【関ヶ原編其の五】関ヶ原 尾張・美濃戦線
伏見城攻略がなった後、西軍の毛利秀元等は三万の軍勢をもって伊勢に侵攻する。標的となったのは安濃津城(三重県津市)だった。安濃津周辺は当時坊津・博多津と並んで『日本三津』の一つに数えられる良港で、西軍としてはなんとしても安濃津を抑えておきたかった。
安濃津城主富田信高は東軍方だが、わずか五万石にすぎず、到底西軍の大軍に抗することはできない。周辺の領主に呼びかけて援軍を求めるも、それでも千七百しか兵が集まらなかった。
八月二十四日、西軍の総攻撃開始。寡兵であるうえに、富田信高を悩ましたものは陸の軍勢ばかりではなかった。かって信長に従い、船体がことごとく鉄でできた船を水に浮かべ、毛利・村上水軍を激破するという、戦史上特筆に値する勝ち戦をあげた九鬼嘉隆が、伊勢湾一帯を荒らし回ったのである。結局城は一日しかもたなかった。この合戦の最中、緋威の具足に中二段黒革威に半月を打った兜の緒を締め、片鎌の手槍を引っ提げた、一人の美麗な武者が活躍した。なにを隠そうこの武者こそ、富田信高の奥方であった。
富田信高は戦後、剃髪して高野山に入るが、慶長十二年になって伊予・宇和島十二万石を与えられている。
西軍は東西両軍の決戦の地となる美濃へと進出した。美濃の国は日本のほぼ中央を占め、常に東西の勢力が激突する要衝の地である。大垣城を本拠とした石田三成は、ただちに岐阜城攻略を目指した。岐阜城は標高三二九メートルという絶景の地にある。天守からは、長良川が貫流する様を眺めることができ、東に恵那山・木曾御岳山、北には乗鞍・日本アルプス、また西に伊吹・養老・鈴鹿の山系が連なる。南には濃尾平野が豊かに開け、木曾の流れが悠然と伊勢湾に注ぐさまを一望することもできる。
かって戦国も盛りの頃、一介の油売りにすぎなかった斎藤道三が、主家乗っ取りを繰り返し、ついに美濃一国の主となり岐阜城を本拠とさだめた。さらに織田信長が美濃を制圧し、同様に拠点とさだめる。『美濃を制する者が天下を制する』と、いつの頃からかいわれるようになった。信長が岐阜城天守から、壮大な自然のパノラマを一望のもとに見渡し、天下取りのための遠大の計を練ったであろうことは想像に難くない。今この岐阜城を治める者は、信長の嫡孫織田秀信二十一歳だった。
織田秀信の心は揺れていた。東西いずれにつくべきか、
「恐れながら、東軍の勝利は疑いござらん、織田家の行く末を思えば、なんとしてもこたび内府にご加担あれ」
と東軍必勝を説くのは、故秀吉の命により、まだ三法師といわれていた幼子だった時分の秀信の守り役となった家老木造具正だった。さらに同じく筆頭家老といってよい百々綱家が具正に同意する。
「なれど、故太閤は恩人じゃ、豊臣の天下を奪わんとする家康を討つが、筋ではないのか?」
若い秀信は、いずれに付けば利があるかという打算より、正義の感情で西軍加担に傾こうとした。
「これは異なことを、殿は人がよすぎまする。太閤は恩人どころか、織田家の天下を奪った奸人でござる。秀吉さえおらなければ、殿は美濃どころか、今頃天下の主として君臨していたはず」
秀吉が山崎の合戦の後の清洲会議で、突如として信長の嫡孫にあたるこの人物を担ぎ、自ら後見役を名乗り、後に織田家の天下を簒奪したことは、まぎれもない事実である。むろん秀吉には後ろめたさがあり、三法師が織田秀信になるまで実によく尽くした。そのため秀信には秀吉という人物の実像が、しかと把握できていないのである。
