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【関ヶ原編其の二】庄内の乱~示現流の光芒

 慶長四年(一五九九)九月十日、島津方は再度都城攻略のため平田増宗を大将とし、都城近辺の乙房丸へ兵を押し出した。さらに島津忠恒も野々三谷の乗満寺の原まで進出し、自ら采配を振るう。だが城兵達の抵抗はすさまじく、島津方は崩れ、平田増宗は野々三谷の方角へ退いた。この合戦で上井兼政はあえなく討ち死にしてしまう。これに勢いをえた伊集院方は、野々三谷の城からも城兵が出撃し、島津方と一戦を交える。さらに安永の城からも城方が押し出し防戦一方となる。

 一方、小杉丹後守・北郷喜左衛門の両家老に率いられた北郷勢は、安永と小松ヶ尾の両方面へ進出。伊集院忠真は一旦小松ヶ尾をまで退くも、ここを正念場と覚悟し、将兵達を叱咤して、かろうじて北郷勢を押し返した。忠真は一旦全軍に撤退の命をくだすも、この時島津忠恒は肝付半兵衛尉・敷根仲兵衛尉・種子島久時等に総攻撃を命じ、伊集院忠真は支えきれず安永・今平・都城などを目指して落ちのびていった。

 

 この小松ヶ尾の合戦で、戦の最中興奮を抑えきれなくなった島津忠恒は、雑兵相手に槍働きに及び、ついには敵の重囲におちいり忠義の家臣を失いながら、かろうじて危機を脱するという一幕もあった。すでに伏見から国許に帰国していた島津龍伯は、この一件を知り後日忠恒に厳しく訓戒する。

 島津忠恒は平素から酒好きで、白昼でも酒を飲み、酔えば近習の者を一つの落ち度がなくとも手討ちにしたといわれる。忠恒の平素からの乱行を知る龍伯は、島津家の将来を憂えずにはいられなかったのである。


 乱は泥沼の様相を見せ始めていた。中央の徳川家康は乱の早期終結のため、九州の各大名に動員令を発している。家康から軍勢派遣の命を受けたのは伊東祐兵・相良長毎・立花宗茂・小西行長などである。だがこれらの大名の援軍派遣は、島津氏側の固辞により結局実現しなかった。島津家中の問題を解決するのに他国の兵を借りるのは、島津家の名折れであり、他国兵に領国を荒らされたくもなかった。乱は終焉を見ないまま、慶長四年も十二月を迎えようとしていた。


 島津忠恒は戦での傷を癒すため、高千穂の峰を左手に見て、西岳の南麓をくだった山峡の寒村の温泉にお忍びで赴いていた。忠恒を警護するのは東郷重位と、重位の一番弟子長谷部四郎次郎他、腕の立つ武士三十名ほどである。むろん一軍の将が戦の最中、このようなわずかな供とともに陣を後にするのは、軽挙妄動でしかない。

牛の刻(午前零時)、東郷重位は不意に何者かの殺気を感じ、刀を手にすると庭にでた。だが何者も見当たらない。

「気のせいであったか」

 重位が立ち去ろうとしたときだった。不意に天空が血の色に染まり、無数の髑髏が乱れ飛んだ。

「こいはなにごとじゃ!」

 警護の武士達は一斉に庭先におり、島津忠恒もふんどし意外身にはおらぬ体で姿を現わした。

「恐れながら殿、着替えを急ぎなされませ。案ずるには及びませぬ」

 重位は刀の鞘に手をかけたまま、しばし瞑目すると、突如として柳の大木のある方角へ向かって突進。示現流の刀が一閃すると同時に、突如悲鳴があがり髑髏は消滅した。そこに座禅を組んだままの山伏らしき修験者が、数珠を片手に経を唱えていた。

「根来の者であろう。残念だがわしの心眼におはんの術は通用しない」

「己覚えておれ!」

 山伏は肩から出血しながらも、闇の中へ消えた。


「重位手柄であるぞ」

 ようやく着替えをすませた忠恒が声をかけるも、重位は殺気を放ったまま、前後左右に目を配っている。

「こいは只事ではごわはん。少なく見積もっても千はおりもうす」

 と四郎次郎も周囲を見渡しながらいった。しばし静寂があたりを支配する。やがてかすかに草木が風に揺れたかと思うと、僧兵達が刀槍を片手に屋敷を取り囲むのに時間がかからなかった。

「師匠、ここはおいが引き受け申す。若殿とともに逃げてたもんせ」

 重位と四郎次郎にとって、示現流をして薩摩の地に確固たる基盤を築くことこそ、年来の望みであった。そのため四郎次郎は、自分と重位が共倒れになることを恐れたのである。

 示現流には『抜き』といわれる独特の打ち込みがあった。左手で鯉口を押し、右手で柄を握りながら、右足を踏み出すと同時に腰を後にひねり、柄頭にのせた右肘をはじきとばす勢いで、相手の脇下から頭まで切りあげるのである。

