【関ヶ原編其の六】関ヶ原・決戦前夜
家康の江戸出向の時は近づいていた。
「奥州は、まこと大丈夫でござりましょうや?」
と不安を口にしたのは、家康の懐刀本多正信だった。この人物はすでに梅毒に感染し、顔の形が崩れかけている。その有様は、長年苦楽を共にしてきた家康とて、決してこころよいものではない。コロンブスが南米から欧州に持ち帰った梅毒菌は、この時代すでに地球を周航し、日本にまで到達していた。当時多くの大名が、娼婦などを通じて梅毒に感染していたといわれる。その点家康は、自らの健康管理には絶対の注意を払い、娼婦を近づけぬばかりか、自ら薬を調合するほど薬学に対する知識も深かった。また食事なども位人臣を極めた後も、決して贅沢には走らなかったといわれる。
「案ずるには及ばん」
と、家康はかすかに余裕をたたえた様子でいった。
家康にとって最大の懸念は、むろん会津の上杉景勝の動向である。上杉が家康の留守中の関東を突けば、東西から挟撃され徳川といえど命運尽きることもありうる。だが上杉の背後には、千台(後の仙台)を中心に領土をもつ伊達政宗がいる。その政宗に家康は、現在の上杉領会津等、戦後百万石近い加増の約束をもって、上杉の背後を牽制させている。
伊達政宗は食わせ者という意味においては、数ある戦国大名の中でも、類稀な存在であったかもしれない。あれいは家康の留守中、なんらかの変心をおこすこともありえぬことではない。しかし……と家康はいうのである。
「わしはかって奥州を出自とする者と、膝を交えて話合ったことがあるが、奥州者と申すは、土地に対し強い執着をもつこと並大抵のものではない。もし政宗に密かに口にするがごとく天下への野心があれば、上杉と和睦し関東になだれこんでくるだろう。じゃが今の政宗を見よ」
政宗はまだ家康が小山にいるころ、すでに独断をもって上杉の白石城を奪還していた。これに対し家康は、政宗の暴走を戒める使者を派遣してはいるが、同時に家康は、そこに政宗の限界を見てもいた。ようは密かに天下人たらんとする野心さえありながら、今遠く美濃の地にいる石田三成が、密かに家康打倒のためにたてた大戦略のような策を練ることが、政宗には不可能なのである。政宗だけでなく会津の上杉景勝にも、関東平野になだれこむほどの作戦意図はないものと家康は見ていた。
政宗は家康が遠く美濃に出兵している間に、南部領でおきた一揆に加担するなどして、領土拡大の貪欲な意図も見せている。だが南部氏は東軍方である。その動きも家康に筒抜けになっており、それをたてにして家康は、戦後百万石を約束を反古にしている。
政宗は後に千台の地において、北上川沿岸の治水に力をそそぎ、荒地が広がっていた千台をして日本一の米所へと変貌させた。徳川時代、江戸に流通する米の三分の二は千台産のもので、いわば千台は江戸という、世界一の人口をようした都市の補給を司る、生命線としての役割のみ果たすのである。
さて、美濃・大垣の東軍は、大垣城での軍議でもめにもめていた。
「馬鹿な! 御主は間違っておる!」
声を荒げたのは、一万七千という西軍中最大規模の軍勢をもって、伊勢路より急遽引き返してきた宇喜多秀家だった。秀家は大垣の西北一里の赤坂という、小高い丘陵に陣取った東軍を、夜襲をもって一気に粉砕するという策を三成に進言したが、三成はにべもなくこれを却下した。
「敵はここ数日の間の強行軍で疲労しきっておる。これを奇襲すれば勝利はいとたやすいこと。御主なにを迷っておる!」
「秀家殿、今すこし待たれよ。我等はまだ数が揃っておらん。時を待てば北陸の大谷隊、伊勢路からは吉川広家殿の部隊、さらには長宗我部殿、長束殿の部隊もかけつける。大坂にいる毛利殿もおいおいはせ参じるというもの。敵方に内府がまだ着陣してもおらんのに、無駄に兵を損じる必要はござらぬ」
「逆であろう! 内府が到着してからでは遅いのだ。それが何故わからん!」
「こたびの戦ただの戦ではござらん。内府の首をあげねば意味がないのでござる。無用の戦は控えるべきでござる」
