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【関ヶ原編其の四】京・伏見城攻防戦

 慶長五年(一六〇〇)七月京・伏見


 島津義弘は、故太閤が残した巨大な遺産とでもいうべき伏見城の前で、思わぬ立ち往生を食っていた。晩年の太閤が精魂かたむけて築城した巨大要塞は、今徳川方の鳥居元忠が守る城と化していた。すでに伏見城と大坂城という天下をつかさどる二大政庁は、徳川方によって占拠されている。

「恐れながら、やはり交渉は無理でござる。鳥居元忠は、伏見城は徳川方のみで守ってみせる。よそ者は手出し無用と、それを繰り返すのみ」

 と片膝をつきいったのは、薩摩から急ぎかけつけた長寿院盛淳だった。盛淳は庄内の乱の最中、敵の中に孤立し、味方であるはずの島津家中の者にまで見捨てられて以降、薩摩に己の居場所を見出すことができず、死をも覚悟で義弘のもとへ参じていた。

 義弘は床机から立ち上がり、今一度伏見城天守閣の方角を見上げた。義弘はもともと家康を高く買っていた。朝鮮の役の後、豊臣家の法度に違反することながらも、五万石もの加増を許諾したのは家康である。息子忠恒が伊集院幸侃を斬殺し、三成等奉行衆により高野山蟄居を命じられた際も、家康がこれを許した。

 

 六月十八日、家康が会津征伐に赴く際、義弘は山科まで軍勢を見送り、

「恐れながら、石田治部少輔に怪しい動きあり。くれぐれも御油断めされるな」

 とそっと耳打ちした。その時家康は鷹揚にうなづき、

「ご案じめされるな。すでに手は打ってござる。ただ心残りは伏見に残した我家臣鳥居元忠のこと。兵が少なすぎる故、御助力たまわれば家康思いのこすことはござらん」

 と義弘の手をにぎりながらいった。

「あいは全て芝居であったか、所詮家康は、自らの譜代の家臣意外信用しておらんということか。それにしても、いま少し兵があれば……」

 義弘は歯ぎしりした。幾度さいそくしても兵を送ろうとしない兄龍伯。義弘を慕う薩摩隼人達は、おいおい陸路山陽道、あれいは瀬戸内の海路をもって集結しつつある。それでもせいぜい一千ほど。いかに精強をもって知られる島津兵といえど、侮られるのもせんなきことであった。

「おまんら島津を敵にまわして、よかこつでんあると思うてか!」

 城の方角に向かって声をはりあげたのは、薩摩から急ぎかけつけた島津豊久だった。

「やめい豊久、おまんが騒いだところで、城門が開くわけではなか」

 義弘は無念であった。家康の腹の底をかいま見た以上、もはや徳川方につくことはできない。さりとて少ない手勢で中立を保つわけにもいかない。やむなく西軍の一翼を担うも、百戦錬磨の義弘には、三成がどうあがこうと家康に勝てるとは到底思えなかった……。


 さて石田三成は、家康打倒のため大名妻子を人質に取るという当初のもくろみを、七月十三日から実行にうつそうとしていた。玉造にある、利休七哲の一人にも数えられるなど、武人としてだけでなく文化人としても有名な細川忠興邸もまた、三成の軍勢に取り囲まれた。

 忠興夫人は名を珠という。この夫人も切支丹で洗礼名はガラシャ。かの明智光秀の忘れ形見でもある。その名の通り珠のような美貌で、細川忠興は夫人を愛するというよりも、まるで花でも愛でるように、人目にふれぬよう屋敷に囲っていた。特に秀吉の切支丹禁教令以後、忠興もまた夫人が切支丹であるという風聞が広がることを恐れ、夫人とともに切支丹となった侍女の一人を、鼻をそいで屋敷から追放したといわれる。当然夫婦の関係は冷めたものとなった。有名な逸話がある。

 ある日ガラシア夫人の美貌にみとれた植木職人が、誤って屋根から落ちた。この光景を目撃した忠興は、ただちに植木職人を成敗し、その首をちょうど食事中の夫人の眼前に置いた。だが夫人は眉一つ動かすことなく食事を続け、忠興をして蛇のごとき夫人といわしめたといわれる。