 四郎次郎の示現流の必殺の剣技の前に、根来の僧兵達は己が死んだことすら知らぬ間に、次から次へと屍となった。さしも圧倒的な軍勢をもってしても一時ひるんだ。だがその時である。

「四郎次郎危ない!」

 重位は思わず叫んだ。木の上に怪しき人影を見たからである。だが遅かった。敵の人影は四郎次郎の頭上から襲いかかり、四郎次郎はたちどころに頭部から腰の辺りまで剣を振り下ろされ絶命した。

「己許せぬ!」

 重位は全身の血を逆流させながら、敵の只中に自らの身を置く。その雲燿の剣の前に、敵の刺客は一刀のもとに骨まで両断され骸となる。まさに神業といっていい。敵の刺客達は再びひるんだ。やがて急を聞きつけ、新手の一隊が忠恒を救出した。忠恒は危ういところで危機を脱したのである。ひとまず近在の寺に避難するも、忠恒は敵の中に姿を消した重位の身が気がかりでならない。

「恐れながら、一人ではもはや生きてはおりますまい」

 側近の言葉に、忠恒は一つ大きくため息をついた。その時である。不意に寺の外で兵士達が騒ぐ声がした。

「重位じゃなかか、おはん生きておったか」

 忠恒は思わず叫んだ。重位は冷たくなった愛弟子を両の手にかかえ、奇跡の生還をはたしたのである。

「重位こたびは手柄であった。後ほど褒美をとらす」

 忠恒は、この豪傑が生きていたことに内心舌を巻きながらいった。だが愛弟子の死に意気消沈する重位には、忠恒の言葉はいかにも空しい響きをもって聞こえた。

「恐れながら我が一番弟子四郎次郎は、殿の身代わりとなって果てました。今後は一軍の将の身でありながら、戦の最中陣を後にするような軽挙妄動はつつしむよう、伏してお願いたてまつる次第でごわす」

 重位は重い声でいった。その言葉に奥底に、愛弟子を失った無念が深く沈んでおり、忠恒もしばし沈黙せざるをえなかった。


 年が明け慶長五年(一六〇〇)をむかえ、乱は終息の方角むかって動き始めた。島津勢は庄内十二城のうち、梶山・山之口・勝岡などの各外城を次から次へと陥落させ、伊集院一族に残されたのは、都城と梅北・末吉だけになってしまった。中央の徳川家康は、これを機に伊集院忠真に降伏勧告を行い、忠真はこれに応じ三月十五日都城を退去する。

 島津龍伯は乱の終息後ただちに、庄内の地を旧領主だった北郷氏に与え、また伊集院忠真を南薩摩の頴娃に所替えした。実に一年以上の長きにわたる乱は、ようやく鎮圧されたのである。

 その頃上方の情勢は、日毎に緊張の度を増していた。加賀の前田家は国主利長の生母までもが人質として家康のもとに赴き、かろうじて徳川家の矛先をかわしたが、家康は新たに五大老の一人会津上杉景勝に目をつけていた。徳川家からの謀反の疑いありとする問責使に対し、上杉家の家老直江兼続は、後世『直江状』いわれる激烈な挑戦の文を書き、家康は会津征伐にたたざるをえなくなった。むろん家康が会津征伐に赴けば、背後を佐和山の石田三成がつくのは明らかだった。

 伏見にいる島津義弘のもとからは、軍勢の催促と国主忠恒の上京を促す書状がひんぱんに龍伯のもとに届く。だが龍伯は忠恒の上京はおろか、一兵も薩摩から上方に送ろうとはしなかった。龍伯は形勢を観望し、天下の情勢明らかとなるまで傍観する腹でいた。だがいずれの側につくにしても、義弘の手許の兵はあまりにも少なく、家中では龍伯のこの態度に不満の声を持つ者もいた。


「皆今日あつまってもらったのは他でもない。徳川内府殿は、今会津征伐のため諸将に動員令を発しておる。天下の形勢は今まさに大きくかわろうとしている」

 鹿児島の内城で、龍伯は参集した重だった将に向かって語りはじめた。

「じゃっどん天下の形勢右に動こうと、左に動こうと、こたび島津は島津の道をいく。おいは家康殿、そして家康殿に不満を持つ者いずれにもつかぬつもりでいる。なれど上方にいる義弘はそれではすまぬであろう。もし義弘の身を案じる者あらば、いつ何時でもこん薩摩から上方にはせのぼるがよか。おいは止めぬ。ただしこたびこそは天下の大事なれば、再びこん薩摩に生きて戻ろうと思うな。決して島津の名を恥ずかしめることなきよう。おいがいいたいのはそれだけじゃ」