主が優柔不断であるため、両家老は西軍の実情を探るべく、豊臣五奉行の一人前田玄以をはるばる京へ訪ねた。前田玄以は石田三成とともに、豊臣家の行政機構を司る最高執行者として、表向きは西軍である。だがその実、すでに家康に内通している。両者が訪ねてくると本音を漏らし、必ず東軍に味方するよう助言した。両者は安堵した。前田玄以は、かって本能寺の変のおり、炎上する二条城から主君を救出した恩人でもある。主もまた玄以の言なら納得するはずである。
ところが両者がはるばる京へ赴いている間に、予想外に事態は進行していた。石田三成は巧みに秀信を大垣城に招きよせ、美濃・尾張二カ国の恩賞を約束したうえで、『狂言袴』と銘うたれた名器までも献上し、西軍加担を心に決めさせていたのである。
さて東軍は、小山評定の後豊臣恩顧の諸将の多くが家康加担を約束し、軍を返して尾張・清洲城に集っていた。だが西軍が伏見城を陥落させ、伊勢、そして美濃に進出しようとしているにも関わらず、いっこうに動きらしい動きを見せなかった。当の家康が関東から腰を上げようとしないためである。
「内府は我等を劫の立替になさる腹か!」
と家康からつかわされた二人の軍監、井伊直政・本多忠勝の方角に向かって声を荒げたのは福島正則だった。囲碁の用語で、わざと石を捨てて敵に取らせることを『劫の立替』という。
福島正則は実に気短かな男で、二人の軍監も、決して気分を損ねないようにと家康から厳命されていた。正則は三成憎しの感情のみで東軍の一翼を担っているが、豊臣恩顧の諸将の中でも、最も重要な立ち位置を占めるこの人物が、突如、変心して西軍に味方しようものなら、形勢はがらりと変わる。両者も気が気でない。
「殿の言伝をもった使者が、ただ今到着した。殿の意向はその者にたずねよ」
井伊直政がかすかに動揺の色を見せながらいうと、村越茂助という名の五十年配の色の浅黒い男が、家康の意向を伝えるため姿を現わした。この人物はごくごく小身な旗本で、愚直なだけが取り柄な、才覚をめぐらすことに関しておよそ縁がないという点では、福島正則以上といってよい。茂助は語り始めた。
家康は小山評定の後も、豊臣恩顧の諸将に対する疑念を、完全に払拭したわけではなかった。自らが美濃・尾張戦線に乗りこむと同時に、寝返り者により寝首を取られるのではないか。真に自らに味方する意志があるなら、敵陣を前に空しく時を過ごなどありえないはずである。一戦して敵を蹴散らすの報をうけたうえで、自らは動く。
茂助は額に脂汗をうかべ、言葉をつまらせながら、江戸城で何度も繰り返し復唱させられた家康の口上を申し終えた。座はしばし白けた。
「つまり内府は、我等をまったく信じておらぬということでよろしいか?」
言葉を発したのは黒田長政だった。二人の軍監はしばし茫然自失の体となった。殿は事を誤ったと、ほぼ同時に思った。ところがである。この時予想外の事態がおこった。席を立ったのは福島正則だった。
「内府の申し分、一々最もである。我等ここで敵を前にして空しく時を過ごすは、内府にたいしたてまつり、実に不忠であったわい」
と茂助の顔を扇子であおぎながらいうと、諸将は胸の内はともかく、決戦に赴く他ない空気となった。むろん正則は、自らが家康の掌の上で狂言を舞っていることに、気付いていない。
当の徳川勢は関東を動こうとしない。この間家康は、諸国の大名・武士に対し大量に書状をしたため、その数は確認されているだけでも一五五通にも及んでいる。味方はむろんのこと、敵に対してもである。ここで興味深いのは、中国の毛利勢の動向である。
毛利家では鷹揚なだけで覇気に欠ける毛利輝元を支えてきた吉川元春・小早川隆景という、二人の大叔父がすでに世になく、吉川家は三男の広家が継ぎ、小早川家は豊臣家の一族だった金吾中納言こと小早川秀秋が後継となっていた。
