【関ヶ原編其の七】天下分け目の合戦(一)
関ヶ原は、北に伊吹山系が裾野を広げ、西に笹尾山と天満山、西南に松尾山、東南に南宮山が並び立って馬蹄形をなす東西約四キロ、南北およそ二キロの盆地である。
石田三成等西軍諸将は、この地に九月十五日午前五時、ほぼ布陣を完了した。主だった将の配置を見ると大将石田三成は笹尾山の山頂、戦場を一望のもとに見渡せる絶好の位置に布陣し、その数およそ六千ほど。間もなくこの場所は東軍の主力部隊が殺到し、関ヶ原の中でも最大の激戦地となる。
三成の盟友大谷吉継は藤川台に布陣し、その数およそ千五百。西軍中最大の一万七千の軍勢をほこる宇喜多秀家は、南天満山に五段構えの陣を敷く。小西行長は北天満山を背に約四千の軍勢をもって布陣し、その左手に島津隊が約千五百の軍勢をもって陣どった。そして東山道の南松尾山には、小早川秀秋の部隊一万五千ほど、その麓に脇坂安治・赤座直安等の諸隊約四千二百が布陣した。
一方の東軍は、九月十四日午前二時頃から福島正則・黒田長政の両主力部隊を先鋒とし、二列縦隊で進軍を開始した。九月十五日未明、福島隊は中山道と伊勢街道の交差点に到達し濃霧の中、前衛部隊が正体不明の小荷駄隊らしき一隊と遭遇する。
「止まれい! うぬらどこの部隊じゃ」
と叫ぶが早いが、福島隊の将は眼前に紺地に『児』の一字をまのあたりにする。まぎれもなくそれは、敵の宇喜多隊の旗印だった。
「すわ、敵ぞ!」
この非常事態に福島隊の前衛部隊は動揺し、その隙に宇喜多隊は霧の中へと消えた。濃霧が宇喜多勢に幸いしたのである。
この事件をきっかけに東軍は前進を中止、各隊がそれぞれの配置につく。徳川家康は桃配山に布陣し、その数約三万。ひるがえる旗は『厭離穢土欣求浄土』の八文字である。
その他の将は福島正則の兵六千が一番隊として宇喜多勢に備え、加藤嘉明・田中吉政等が続いた。二番隊の主力は細川忠興の兵五千で、西軍小西隊、島津隊の動きに備えた。他に遊撃隊として黒田長政隊五千四百がおり、機会を狙い石田三成本陣に突入しようと最右翼に陣取る。三番隊は徳川揮下の将で、生涯五十七度の合戦において、傷一つ負うことすらなかったといわれる本多忠勝の兵五百で、家康の桃配山の前面に布陣した。四番隊は池田輝政の兵約四千五百である。
東軍の総兵数は七万五千、対する西軍は八万四千、数の上で有利な西軍は鶴翼陣を敷き、さらに南宮山の吉川勢、松尾山の小早川勢とともに完璧なる東軍包囲網を形勢していた。陣形においても有利と見た石田三成は、自らの勝利に自信をもっていた。だが実は囲まれているのは敵ではなく、自らであることをまだ知らずにいる。
徳川家康にとっての不覚は、徳川本隊の主力徳川秀忠率いる部隊三万八千が、まだ到着していないことだった。
小高い山々が延々と軒を連ねる信濃。その中の小諸城に徳川勢の主力部隊の姿があった。この城の主は仙石秀久、かって豊後戸次川で島津家久の軍勢と一戦し、大敗北をさっした人物である。秀久は戸次川の敗戦の後、秀吉により高野山へ謹慎させられたが、家康のとりなしにより大名に帰りざいていた。
この城を拠点とした徳川勢は、上田城の真田昌幸とにらみ合っていた。真田昌幸は戦上手といえばこの上なく戦上手で、食えぬ者といえば、これほど食えぬ老人はいない。天正の頃、信州に乱入した徳川勢を散々に悩ましたこの人物は、この人物なりに、いかにしたら関ヶ原で西軍を勝たせられるか考えた。答えは簡単である。徳川勢を信濃に足止めし、決戦の地に赴かせねばよい。そのためまだ若い徳川の後継者たる徳川秀忠を、散々に挑発し、さんざんに合戦の場で翻弄した。徳川勢は、家康から付けられた軍監本多正信の言葉にも従わず、ただいたずらに時を浪費することとなった。
結局秀忠は関ヶ原の合戦には間に合わず、後日家康の勘気をこうむるはめとなる。家康にとって痛恨事といわねばならない。徳川勢は天下分け目の合戦に、主力軍を欠いたまま臨まなければならなかったのである。
一寸先の視界も定かならぬ霧の中、前線へ向けて移動する鎧・陣羽織・具足ことごとく朱一色の一隊があった。東軍の赤備えで有名な、井伊直政の一隊だった。この人物は家康四男松平忠吉の後見人で、天下分け目の合戦の火蓋を、家康の秘蔵っ子たる忠吉によって切らせようと、敵に対峙する最前線へ赴こうとしていた。
「止まれい、何者であるか?」
とこの一団を見とがめ声をかけたのは、福島正則の臣可児才蔵だった。
