちまちのうちに、敵の見張り兵を刀で倒したのが合図だった。守備兵の混乱に乗じて、島津軍は怒涛のように城に襲いかかる。三の丸に続いて二の丸にも火がはなたれ、夜が明ける頃、混乱は頂点に達した。
明朝期して島津勢の総攻撃が開始された。島津勢の先鋒は忠平である。黒漆塗りの十三間厳星冑をかぶり赤糸縅大鎧を着用した忠平は、平安時代の刀工三池典太光世が打ったとされる『大典太』という名の三尺はあるであろう長剣を手にし、敵兵を蹴散らしつつ、城の本丸を目指して山を登る。やがて山頂に至ると、全身真っ黒な馬に乗った敵の武者が、忠平を出迎えた。
「我が名は如月道臨、敵の大将の一人とお見受けするが、お相手いたす名のられよ」
「おいは島津貴久の次男忠平じゃ、もしやおはんは目が見えぬのか」
道臨の目は閉じたままで、尋常ならぬ殺気だけが周囲を支配していた。
「されど心の眼は常に開いておる。我が槍を受けれるか」
忠平を間合いを詰めようとした時だった。道臨の十尺はあろう大槍が空を裂き、忠平の十三間厳星冑が吹き飛んだ。もちろん道臨の槍は冑にかすってさえいない。
『できるこれは人間業ではない。到底盲目とは思えん』
忠平は内心恐れ、道臨は忠平の心中を見透かしたかのように、
「ふはははは、例え目が見えずとも、敵のかすかな息づかい、鎧甲冑の音で動きが手に取るようにわかる。覚悟するがよい」
といいはなち人馬一体となって忠平に迫る。
槍と剣の勝負では距離感が勝負を分ける。三尺の長剣をもってしても、ゆうに十尺はある大槍には刃がとどかない。ましてや道臨の槍の速さは想像を絶しており、忠平はまばたきする間に右の肩、左のわき腹と突かれ、致命的な一撃をかわすのが精一杯だった。
『このままではやられる、何か策はないか』
ふと忠平は祖父忠良の教えを思いだした。忠良は義久や忠平がまだ幼かった頃、仏教と手本とする自らの人生観をいろは歌に託して、人の上に立つ人間の心構えや、武将として心得を優しく教えさとしたといいわれる。
聞くことも又見ることも心から みな迷いなりみな悟りなり
忠平は目を閉じた。敵が心で相手を見るなら、自らもまた心で敵を見ようというのである。静寂が両者の間を支配した。不意に先刻来まで曇っていた空から強い雨が降り始めた。雷電が暫時天を裂いた。
「忠平覚悟!」
道臨が槍を降りおろした時である。凄まじい雷鳴が獣のように道臨を襲った。盲目の道臨は雷の音で瞬時忠平の姿を見失った。
「チェストォォォ!」
凄まじい膂力とともに、忠平は鎧ごと道臨の脇腹に致命的な一撃を与えた。
「うぬ、見事だ忠平、おはんに斬られたのならもはや悔いはない。さあ早よう、早うとどめを」
忠平は刀を振りかざすと、道臨の喉元に最後の一撃を加えた。
「如月道臨撃ち取ったり」
忠平がどしゃぶりの雨の中刀を天に振り上げると、今一度雷光が天を裂いた。
この日忠平は背に五本の矢を受けながらも、悪鬼のごとく城に迫った。城の守備兵達は忠平を恐れ戦慄したと伝えられる。
ほどなく蒲生範清は降伏、城を明け渡し去った。島津家は三州統一へ向け大きく前進したのである。
この頃、薩摩の地からさして遠くない豊後の国(現在の大分県)に、礼拝堂で楽器の音に耳を傾ける、一人の風変わりな若き武将の姿があった。キリスト教は天文十八年(一五四九)イエズス会の宣教師フランシスコ・ザビエルによって日本に伝えられて以来、主に九州及び周防(現在の山口県)を中心に、急速に勢力を拡大しつつあった。特に豊後では国主自らがキリスト教に深い関心を示し、都市自体が南蛮文化の色に少しずつ染められつつあった。この若き武将こそ、後に島津家にとって最大の脅威となる、豊後の国の国主大友義鎮(後の宗麟)だった。
次回から小説タイトルを「乱世の狂星」から「戦国・鬼島津伝」に変更することにしました。ご了承下さい。