【関ヶ原編最終章】関ヶ原・九州戦線(三)~江上八院の戦い
立花宗茂は、海路柳川を目指していた。九月二十六日、安芸の日向泊に船をつないだ宗茂は、水平線の彼方に数艘の怪しき船を見た。
「あの丸十字の旗は、まさしく島津の旗に相違ござらん」
島津義弘は生きていた。義弘は関ヶ原で前進しながらの退却を決行した後、伊勢方面めがけて進路をとり、鈴鹿峠を越え、関ヶ原の合戦当日の夜には伊勢の関まで到達した。その後伊賀信楽では、落ち武者狩りの僧兵等に宿所を取り囲まれるなどしたが、かろうじて堺まで脱出に成功。大坂城から詭計を用いて、人質となっていた自らの妻を救出し、九月二十二日には船で大坂から出航していた。この時には千五百いた島津軍は、八十人を数えるのみであったといわれる。
「恐れながら殿、今こそ絶好の好機ではござりますまいか」
「好機とはなんのことじゃ?」
側近が耳元でささやくのに対し、宗茂はいぶかしみ聞き返した。
「なんと申しても島津は、亡父紹運様の仇にてござれば、あの船の大きさ、数なら兵の数は高がしれているというもの」
「今、軍勢をもって仇を晴らせというか」
その時宗茂は、島津義弘という人物と初めてじかに接した、晋州城での対面を思いだしていた。あのおり不意に落涙した義弘……。しばし躊躇した宗茂であったが、到底その首は討てぬと思った。
「たわけ! その方はなんということをいうか。島津家は確かに我が父の仇なれど、太閤の命により和解し遺恨はすでにない。ましてや相手の弱みに乗じて仇を晴らそうなどと、人に聞こえれば笑い草になろうぞ」
島津の船を出迎えた宗茂は、その夜、酒をもって義弘をもてなそうとした。義弘の表情には、関ヶ原の一件以来の疲労が色濃くにじみでており、甲冑もぼろぼろである。
「左近、何故おいを殺さぬ」
義弘が発した第一声がこれだった。
「おいは、おはんにとって親の仇にも等しい者。おいが憎いであろう」
これを聞くと宗茂は一、二歩後ずさりし、具足を外し始めた。
「老将、これをご覧なれ」
胸をむきだしにすると、弓矢で射られた後がくっきりと残っていた。まさしくそれは、露梁海峡で宗茂が李舜臣から受けた弓矢のあとだった。
「あのおり、老将が助太刀に入らねば、それがしは異国に海に命運尽きていたところ。遺恨はもはやなく。老将を今討ち取るなど思いもよらぬこと」
これを聞くと、義弘はかすかに不敵な笑みをうかべ、
「この義弘負けたわい。おいはこの年になるまで戦で人を殺すはむろんのこと。時には人を騙し討ちにし、約定を反古にし、数限りなく悪事を重ねてきた。そいは己が生き残るため、そして島津の家を守るため、詮無き仕儀であったと今でも思っておる。じゃっどんおはんは違う。そげんことに手を染めずとも、自然人はついてくるし、天もまた味方する。おいはおはんがうらやましか……」
不意に義弘は遠い目をした。
「すでに家康殿の東軍が勝利した以上、おはんには、こん先も苦難が待ち構えておるに相違なか。じゃっどん希望を捨てる必要はなかど。人の心、天の加護は、常におはんにあること忘れるでなか」
「御心いたみいり申す。仰せのこと、それがし終生忘れませぬ」
宗茂は軽く頭を下げた。その夜両者は昔話などをし、そして今生の別れをむかえるのである。
その頃上方では、家康による西軍諸将への断罪が、次から次へと実行にうつされていた。十月一日京六条河原で、ついに捕らえられた石田三成が処刑される日がきた。
三成は関ヶ原から脱出した後、伊吹の山中をさまよったが、九月二十一日、田中吉政の手の者によって捕らえられ、九月二十二日には大津城の門の前で、生き晒しの恥辱をこうむることとなった。福島正則等豊臣恩顧の諸将が、その様を見てあざ笑うが、三成は天と泉下の太閤殿下のみが真実を知ると言いはるのみだった。すでに三成の居城佐和山は、東軍によって落とされており、三成の父正継はじめ妻子一族の主だった者は、ことごとく城と運命を共にしていた。
三成とともに、この日処刑されることになった西軍諸将は、小西行長と安国寺恵瓊の両名である。そのうち髪を総髪に振り乱した小西行長は、