毛利輝元を西軍の総大将とすべく暗躍したのは、長年毛利家において主に外交面で辣腕をふるってきた禅僧安国寺恵瓊だった。これに対し吉川広家が猛反発した。広家は密かに家康と交渉を始め、ついには毛利家の全領国安堵と引き換えに、毛利家不戦の約定までかわしてしまうのである。
だが家康は毛利家との約定を守る気は、当初からなかったであろう。一つには山陰・山陽に及ぶ広大な領土を奪わないかぎり、東軍に味方した諸将に与える褒美の土地がない。今一つの理由は、家康が石見の銀山を欲していたからでもある。
毛利家を支えてきたもの、それは一にも二にも石見の銀山だった。かって輝元の祖父毛利元就は、出雲の尼子家と長年にわたって死闘を繰り返した後、ついにこれを滅ぼし、石見の銀山を手にいれた。職人一万五千人を投入し、一日三十センチずつ手彫りで堀り進めた結果、坑道は数百キロにも及び、年間三十八トンもの銀を産出することとなった。これは当時の世界の銀の産出量の三分の一にも及ぶという膨大な量である。家康は、金銀通貨の整備が天下取りに必要と考えていた。しかし銀山が手許になかったので、石見銀山を欲していたのである。
結局毛利家は西軍統帥の地位にありながら、一発の弾も撃つことなく関ヶ原を終えることとなる。家康はあっさりと約定を反古にした。慶長五年九月、輝元は徳川家に石見銀山の所有権を明け渡すこととなる。防長二カ国のみの所有を許された毛利家が、ようやく徳川家に牙をむくのは、三百年後の世のことである。
家康はなかなか江戸を動こうとしない。その頃美濃では、東軍諸将による岐阜城攻略がすでに始まっていた。
年若の主が西軍加担を主張して頑として譲らないため、木造具正、百々綱家の両家老始め織田家中の主だった者達も、ようやく決戦を覚悟した。決戦といっても、岐阜城の兵を全て集めてみても六千五百にしかならない。押し寄せる東軍は四万にも及び、福島正則以下主だった将だけでも二十人はいる。この場合当然籠城すべきであろう。両家老も当たり前のように主に籠城をすすめた。だが若い主は、籠城策をもあっさり却下してしまう。
『籠城策などという消極策は織田の士風にあわぬ。我が祖父も一歩でも二歩でも城の外に出て戦ったではないか』
というのが、年若い主の主張だった。
詮無く百々綱家は、岐阜城へ至る木曾川の河田の渡しの前で、押し寄せる東軍の大軍勢を待ち受けることにした。作戦計画としては、川から三丁ばかり内側に防材を組んで、敵の人馬を阻む。その防材の内側に四百丁の鉄砲を配置する。さらに防材の外、つまり川岸にも六百丁の鉄砲を置き、敵が川を渡ってきた時に一斉に射撃する。そして防材の内側に退き、今度は前方の四百丁の鉄砲部隊が代わって射撃。敵が動揺したところを、騎馬隊、槍隊をもって迎撃するというものであった。
東軍は二手に分かれて行軍を開始していた。清洲城から岐阜城へ向かうには二つの道がある。一つは木曾川上流の河田の渡しを通過する道、いま一つは下流の尾越の渡しを通過する道である。どちらかというと河田の渡しを通過する道のほうが、岐阜城へは近道ではあるが、いずれの道を選ぶかをめぐって、先鋒と決まった池田輝政、福島正則の両将の間に激しい争いがあった。両者は互いの胸ぐらをつかみあうまでになったが、家康の軍監井伊直政が仲介に入り、かろうじて福島正則は上流の道を池田輝政に譲った。
その池田輝政は八月二十一日の夜間清洲城を出て、総軍勢一万八千をもって岐阜城を目指した。従う将は浅野幸長・山内一豊・京極高知等であった。やがて夜が明ける頃、河田の渡しへと到達し百々綱家の軍勢と相対するも、三時間ほどの小戦で難なく木曾川を突破した。いかに策を巡らそうとも織田方の士気は低く、兵力の差はいかんともしがたかったのである。