 

 龍伯は一通り言葉を終えると、集まった将達に解散を命じた。将達はそれぞれの思いを胸に場を後にし、最後に残った島津豊久が龍伯に一礼して立ち去ろうとしたときだった。

「待てい豊久、おはんにはおりいって話しがある」

 龍伯に不意に呼びとめられ、豊久は何事であろうかといぶかしんだ。島津豊久は庄内の乱で不覚にも重傷を負って以降、居城佐土原で酒に溺れる日々を送るようになっていた。敗戦の悪夢が豊久をさいなみ、酒そして城の一室に居を与えた御鈴の体に溺れる豊久には、以前の凛々しい武者ぶりが消えていた。

「豊久、おはんはこたびどげんするつもりじゃ。おはんは朝鮮の役以降、義弘を新たな父とも慕った。そん義弘を助けるため上方へ赴くか、それとも薩摩に残るか」

 豊久は返答に窮した。義弘の窮状を思えば、他の者が誰一人行かずともかけつけるのが武士の道である。だが今の豊久は戦場に赴くより、御鈴とともに暮らしたかった。

「迷っておるようじゃな。おはんは行かんでよか、いや行ってはならぬ」

「何故でごわすか?」

 龍伯の言葉に、豊久は思わず聞き返した。

「今のおはんは以前のおはんとは違う。そいはおはん自身がよう知っておるはずじゃ。おはんが行っても義弘の足手まといになるだけ。そいなら行かんほうがよか」


「恐れながら、そいはあまりの仰せ。この豊久いざという時戦場で散る覚悟だけは、いつでんできておるつもりでごわす」

「豊久よ、おはんは初陣のおり、家久に戦を知らぬおはんでは役に立たぬゆえ、国許に帰るうよういわれたそうじゃな。おいもおはんに同じことをいう。武士にとって最も恥ずべきことば無様な死、おはんは家久の大事な忘れ形見、わしは死んだ家久のためにも、おはんをこたび戦にだすわけにはいかぬ」

 豊久はがっくりと頭を垂れた。思いがけず父家久の名が出たとき、酒色に溺れた己の身のふがいなさに、後悔だけがこみあげてきたのである。

「ただし豊久、こいだけはおはんに伝えておく。他でもない。おはんが今城にかくまっている女子のことよ」

 龍伯の思いもかけぬ言葉に、豊久は羞恥心からかすかに頬を紅潮させた。

「そん女子をすぐに城から追放せよ。あいは伊集院忠真の遠縁にあたる女じゃ。根来の者から忍びの術を習い、男を腑抜けにする術にも十分に習熟しておる。そん者を追放せんかぎり、おはんには身の破滅が待ち構えておるだけじゃ。おいからおはんに申したいことはそれだけじゃ」

 豊久は衝撃のあまり、龍伯が去った後も、その場にうつむいたままだった。

 

 その夜は下弦の月が一際明るく闇夜を照らしていた。佐土原の城に戻った豊久は、まず真っ先に御鈴を訪ねた。

「薩摩にある間も、おはんのことだけが気がかりであった。おはんが恋しくてたまらなんだ」

 そういうと豊久は、朱一色の寝巻きを身にまとった御鈴を、半ば強引に寝床に押し倒した。乳房に手を触れ、秘部にまで手をのばそうとしたその時だった。突如豊久は先刻来とはまったく違った感触におそわれた。いつの間にか寝床には、藁でできた人形が横たわっていたのである。不意に強い殺気がした。御鈴は刃を片手に豊久をみおろしていた。かろうじてその鋭い刃をかわした豊久は、御鈴を押さえはがいじめにする。

「信じたくはなかったが、やはりおはんは伊集院の回し者であったが」

 豊久が耳元でいうと、御鈴はかろうじてその手の中から脱し、さらに刃をかまえる。だが豊久の家来達が襖をやぶり、刀を手に部屋を取り囲むと、さすがの御鈴も半ば観念した。

「どうじゃ御鈴、おはんを斬りたくはなか、伊集院と手を切り、わしと暮らさんか」

 豊久はかなわぬことと知りながらも、今一度念を押す。

「所詮貴方様と私は結ばれぬ縁、なれど私は本気で貴方様を愛してしまった。豊久様、来世があるならめおとになりましょうぞ」

 それだけいうと御鈴は、自らの胸を刃でつらぬいた。

「御鈴おはんはなんということを!」

 豊久が御鈴の体を抱きあげると、

「寒い、もっと強く……わたくしは永遠に貴方様の胸の内に……」

 不意に豊久は御鈴の魂が、自らの胸中に宿ったような気がした……。


 豊久は御鈴の葬儀をすませると、ただちに揮下の将兵に出陣の命をくだした。すでに関ヶ原の合戦は眼前に迫っていたのである。


 


 

 


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