秀家は言葉を失い、憤然として席を立ってしまった。
「おいも今が好機と思いもうす。せめて我が一手のみをもってしても、敵の陣に奇襲をしかけることお許し願いもうはんか?」
と進言したのは島津義弘だった。
「無用なことじゃ、こなたの一千の軍勢のみで、戦況がどうこうなるものではない」
「奇襲に数は関係なか! 敵陣の混乱を誘えば我等の思う壺でごわす」
「そなたは、この合戦を九州の田舎での小戦と勘違いしてはおらぬか? 今は天下を争う大戦の前でござるぞ。まずはそれがしの命に従ってもらわねば困るというもの」
『小戦も大戦もなか。合戦というものは一度戦機を失えば、そいを取り戻すは容易なことでんなか! そいがわからんか、こん愚かもんが!』
義弘は思わず叫びたい衝動にかられて、かろうじて言葉を飲みこんだ。先日も三成と一悶着あったばかりで、ここでさらに自らの立場を弱めたくはなかった。
義弘は三成に対する失望を強めた。その義弘をさらに驚愕させる事件が、数日しておきた。
「今戻り申した」
とちょうど朝餉の最中にある義弘と豊久の前に姿を現わしたのは、長寿院盛淳だった。
「おうどげんじゃ、敵にないごてか動きでんあったか?」
義弘が飯を噛みながらいった。
「敵は動いておりもうさん。ただ諜者が奇妙な武者を見たとかで……。なんでもその武者は供の者二人ほどを従えて、龍ノ口門から西に向かったということでござる」
「そん者はまた、どげな身なりをしとったでごわすか?」
豊久が言葉を挟んだ。
「粗末な小袖に伊賀袴だったとか、治部少輔殿の手形を持ち、騎乗していた馬は黒鹿毛の逸物であったとのこと」
「なんとそいは三成の馬じゃ! 間違いなか!」
義弘はあまりのことに、箸を落とし絶句した。
三成は前日、中山道垂井から関ヶ原の方角に火の手があがるのを見て、自らの居城佐和山がもしや危ういのではと、あらぬことを想像し、自ら二人の供とともに大垣を出立していた。
「大将がみだりに城を動くものではござらん。もしどうしても佐和山のことが気がかりなら、それがしが参りもうす」
謀臣島左近は当然のように三成を制止したが、三成は聞かなかった。
「そげなこと信じられもうはん。これから天下を争う戦が始まるというのに、大将がまるで一騎武者のように……。どげんしたらよかと!」
豊久はしばし茫然自失の体となった。
「躊躇している余裕はなか、盛淳おまんは兵五十ほどでよか、ただちに治部少輔殿の後を追うのじゃ。もし治部少輔殿が敵に捕らわれでもしたら、そいこそ天下の一大事」
盛淳はただちに出立し、数日して三成は何事もなかったかのように大垣に帰陣した。だが義弘は困惑は並大抵のものではなかった。もし敵の将家康なら、兄龍伯なら、果たして戦の最中無断で陣をぬけだすであろうか。そもそも何故かような将が、天下を争う土俵に立つことになったのか。義弘はこの合戦の意味を考えずにはいられなかった。
間もなく、西軍の部隊が大垣に集結し始めた。九月二日には北陸にあった大谷吉継の部隊が、関ヶ原西南の山中村に着陣。他の部隊も少しずつ参集を開始する。決戦の気運が高まる中、三成を少なからず困惑させたのは、吉川広家・毛利秀元・安国寺恵瓊等毛利勢と、土佐の長宗我部盛親等の動向だった。
吉川広家は、敵が陣どる赤坂の西に巨大な山頂をいただく南宮山に、約二万の軍勢を置いたのである。さらに吉川勢に見下される形で、山の中腹に安国寺恵瓊・長宗我部盛親それに長束正家等が布陣した。だが南宮山は標高四一九メートルはあり、そのような場所に布陣してはいざ決戦という時に間に合わない。
「あれいは吉川殿は東軍に内通しておるやもしれませぬなあ」
と島左近が疑念をていした。事実であった。吉川広家は徳川に弓引くことを毛利家の破滅と考え、密かに家康と通じていたのである。
「なるほど、いざ決戦というおりには日和見を決めこみ、しかも安国寺、長束等の部隊に睨みをきかせるという腹か」