一方福島正則である。池田輝政同様八月二十一の夜間清洲城を出て、尾越の渡しに到達したのが欲未明。率いる兵は一万六千、主な将は細川忠興・黒田長政・藤堂高虎等である。
勇猛なだけを頼みとする福島正則は、この日も軍勢の先頭に立ち、わずかな兵で渡河点に待ち構える織田勢に戦いを挑む。やがて木曾川に到達した時である。不意に正則は馬足を止め、川向こうの武者に瞬時目を奪われた。それは敵の大将織田秀信だった。
織田秀信は赤地に金色の定紋をうった幟十本、青貝柄の長槍数十本を背後におしたて、通常より多少は大柄であろう馬にまたがり、敵陣を凝視していた。鎧・冑は万事派手好きなこの若者が、選りぬいた華美なもので、東軍の斥候をして、古今東西見たこともないほど美麗なる大将といわしめるほど、その装飾は見事であった。
その姿をあおぎみた福島正則は、しばし信長が黄泉路からよみがえったと錯覚した。むろんこの若者に、信長のように大軍を指揮する能力などない。しばし手合わせした後、秀信は城の方角に向かって撤兵した。東軍はここでも難なく木曾川を突破したのである。
やがて岐阜城の支城にあたる竹ヶ鼻砦をも、調略をもって陥落せしめた正則の耳に入ったのは、池田輝政の上流部隊が米野村の敵陣地をも破って、岐阜城へ向かって進軍中という報だった。敵の首級二百をあげ、すでに家康に戦勝報告の使者まで送っているという。正則はたまたま手にしていた矢を口にくわえ、それを血が出るまで噛んだ。事前の協議では、上流の部隊と下流の部隊とが合流した後、決戦に及ぶという約束になっていた。
「己、三左衛門(池田輝政のこと)め! 敵より先に叩き斬ってくれる!」
激昂した正則を細川忠興が引き止めようとしたが、正則はその忠興とも争い、他の将も割って入って、ようやく正則をなだめた。
正則は先を越されたくない一心から、夜間強行軍をして岐阜城を目指す。やがて夜が明けようとする頃、靫屋町の総木戸口に到達し、視界の彼方に池田勢の『白黒段々』の旗印を見た。本格的な城攻めを前に一計を案じた正則は、近くの民家に火矢を放った。火はおりからの強風にあおられ、池田隊の方角に向かって襲いかかった。池田隊はそれ以上軍馬を進めることができず、いちじるしく混乱する。
「見よ、三左衛門めがいい気味よ」
正則は城攻め前の余興を終えると刀をぬきはなち、しばし城の方角を凝視し、やがて全軍に突撃の命令をくだした。山頂への登り口は三つあった。七曲口、百曲口、水ノ手口である。正則は七曲口から攻め、ようやく態勢をたてなおした池田輝政は水ノ手口から城を目指す。だが圧倒的多勢とはいえ、なにしろ岐阜城は斎藤道三・そして織田信長によって改修がほどこされた天下の名城である。さしも勇猛をもって知られる福島正則をもってしても、苦戦を強いられた。
正則は敵にひるみ逃げ戻る兵士を見つけ、その者を自らの槍で一撃のもとにしとめ、全軍の士気を鼓舞した。城方では木造具正等が力戦奮闘するも、八月二十三日に至って、ついに城の命運尽きる時がきた。派手好きなだけの信長の嫡孫にできることといえば、家臣等の今後のため感状を書くことくらいであった。
岐阜城の陥落により、西軍は戦略上、最も重要な拠点を失ったのだった。
三成は大垣城にほど近い、尾張清洲から美濃大垣への通過点にあたる沢渡村にいた。三成の手許にいる西軍諸将といえば小西行長・島津義弘だけである。毛利輝元は大坂から動く気配がない。盟友の大谷吉継は北陸での作戦に赴いていた。西軍諸将の中で最大規模をほこる一万七千の宇喜多秀家の部隊もまた、伊勢路での作戦のため手許にはいない。
「恐れながら、いささか兵を分散させすぎるのではござらぬか?」