「こたびの一戦、先陣は福島正則がうけたまわった。何人たりとも抜け駆けは無用にござる」
「我は井伊直政じゃ、ここにおわすは松平下野公(忠吉)にあらせられるぞ。抜け駆けとは心外なり、下野公はこたび初陣なれば、戦が始まるを高みにて観望せんと移動中でござる。そこをのくがよい」
通す通さないの押し問答の末、根負けした才蔵は詮無く道を開け、直正と忠吉は霧の中、かすかに宇喜多秀家の大軍勢の威容がかすむ位置に到達した。
「今ぞ、放てい!」
直政の号令とともに、射撃隊が宇喜多隊に発砲。この射撃音に、床机に腰かけていた福島正則は立ち上がり、
「己、何奴の仕業じゃ!」
と顔を赤らめた。だが遅かった。この発砲を合図に宇喜多勢が眼前の福島隊に殺到する。
宇喜多勢の前衛部隊は敵の発砲に対し、ただちに銃撃をもって応戦し、続いて明石掃部助全登の一隊が槍衾をつくり突撃する。たちまちのうちに明神ノ森から天満山南麓の空間は人馬と硝煙の匂い、そして両軍兵士の悲鳴と絶叫で満ちることとなった。
明石全登は宇喜多家の軍師的存在で、豊臣秀吉もその才を認め、直参の大名並の扱いとして十万石を与えたほどの傑物である。他にも宇喜多家には戦上手の将が数多おり、勇猛並びなき者と称される福島正則をもってしても苦戦した。正則の銀の芭蕉葉の馬印は、一時は数百メートルにわたった後退したが、この時加藤嘉明隊三千と、筒井定次隊二千八百が横合いから宇喜多隊を側撃し、これを見て福島正則も反撃に転じた。
合戦の狼煙があがり東軍各隊が動く。だが西軍で動いたのは宇喜多隊と当の石田三成の本隊、それに大谷吉継隊、小西隊くらいのものだった。
島津義弘は動かない。この合戦に参加した大名の多くは、関ヶ原の合戦の長期化を予測していた。むろん義弘も合戦が長引くことを予想し、わずか千五百の部隊を無駄に損じるわけにはいかなかったのである。
小西行長はこの時何を思っていたのであろうか……。関ヶ原の合戦は、一面豊臣家家臣同士の内戦で、その上に巧妙に家康がのしかかったといえる。あの朝鮮の役が、豊臣家を疲弊させ、天下の人心が豊臣家から離反するきっかけとなった。
あの七年にも及ぶ凄惨極まりない無駄な戦を、ついに止めることができなかった己の無力さを、改めて思いしらされていただろう。そして奉行として朝鮮に渡った自分と石田三成の黒田長政等武断派諸侯との対立が、この合戦にまで響いていることを思えば、さぞかし無念であっただろう。
小西行長は決して合戦上手ではない。国許の肥後で一揆がおこった際も、これに散々に蹴散らされ、犬猿の仲の加藤清正の助けを借りて、ようやく鎮圧したほどである。
やはり小西行長は武士よりも商人であるべきであったろう。そして切支丹として生きるべき道を模索すべきであったかもしれない。それが武士として出世しすぎたことが、この人物の不運であった。間もなくやってくるであろう悲劇的結末を、果たしてこの人物がいかにして受けとめたか、それをものがたる資料はあまりに少ない。
西軍の中で最大の激闘を展開したのは、大谷吉継率いる一隊だった。かって秀吉をして、百万の軍勢の指揮を任せてみたいといわしめた大谷吉継は、その言葉通り十人担ぎの輿に乗り、視力がかなり弱いながらも、軍配一つで揮下の将を縦横無尽に動かした。対するは藤堂高虎の部隊二千五百、京極高知の部隊三千。大谷隊は約三分の一ほどの兵ながら一歩も退かない。
輿の上の吉継は、かたわらの火縄銃に着火し、敵の方角に向かって射程を合わせる。むろん視力が薄い上に霧の中である。簡単に敵に当たらないが、その戦闘意欲は揮下の将を刺激し、全軍が業病の主君を守る死兵と化した。
「強い、強すぎる。大谷吉継と申せば病のため立つことすらままならぬと聞く。かような者に率いられた兵が何故かように手強い」
黒漆塗唐冠形兜をした藤堂高虎は半ば戦慄し、恐れををいだかずにはいられなかった。
東軍諸隊の最大の標的となったのは、むろん笹尾山の石田三成の本陣だった。黒田長政・細川忠興・加藤嘉明等武断派の諸侯は、三成に対する個人的憎悪から笹尾山に殺到する。特にこの日、黒漆塗南蛮鉢歯朶前立兜を着用した黒田長政などは、三成の肉を食らうとまでいい、家中から屈強の者を選抜し、特別の遊撃隊まで組織していた。
だが三成にとどく前に、島左近率いる部隊がこれら武断派諸侯の前に立ちはだかった。山上で待ち構えていた島左近は、
「放てい!」