 このある種極めて嫉妬心の強い細川忠興は、家康に従い会津遠征に赴くに際し、万一の時のため家臣にある密名を与えていた。


 石田三成の使者を名乗る人物は七月十七日、表向きは慇懃に、細川家家臣小笠原少斎に三成の意向を伝えた。

「しばし待たれよ、奥方様にただちに用向きを伝えるゆえ」

 少斎はただちに屋敷の奥へ急ぎ、留守居役の他の家中の者と談合を始めた。

「やむをえぬ……」

 小笠原少斎は夫人の部屋へと赴いた。夫人はちょうど十字架を片手に、日課となっている朝の祈りをおこなっている最中だった。すでに夫人は侍女等から、重大事がさし迫っていることを知らされている。武装した小笠原少斎が片膝をつき、沈痛な表情をうかべてはいるが、夫人にはさして動揺の色は見られない。

「用向きはわかっておる。そなた我が夫の命により、わらわに自害をすすめに参ったのであろう」

 夫人は三十八歳、色白く、十年は若く見える。かつまさしく人形造りの職人が丹精をこめたかのように、精巧な美をもってそこに端坐していた。

 胸中を夫人に読まれた少斎は、しばし言葉を失った。忠興は会津出向に際し、やむをえぬ場合は夫人の命を奪うよう、少斎に申し聞かせていたのである。

「御家のため、ここでわらわが死ぬより他ないというのであろう。それに我が夫は、人手にわらわを渡すくらいなら自害させよと、そう申したのであろう。なれどそれはならん」

「何故でござりますか?」

「切支丹は自害を禁じられている故じゃ、わらわの命が欲しくば、汝がその刀で奪うがよい」

 

 少斎はしばし重く沈黙したが、やがて立ち上がり夫人を前に高々と刀をかまえた。

「今しばし待て、辞世の句を書く」

 

 散りぬべき 時しりてこそ 世の中の 花も花なれ 人も人なれ


 少斎は哀れと思ったのか二、三歩後へさがると、その場に膝をつき、

「恐れながら、お逃げくださりませ」

 と夫人に逃亡をすすめた。

「ほほほ、わらわの首を討てぬと。遠慮はいらぬぞ、これはわらわの夫への意地でもある。わらわは所詮この乱世の荒波を漂う、一艘のか弱き小舟にすぎぬかもしれぬが、ここで見苦しきふるまいをしたと、夫に笑われたくない。早ように首をはねよ」

 少斎はかすかに頷き、立ち上がると再び刀をかまえる。直後夫人の脳裏をよぎったものは、幼少時より幾度も夢に見た、炎上する本能寺の光景だった。夫人は鮮血とともに昏倒し薄幸の生涯を終えた。眼光はまるで生きるがごとく見開き、少斎はしばし動揺の色を隠せなかった。


 三成は夫人の自害の報に接し驚愕し、そして恐れた。

「もうよいわ、人質はいらぬ。戦に勝てばそれでよいこと」

 三成には半ば子供じみた正義感がある。後世自らが悪逆無道のそしりを受けることだけは、なんとしても避けたかった。間もなく加藤清正夫人、さらには黒田如水の夫人までもが家臣の機転により、屋敷を無事脱出してしまうのである。


 人質作戦には失敗したものの、三成のもとには諸国の武士・大名が続々と集結しつつあった。主な者の名をあげると立花宗茂・鍋島勝茂・小西行長・宇喜多秀家・小早川秀秋等で、その数およそ九万五千。真っ先に三成等西軍の攻撃目標となったのは、やはり伏見城だった。むろんこの攻城戦には、島津義弘も勇んで参加を願い出る。


 城攻めに先立って毛利輝元の名で、城方に対する降伏勧告が行われたが、伏見城の守将鳥居元忠はにべもなくこれを拒絶し、三成に力攻めを決意させるに至る。攻め方四万に対し、伏見城守備兵は千八百。だがこの攻城戦は、三成等西軍にとって思わぬ展開を見せるのである。

