【関ヶ原編其の九】関ヶ原・九州戦線(二)~石垣原の戦い
関ヶ原の合戦が間近に迫る頃、立花宗茂の姿は近江・大津城にあった。大津城は琵琶湖を掘とする巨大な水上要塞で、他に三重の空堀に囲まれていた。本丸は最北(琵琶湖側)に配置され、外堀と城下は京橋口、尾花川口、三井寺口、および浜町口の四ヶ所で繋がれていたといわれる。
この城の主は東軍方で、豊臣秀頼生母淀君の妹にあたる初を室とする、京極高次であった。西軍にとり、琵琶湖の西岸にあり、東海・東山・北国の諸道が分岐する地点にある大津城は、戦略上の重要拠点である。攻め手の西軍は、大坂城の毛利輝元の叔父にあたる毛利元康・秀包を大将とし、宗義智・立花宗茂等九州勢の合わせて一万五千。
城兵は三千に過ぎないが、それでも果敢に抵抗した。九月八日西軍の総攻撃開始。湖上には軍船が浮かべられ、鉄砲・火矢がひっきりなしに城にうちかけられる。十二日には外堀が埋められ、十三日には長等山上にすえつけられた大筒からの一撃が天守閣に命中。高次室、お初の侍女のうち一人が、崩れた木材の下敷きとなり命を落とす。
こうした激戦の最中にあっても、立花勢の活躍は一際諸将の目を引いた。立花勢は他の部隊が一発銃を撃つ間に三発発射したといわれる。射手が火薬を一発分つめた竹筒を縄で数珠つなぎにして、肩にかけていたのである。
十四日、城方に対する降伏勧告。十五日、城主京極高次は頭を丸め高野山へ向かった。
ところが大津城が陥落したその日、美濃・関ヶ原では宗茂が属する西軍が、徳川家康率いる東軍の前に、わずか半日の戦で惨敗していた。
宗茂はやむなく大坂城を目指す。大坂城は天下の要塞、ここを拠点として抵抗を継続することは十分可能なはずである。だが西軍統帥毛利輝元は煮え切らない。かっての豊臣五奉行の一人増田長盛に面会を申し込み籠城策を説くも、長盛もまた関ヶ原での敗報に、完全に腰砕け状態にあった。
その不甲斐ない有様に宗茂は切歯扼腕し、大坂城を退去し一路九州を目指すのである。
その頃九州でも合戦がおこなわれていた。黒田如水は蓄えた財をおしみなく使い、かき集めた軍兵が約三千五百。肥後の東軍方加藤清正とも連絡を密にし、天下を取るという野望を胸に一路豊後を目指した。
一方立石城を拠点とした大友吉統と大友家旧臣達は、大友家再興の手初めてとして国東半島奪回を目指し、日出の北にある木付城を目指した。この城は細川忠興が支配する城で、城代として松井康之等が籠もっていた。大友家再興の志に燃え、意気揚々と押し寄せた吉統等であったが、川を堀とする木付城攻略に手間取り数日を要することになる。
この間、細川方では黒田如水に救援を要請。九月十三日、ついに三千の黒田勢が、片側に別府湾が拡がる石垣原に、濛々と砂塵をあげながら姿を現わした。対する大友勢は八百でしかない。しかも万事ぬかりない黒田如水は、決戦を前に大友方に多数の間者を放ち、すでに手は打っていた。
十三日未明、大友方は石垣原の実相寺山に陣を敷き、黒田勢と決戦に及ぶことになる。兵の上では圧倒的劣勢は否めない大友方であったが川を手前に鶴翼の陣をしき、宗像掃部助鎮続や、かって加判衆として大友家の命運に大きく関わった田原紹忍等が力戦奮闘。数度にわたって黒田勢を押し返した。
ところがどうしたことが、片目を失ってまで大友家のためかけつけた吉弘統幸には、いつまでたっても吉統からの出陣の許可はおりなかった。
「恐れながら、それがしにも出陣のお許しを」
業を煮やした統幸は、吉統にじかに出陣の許可を求めた。その時、吉統から思いもよらぬ返答が返ってきた。