と鉄砲隊に向かい大音声をあげ、敵の前衛部隊が崩れると、
「かかれい!」
と続けざま槍隊に向かい声をあげた。その突撃はすさまじく、黒田隊・細川隊はたちまちのうちに崩れ、背後から迫った加藤嘉明隊は、山を降りようとする東軍将兵をさえぎり、混乱を助長するだけの役割を果たすことになった。
はるかな後年、この関ヶ原の合戦を経験した黒田家の主だった将達は往時を振り返り、
『あのおりの左近の戦場での号令は、後々まで悪夢となって耳元に残った』
といわしめるほど、東軍の各部隊は混乱を極めた。この合戦に臨んだ島左近の衣装については、真っ黒な具足で指物はなく、陣羽織は柿色であったという者もいれば、鼠色であったという者もおり定かではない。
だがその島左近にも最期の時が来た。
黒田家中に管六之助という者がいる。同じ黒田家中においては、後藤又兵衛等と比肩できるほど勇猛であったが、人柄が地味であるうえ容貌が優れず、そのためさほど重要視されていなかった。島左近に手を焼いた黒田長政は、この管六之助に特別の銃撃隊を組織させ、山間を迂回させ、奮戦する島隊を側面から狙撃させた。突然出現した伏兵に島隊は動揺した。
「怯むな! 体制を立て直せ」
左近は再び大音声をあげたが、その時銃弾数発が見事貫通した。だがその闘争心は左近の魂をして冥途には赴かせず、なお戦場にとどまらせた。瞬時眼前の視界が暗くなるも、突如として、
「家康、討ち取ったり!」
と最後の叫びをあげさせた。
「左近! しっかりせえ!」
戸板に乗せられ運ばれてきた左近に、紅糸伊予札素懸威の二枚胴具足の三成は必死に声をかける。意識混濁状態の島左近はかすかに薄目を開き、
「殿、さらばにござる。最期は殿自らの手で、それがしにとどめを……」
とかろうじて口をきいた。
「あいわかった、今楽にしてしんぜる」
三成は刀をぬき、左近の喉元に振りおろした。島左近はこの時六十一歳であったといわれる。
「己、許せぬ!」
三成は敵の方角に向かって歯ぎしりした。
島隊の壊滅により、三成の本陣に巨大な空白が生じた。これを好機に東軍の各隊が殺到することになる。だが石田三成配下には、なお蒲生郷舎という、当代きっての名うての戦上手がいた。三成は豊家家中においては実に評判が悪かったが、自らの家臣に対しては心配りがいきとどき、それ故この合戦でも、多くの将が三成のため、命を捨てても尽くそうとする思いがあった。
三成の陣に殺到した主な将の名をあげると、黒田長政・細川忠興の両名はむろんのこと、竹中重門・加藤嘉明・田中吉政・戸川達安、さらには小部隊ながら佐久間安政・織田有楽斎・稲葉貞通などもいた。そのいずれもが、三成の首をあげ、子々孫々までの栄誉を得ようと躍起であった。だがあまりに多くの人馬が殺到したため、東軍の諸隊に混乱が生じた、三成はそれをむしろ好機とみた。
「大筒を放てい!」
石田三成の秘蔵していた五門の大筒が一斉に咆哮をあげる。砲身の長さ約一メートル、射程距離およそ二キロ、兵器としての殺傷力はさほどでもないが、着弾地点での敵に与える恐怖は尋常一様ではなく、笹尾山周辺に押し合い、へし合いしていた東軍各隊は、大軍であるが故統制のとれない混乱に陥った。これを機に石田隊は反撃に転じ、一時は敵陣の懐深く百メートル余りも潜入するほどの攻勢をしめした。
島津隊はなお動かない。隣の陣の小西隊は、織田隊、古田隊などに苦戦し、逃走兵がときおり島津の陣にかけこんでくる。それらに対してさえ、島津兵は銃撃をもって答えた。わずか千五百の部隊の統制を崩さぬためである。島津隊が動かず、そして不気味な緊張と殺気をもって小池村にあった。その中央に島津義弘の姿があった。義弘は島津家の名誉のため、千載一遇の時を待っていたのである。
桃配山の家康はいらだっていた。物見がもたらす戦況は、自軍の劣勢を伝えるものばかりである。眼前の霧のため戦況を把握できないことも、家康のいらだちに拍車をかけた。午前十時過ぎ、業を煮やしたかのように家康は、本陣を桃配山から数百メートルほど前線に近い、現在陣場野といわれる地点に移した。これは自らの目で戦況を把握すると同時に、最前線で戦う東軍諸将に緊張を与えるための措置であった。
一方三成の誤算は、南宮山の吉川勢が幾度合図の狼煙をあげても、動かないことだった。家康・三成両者の目は共に松尾山に向けられていた。松尾山の小早川秀秋の兵一万五千は、いまだ動こうとしない。