 

 城将鳥居元忠には、ある一つの強い思いがあった。伏見城を発つ前夜、家康は幼少の頃から側近くに仕え、六十二になるこの老臣に、不意に若年の頃の昔話などを始め、次いで沈黙した。元忠には長年の付き合いから、家康がなにをいわんとしているのか、はっきりとわかった。

「殿、この城の守りはそれがし一人で十分にござる」

 家康は会津遠征のため、伏見城守備に多くの兵はさけない。せいぜい千ほどであろう。押し寄せる西軍諸将の数は、万をはるかにこえるはずである。

「治部が攻めてくれば、この城は孤立無援となる。命を捨てねばならぬかもしれぬぞ……」

 そこまでいい終わると、不意に家康は目を赤くした。その夜主従別れの宴となり、老将は三方ヶ原の合戦の際痛めた片足をひきずりながら、家康のもとを辞去した。

 家康という、存在自体が一個の政治機構のような人物が、ここまで感情を露わにしたという記録は、他に伝わっていない。元忠はわずか千五百の手勢ながら、三河武士というものの手強さを西軍諸将に知らしめた後、城とともに滅びる覚悟でいた。


 七月十八日、ついに西軍の総攻撃が開始された。だがなにしろ十二もの曲輪をもつ巨大要塞である。元忠をはじめとする三河武士も、じつによく防戦に終始し、火矢、大筒、鉄砲等あらゆる兵器が動員されるも城はなかなか落ちない。元忠は万が一の時は、伏見城に貯蔵してある金銀塊を、銃弾に鋳直してよいと家康に伝えられており、弾丸は潤沢にあった。また元忠配下の甲賀衆には射撃の名人も多く、城壁をよじ登ってくる西軍を、見事的確な狙撃で苦しめた。城攻めは三成等の予想に反して、長引く気配を見せ始めた。


「諸将、いったいなにをもたついておられる。高々二千にも満たない敵を蹴散らせぬでは、天下のあざけりをうけるは必定」

 七月二十九日、たまりかねた三成は自ら陣頭に姿を現わし、軍議の席上諸将を前に不満を露わにした。

「金吾中納言殿(小早川秀秋)、そなたはなにを躊躇されておいでか。城兵の侮りをうけまするぞ」

 もともと意思薄弱な秀秋は、三成の言葉の激しさに沈黙し、ただ頭をたれるのみであった。

「小西行長殿、聞けば清正公とそなたは朝鮮以来の不和とか。ここでいたずらに時を費やせば、今肥後の領国にある清正は、隣国である汝の領土を侵すやもしれませぬぞ」

 小西行長もまた言葉を返せず、焦燥感からか唇をかむのみであった。

「あいや待たれい、この伏見城は今は亡き太閤殿下が、精魂かたむけて築かせた城でごわす。また城兵達も一丸となって城を死守する覚悟と思える。なかなかそうおいそれとはいかんでごわんと」

 と島津義弘が言葉を挟んだ。

「義弘殿、御身も朝鮮の役のおりはあれほどの武勲をあげながら、何故に敵を滅ぼせぬ」

 三成は青白い顔を、やや興奮気味に赤らめた。

「三成殿、それがしに一つ策がござりまする」

 進言したのは、豊臣五奉行の一人長束正家だった。

「それがしの配下に、甲賀の者がおりまする。その者に命じて、敵方の甲賀の者が寝返えるようしむけるのです。矢文を放ち内応を約束させましょう。もし応じぬ時は家族をことごとく磔に致すと」

「いいだろう、貴殿に任せよう」

 三成は藁にもすがる思いでいった。 


 三十日子の刻(午前零時)、城内は嵐の前の静けさのように沈黙していた。静寂をやぶったのは一陣の火の手だった。

「松の丸から火の手があがったぞ!」

「何事だ失火か! 敵の火矢か!」

 城兵達はただちに消火にむかおうとした。その時、城門が五十数間にわたって破壊され、敵兵が雪崩のごとく城内に侵入を始めた。ことここに至って、ようやく城兵達は内部に裏切り者がいることを敏感に感じ取ったが、時すでに遅し。さらに火は追っ手門の大鉄門をも焦がし、たちまちのうちに小早川、鍋島、相良等の将兵達が、我を先にと城内へ迫る。夜が白々と明ける頃には、名護屋丸、西の丸、太鼓丸も敵の手に落ち、城の運命はほぼ決した。