と三成の作戦に疑念をいだいたのは、その腹心として世によく知られた島左近だった。だが三成には、家康は奥州の動向が気がかりであるため早々に江戸を動けないという、不動の信念のようなものがあった。家康が動かぬ以上、東軍諸将もまた動かぬはずである。ところが敵は動いた。この報がもたらされると同時に、三成の頭脳の中にある必勝の戦略は、音を立てて崩れはじめた。
かって三成は、亡き秀吉に従い小田原攻めに従軍し、武州・忍城攻めを任されたことがある。その際三成は秀吉の高松城攻めにならい、自らも堤防を築いて、忍城を水攻めにしようともくろんだ。だが工事の杜撰さから、大雨で水かさが増すと同時に、水は三成の陣に逆流してしまった。後日にこの失敗について、三成は秀吉にあれこれと言い訳を繰り返し、ついには秀吉に、
「佐吉(三成のこと)よ、愚痴があれば敵方にいうがよいぞ、この城は落城して当然、落ちぬはその方どもの落ち度であるとな」
と、痛烈な皮肉を浴びせられたといわれる。
とにかく三成にしてみれば、戦場の全てが、己が当初絵に描いたように進行しなければおかしいのである。だが三成の予想に反し敵は動いた。岐阜城を落とし、こちらに向かっているという。
『ただちに大垣城に戻らねば』
三成の頭にとっさひらめいたのは、まずそれである。
「三成殿どちらへいかれるおつもりか?」
馬の手綱を引く三成に、義弘が声をかけた。
「とにかく、ここにいても埒があかん。ひとまず大垣城に戻り、宇喜多秀家殿に急使を出し宇喜多勢が戻るのを待つ」
「馬鹿な!」
と義弘は呆れた。島津勢は数日前、三成の命により墨俣の渡河点の守りを任されたばかりである。墨俣には島津豊久がいる。三成が退けば、島津豊久は敵の中に孤立してしまう。
「我が島津隊を敵の中に捨てて、一人逃げるとは卑怯ではごわはんか!」
義弘は口調は穏やかだが、言葉の奥底に深い憤怒が沈んでいた。三成という計数家にしてみれば、これから天下の大会戦が始まるに及んで、島津隊の一千という兵力はあまりに微小で、捨て殺しにするも栓ない部隊だった。あくまで墨俣の島津隊は一千という数量でしかなく、これは官僚としての三成の不覚といわざるをえない。
「おまんは人の上に立つ人間ではなか! こげんことなら家康殿にお味方すべきであった」
この義弘の言葉には、さすがにその場に居合わせた義弘の家臣等も驚き、顔色を変えた。むろん三成もである。
『よもや、この男本気で敵に寝返る腹か?』
と三成は当然のように疑念をていしたが、疑念が頭をもたげるより先に、三成の鋭敏すぎる頭脳はすでに計算を始めていた。
『天下を二分する乱に及び、いかに精強とはいえ、高が一千の部隊が敵につこうと、味方につこうと戦局にさして影響はない』
「島津殿、言葉を慎まれよ。味方の信を失うことになりまするぞ」
それだけいうと三成は、がっくりと頭を垂れる義弘の横を騎馬ですりぬけた。三成の幕僚等も、いっせいに床机から立ちあがり後に続く。やがて最後に残った島左近が義弘の側近くで片膝をつき、
「こたびは真に主の不覚なれば、島左近、主に変わりお詫びつかまつる。我が殿はあのとおり人の情に疎い方なれど、豊臣家を思う心にいささかも曇りはござらぬ。どうかこたびだけはひらに御容赦のほどを」
と侘びの言葉を一言入れ、三成のもとへ急ぎ立ち去った。義弘はかろうじて墨俣にいる豊久の一隊を救出したが、三成に対する不信感は簡単にぬぐい去れるものではなかった。
この間九月一日、家康はついに江戸を進発した。だが三成は家康の行軍ルートとなる東海道に見張りも斥候もほとんど配置していなかった。家康の美濃・赤坂着陣は九月十四日のこととなる。