「統幸、そなたが多額の恩賞と引きかえに、黒田如水に寝返りを約束したというは真のことか?」
この言葉を聞くや統幸は、自らの不覚に言葉を失った。黒田如水は多数の間者を放ち、すでに、一時期黒田家の仕官だった統幸が寝返りの準備を進めているという、偽の情報を流していたのである。驚愕した統幸が弁明の言葉を発しようとしたとき、吉統の口からさらに思いもよらぬ言葉が発せられた。
「行くがよい。わしは止めぬ」
「なんと仰せられた?」
「良き馬は、良き馬主にめぐりあえてこそ、その力を存分に発揮するというもの。そなたほどの者、わしの元にあったとて宝のもちぐされでしかない。例えそなたが、わしの陣に攻めよせてこようと、それはわしの不徳のなせることとして受け止めよう。なれどそなたが片目を失ってまで、この吉統のためかけつけてくれたこと、わしは決して忘れん」
統幸はしばし目をうるませ、
「殿、もったいのうお言葉。それがし敵に寝返る腹など毛頭ござりませぬ。いつなんなりと大友家のため、命捨てる覚悟で片目を失ってもまかりこした次第。これにて御免!」
統幸は立ちあがり馬上の人となり、軍兵を率いて吉統の前から去った。吉統の心には、常に父宗麟の巨大な影があった。自らは決して父に劣らぬと自負する吉統は、同時にいかなる時でも、父ならどうするかと自問してもいた。これはその吉統が考えぬいた末に出した、最後の結論であった。
すでに大友方では力戦奮闘した宗像掃部も討ち死に、吉弘統幸は敗色が濃くなった戦場にあってもなお戦い続け、ついには敵の矢が左目だけでなく、右の目までも奪ってしまった。
戦場に斃れた統幸。だがその時であった。
『統幸、後は頼んだぞ』
何者の声なのかはわからない。だが次の瞬間声に導かれるように、統幸は立ち上がった。視力を失った統幸であったが、突如として心眼を見開き、戦場の光景をありありと見渡しす。大槍を振りかざし、自らの首をとろうとする敵の足軽・雑兵数名をうち倒し、次から次へと敵の武者が迫りくる中にあっても、統幸はなお怯まない。
「うぬ、両眼を失ってまだ戦い続けるとは、すさまじき男よ。吉弘統幸よ、わしの声がわかるか? そなたが黒田家にまだ仕えていた時、幾度か酒をくみかわした井上九朗右衛門じゃ。そなたの首、つつしんでわしがもらい受けることとする」
「おお九朗右衛門か! こちらこそ望むところ。一騎打ちを所望いたす」
九朗右衛門は刀をぬいた。馬の速度をあげると、
「覚悟!」
と刃を高々と振りおろした。それをすれすれのところで受け止めた統幸であったが、直後鈍い音とともに真剣が真っ二つに裂け、額から鮮血が勢いよく噴き出した。
「吉弘統幸、討ち取った!」
その大音声が戦場に響くや、大友吉統は思わず床机から立ち上がった。吉統も、取り巻く将兵等も、誰もがこの瞬間鎌倉以来の大友家の確実な終焉を予期した。吉弘統幸は享年三十八歳であった。
二日後、吉統はついに降伏した。この後大友吉統は、遠く出羽の国秋田氏のもとへ預けられ、秋田氏の常陸への転封に伴い、その身柄も同地へ移される。そして生涯二度と豊後の地を見ることはなかった。鎌倉以来の歴史を誇り、宗麟の代に一時九州六カ国という最大版図を形勢した大友家は、ここについに命脈を絶った。吉統が降伏した九月十五日は、くしくも関ヶ原の合戦当日で、大友家もまた、新たなる時代を迎えることなく、命運尽きたのである。
一方立花宗茂は、大坂から一路九州柳川を目指していた。だがその途上、思わぬ邂逅が待ち構えていた。