「見よ天守閣が燃えているぞ、太閤殿下ゆかりの城を、自らの手で焼き払うことになるとはなんという皮肉」

 三成は伏見城を煌々と焦がす炎を目にしながら、自らの勝利を確信し、一時だけ感傷にひたった。すでに伏見城の城兵達の多くは討ち死に、焼死、もしくは自刃、千八百の兵は二百にまで減っていた。


「ふん、我ながらよく戦ったのう。三河武士がいかに手強いか、三成も西国の諸大名も、とくと思い知ったことであろう」

 城将鳥居元忠は敵の返り血を浴びた顔に、かすかに笑みさえ浮かべていった。

「恐れながら、そろそろ敵が、この本丸にも迫ってまいりましょう」

「わしに自害せよと申すか、いやまだじゃ、まだ死ねぬ」

 配下の石野小次郎のほうを向くと、元忠は意外なことをいった。

「さりながら、もしものことがあり、敵の足軽、雑兵に討ち取られたとあっては恥辱かと」

「構わぬ、こたびわしは名誉のためではなく、一時でも多く時をかせぐための戦と心得ておる。例え小物に討ち取られたとて、わしはいっこうに構わぬ。鳥居彦左衛門元忠、これが殿への最後の忠義ぞ。よいか敵兵と出会ったら必ず殺せ。相手が大将なら刺し違えてでも殺せ。味方の戦死をかえりみるな」

 

 西軍の総攻撃が開始された。この攻撃には島津兵も加わった。復讐の念にかられた島津兵であったが、元忠が率いる二百名は突撃し、天下に精強をもって知られる島津兵を、三度にわたって撃退する。四度突撃したが、これによって守備兵のほとんどが戦死。元忠もまた身に五創を負う身となった。

「そこに見えるは敵の御大将とおみうけする。拙者、野村肥後守の家臣雑賀孫一郎重朝と申す。御首ちょうだい致すべく参上つかまつった」

 意識が朦朧とする中、薄目を開くと、いつのまにか敵の将が目の前に立っていた。

「そうか、今はもうこれまで。孫一郎とやら、早く首を取って手柄といたせ」

「いや、御大将の戦の采配実に見事。そしてかくも潔い武士に、それがし一度も出会ったことがありませぬ。武人の鑑にござれば、それがしごとき者の手にかかったとあっては、誠にもったいない。腹を召されるがよろしい。雑賀孫一郎重朝、謹んで介錯いたす」


「この老人に腹を斬れと申されるか、それもよかろう。孫一郎とやら、鳥居彦衛門元忠の最期しかと見とどけよ」

 そういうや否や元忠は、腹に切っ先を突き立て十文字に斬ろうとしたが、すでにその余力は残されていなかった。

「介錯、御免」

 老将の首は床に転がり落ちた。鳥居彦左衛門元忠享年六十二歳の見事な最期であった。ほどなく伏見城は全壊し、守備兵もまた、一人の生存者すらなく城とともに滅んだ。

 

夕闇の中、島津義弘は廃墟と化した巨大要塞を前に立ちすくみ、両手を合わせていた。

「豊久、敵ながら実に見事と思わぬか」

 義弘は、かすかに背後に立つ豊久の方角を見ていった。

「左様でごわすなあ。かくも忠義な臣を持った家康は、やはり果報な男でごわす」

「豊久よ、家康は手強いぞ。あれいはこん戦勝ち目がないかもしれぬ」

 義弘は本格的な天下分け目の合戦を前に、不吉な言葉を発し豊久を驚かせた。義弘にとっての大事はすでに、戦の勝ち負け如何に関わらず、島津の名を汚さないこと。その一事となっていたのである。



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