「いよいよ徳川による天下磐石の世が訪れるやもしれぬのう。誰よりも世の平和を願ったこのわしが、その生贄になろうとは……皮肉なものよのう」
と、かすかに笑みさえ浮かべ、あとの残された時間を、ただ自らが信じる神デウスへの祈りの時とした。その有様は、かたわらで処刑を待つ禅僧安国寺恵瓊が、一心不乱に念仏を唱える光景と好対照をなしていた。
最初に小西行長の首が落とされた。行長の死は遠くローマにまで知らされ、時の教皇クレメンス八世までもが死を惜しんだといわれる。享年四十六歳。ついで安国寺恵瓊の首が地に落ちた。安国寺恵瓊は享年六十二歳であったといわれる。
三成は落ち着きはらっていた。大津城で生き晒しにされた後、はからずも家康との対面も果たしていた。両者とも一言も発することなく、時だけが流れた。やがて家康は立ち上がり、去り際、
「おって沙汰する。わしがそなたを裁くのではない。歴史がそなたを裁くのじゃ」
と、ようやく言葉を発した。
『歴史が己を裁く? 豊臣の世を守るため戦ってきたわしが、歴史により裁かれるとは、豊臣に代わって徳川の天下が訪れるということか? ならば徳川の天下の行く末、我が魂のついえぬかぎり、末の世まで見とどけてくれようぞ』
三成は目を閉じた。白刃が三成の頭上で光った。石田三成は享年四十一歳。辞世の句は、
筑摩江や 芦間に灯す かがり火と ともに消えゆく 我が身なりけり
明治四十年、京都大徳寺三玄院で、石田三成とおぼしき人物の遺骨が発見された。遺骨は当時の解剖学の権威足立博士によって分析され、石田三成の人物像が、おぼろげながら浮かびあがってきた。三成は身長百五十六センチと、武将として決して恵まれた体格ではない。だが才槌頭が官僚として豊臣政権を支えた、三成の優秀さをものがたってもいた。そして一見して女性と見まがうほど線の細い優男であったといわれる。
果たして地下の三成は、いかなる思いで徳川の世の行く末を見守っていたことであろうか……。
立花宗茂は、十月九日無事九州に帰還した。だがこの時には柳川は、四隣ことごとくが敵の有様と化していた。
まず肥前の鍋島直茂である。この人物は関ヶ原での東軍勝利後、嫡子勝茂がはからずも西軍の一翼を担ったことを家康にわび、柳川を攻めることを条件に一応の許しをえていた。
肥後の加藤清正は、すでに主を失った小西行長の宇土城を降伏開城させ、長年の行長との怨恨に決着をつけると、北上してやはり柳川をうかがっていた。
そして黒田如水である。如水は石垣原の合戦で大友勢を降伏させた後、国東半島を北上。かって朝鮮の役でも使用された、亀甲車をもって安岐城(大分県国東市安岐町)を陥落させ、さらに心理作戦をもって富来城(大分県国東市国東町)をも無血開城させると、小早川秀包の久留米城さえも難なく開城させた。十月十四日のことである。
宗茂は、しばし大坂城で甥にあたる輝元の不明を詫びる、旧知の秀包の顔を思いだしていた。再会を期して別れたが、どこか顔色がすぐれないことが気になってもいた。事実秀包は病におかされていた。余命半年足らずであることを、むろん宗茂は知る由もなかった。
「恐れながら殿、鍋島勢は一万、我等は千ほど、ここは籠城策が一番でござる。東軍がすでに勝利した今、合戦に及べば徳川殿の心証もさらに悪くなりましょう」
柳川城での軍議の席上、家臣等の多くが籠城を得策と宗茂に進言した。だが宗茂はこれに真っ向から反対した。
「黙れ! 二股膏薬の鍋島ごときを恐れたとあっては、立花の名がすたるわ! 一戦してもし及ばざれば潔く腹を斬るのみ」
宗茂は決戦の道を選んだ。十月十九日、物見に出ていた立花吉右衛門の手勢が鍋島勢と遭遇したところから、俗にいう江上・八院の合戦が始まった。鍋島勢は一万の軍勢を十二段の備えとし、これに対し立花勢は安藤・石松の二手が、二の備えまで崩した後討ち死に。立花三太夫が三の備えを崩したが、これも討ち死にした。
この合戦に先立ち、宗茂の妻ぎん千代は宮永村にあって、北上する加藤清正の動きに備えていた。だが清正は、