三成は言葉を失った。その後三成は使者を送って、再三山を降りるよう吉川広家を説得したが、吉川勢はついに決戦に及ぶことなく、終戦を迎えるのである。
やがて九月十四日、西軍の陣営に衝撃が走った。
『内府が着陣したぞ!』
『徳川の旗が赤坂に翻ったぞ!』
ただちに伝令が西軍の各隊のもとへ走る。赤坂の岡山の頂に出現したのは金扇の大馬印、小馬印の葵紋の幟七旒、総白幟二十旒だった。まぎれもなくそれは、家康の着陣をものがたる意外何者でもなかった。西軍各隊の動揺は並大抵のものではない。家康自ら参陣したとなると、西軍の数的優位が覆されるだけではない。かって小牧・長久手の合戦のおり、秀吉の軍勢を前にしてもひるむことがなかった徳川軍団の精強さは、西軍の各将とて知らぬ者はいない。まして自軍の将石田三成とは、実戦における戦歴・石高などあらゆる面で比較にならない。
家康着陣の知らせに最も驚愕したのは、当の石田三成だった。
「馬鹿な! 内府は上杉勢が関東に釘付けにしているはず。誤報であろう」
だがそれは誤報などではない。現に石田隊、小西隊、さらには宇喜多隊も斥候を出したが、いずれも家康の着陣をまぎれもないこととしたのである。
この時島左近は城外池尻口まで偵察のため馬を進めたが、帰路、西軍各陣地の動揺の大きさに、自らも少なからず不安を覚えた。
「このままでは、勝てる戦も勝てませぬ」
とかって近江に隠遁のおり、主君の二分の一の二万石という破格の待遇をもって召しかかえられた島左近はいうのである。
「拙者に策がござるお任せあれ」
と青白い顔をさらに引きつらせた主君に、左近は胸をはって答えた。
左近は兵五百とともに杭瀬川近くまで押し寄せた。途中宇喜多勢の明石掃部助・長船吉兵衛等が合流し合わせて千三百ほど。川を渡るとそこはすでに敵の勢力圏といっていいが、左近がおこなったことは、足軽に鎌をもたせて、周辺に実っている稲を刈らせることだった。この光景を目撃した東軍の中村氏の一隊は、ただちに鉄砲を撃ちかけてきた。中村氏は駿府十二万石の大名で、豊臣家三中老の一人だった先代の中村一氏はすでにない。後を継いだ十一歳の中村一忠を、老臣等が補佐している。
「ほう、小競り合いか」
ちょうど食事中だった家康は、大局とは関係ないこの小戦を、しばし面白い芝居でも見るように楽しんだ。
中村隊の銃撃に対し、島左近の部隊も銃撃で返し戦が始まった。しばし手合わせした後島隊は退却を始める。
「見よ! わが味方の頼もしいことを」
家康はしばし箸を止め叫んだが、島隊が川の手前まで退き、中村隊がこれを深追いするに及んで顔色を変えた。
「いかん! 戻れ罠じゃ!」
果たして家康の予測は正しかった。島隊は川向こうに伏兵を潜ませており、中村隊が半分ほど渡り終えたところで猛攻をしかけた。これを見た有馬豊氏の部隊が救出のため兵を出すも、西軍の明石掃部助率いる一隊がこれを遮った。
島左近の用兵は巧みである。中村隊に痛撃を与えては退き、退いては伏兵をもって敵を痛撃する。夕闇が迫る頃中村隊は、兵を率いていた野一色頼母も討ち死にし、ほぼ壊滅状態となった。家康は敗軍の収容を本多忠勝に命じ、左近もまた杭瀬川の線で全軍に撤兵を命じた。この小競り合いでの西軍の戦果は、兜首九十二、平首一五四という、前哨戦にしては申し分ないものだった。三成もまた、かすかだが自信を取り戻した。
この日九月十四日夜半、西軍の陣地に家康等東軍が、佐和山をぬき一路大坂城を目指すという情報が漏れた。実はこの情報は、野戦指揮官として絶対的な自信をもつ家康が、西軍を関ヶ原に引きずりだすため、間諜を使って意図的に漏らした情報であったが、三成はまんまと家康の作戦意図に乗せられた。
闇の中、西軍は馬の口に枚をかませ、蹄には藁束を巻き、松明も用いず静かに、ゆっくりと大垣城を後にした。第一隊は石田三成の部隊、第二隊は島津義弘、第三隊は小西行長の順である。
一方家康もまた、自ら仕掛けた策が図に当たったことに狂喜しながら、ただちに東軍各隊に動員令を発した。
九月十五日未明、決戦場となる関ヶ原の地は濃い霧に包まれていた。