「うぬ、この清正女子相手に戦はできぬわい」
と、さっさと兵を退いてしまう。清正は永年の怨恨を晴らすため、小西行長の宇土城を攻める合戦などには積極的であったが、宗茂に対しては朝鮮・蔚山城での合戦以降の友誼があり、これを攻めることにためらいがあった。そのため戦に及ぶことなく撤兵したのであった。
立花ぎん千代はこの時、紫縅の鎧に身を包み、床机にどっかりと腰をおろし、立花家譜代の家臣等が宗茂の許しもえず参じて、なかなかに威勢がいい。清正が去り、後顧の憂いがなくなると合戦の最前線まで一気に兵を進めた。
「何をしに参った。女子の来る場所ではないわ」
宗茂は声を荒げたが、ぎん千代は戦場の方角をにらみ。
「申しわけありませぬ。私めは女子として生きることできませぬ」
と一言だけいい、宗茂の制止を聞かず乱戦のただ中に兵馬を進めた。
ぎん千代は奮戦するも空しく、間もなく敵の重囲の中におちいってしまった。誰もが討ち死にかと思ったその時、ぎん千代は敵の矢玉の中をかいくぐり、ついには重囲を突破してしまう。だが銃弾が左太ももに命中し、ぎん千代の馬は今一歩のところで戦場に立ち往生する。
「信じられん、真にあれが女子か?」
敵将鍋島直茂は、しばし呆然とした。宗茂もまた驚愕した。
「うぬ、さすがは我が義父の血を引く女子よ。皆ぎん千代をみすみす殺すな」
立花勢は総攻撃を開始し、鍋島方の十二の備えのうち、九段までも崩した。だが兵力の差はいかんともしがたい。小野和泉は伏兵に遭遇し手勢の半分を失ったうえ、自らも深手を負った。立花吉右衛門もまた討ち死にする。夕刻、ついに立花勢は柳川城に退いた。
清正は宗茂を死なせたくなかった。鍋島直茂に面会すると、
「わしとそなたは朝鮮の役のおり、共に酒を酌み交わした仲じゃ。そして宗茂ともあの朝鮮の合戦以来、親しい仲にある。互いに滅ぼし合うは、わしにとって耐え難い。必ずわしが説得する故、攻撃をしばし見合わせてはくれぬかのう」
と幾度も宗茂のもとへ使者を送って、降伏をうながした。清正の懇切丁寧な説得は、宗茂の心も動かした。十月二十五日立花宗茂降伏を決意。十二月三日柳川城開城。
宗茂の身柄は、しばし清正預かりとなり、多くの領民が涙ながらに見守る中、柳川を後にする。宗茂は一介の浪人となったのである。清正の厚遇はありがたいが、いつまでも肥後に居候するわけにもいかない。ほどなく京にでることとなった。去り際ぎん千代も一行の端にと誘ったが、
「わらわは父の眠るこの九州から、遠く離れる気などござりません。今生のお別れとなるやもしれませぬが、この掛け軸をわらわと思い……」
と、いつか宗茂が渡した。道雪がぎん千代を描かせたという絵を再び返し、かすかに目をうるませた。
立花ぎん千代は、わずか二年後に、肥後国玉名郡腹赤村(現熊本県玉名郡長洲町)で病のため世を去ることになる。わずか三十四年の生涯であった。
一方立花宗茂は、これより長い浪々の日々を送ることになる。だが二人の父を薫陶の受けたこの快男児の心は折れることなく、慶長十一年(一六〇六年)には、奥州棚倉一万石で大名に復帰。そして元名六年(一六二〇)ついに柳川へ再封されることとなるのである。晩年には三代将軍家光のもとで、遠い昔のこととなりつつある、戦国の世を語るなどしたといわれる。また七十二歳にして島原の乱の鎮圧に赴くなどし、老いてもその鋭気は決して衰える様子はなかった。寛永十九年(一六四二)江戸にて死去。七十六年のあまりに波乱に満ちた生涯であった。
関ヶ原の合戦の後、九州の乱は終息に向かいつつあった。一時は天下を己の手にと志した黒田如水であったが、関ヶ原の合戦が、わずか半日で東軍の勝利で幕を閉じたことが、この戦国随一のしたたかな老人の野望を打ち砕いた。徳川家康にとり、残るは薩摩島津の処置だけとなった。だがその前に立ちはだかる者がいた。島津龍伯である。
ようやくここまでこぎつけました。正直ここまで書けるとは思いませんでした。次回最終回をご期待ください。