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【関ヶ原編其の一】庄内の乱~伊集院幸侃の最期

 時世はとどまることを知らない。徳川家康は秀吉の死後、じょじょにその野望の本性を露わにしようとしていた。まず諸大名との縁組により、己をとりまく地歩を踏み固めようとはかる。

 奥州の伊達政宗の娘と、自らの六男松平忠輝との婚約を成立させたのをかわきりとし、さらに福島正則・蜂須賀家政・加藤清正等にも縁談をもちかける。

 豊臣政権下の掟では、大名同士の勝手な政略結婚は禁止されており、これは明らかに家康の違法行為である。最初に家康を断罪したのは、五奉行石田三成だった。問罪使を送るも、家康は言を左右にするだけで、謝罪の言葉一つない。

 慶長四年(一五九九)三月三日、三成をはじめとする反家康派に衝撃が走る。生前秀吉が最も頼りとし、諸大名の中で唯一、家康に対抗できるだけの勢力をもった加賀の前田利家が、病のため急逝したのである。

 利家の死で後ろ盾を失った石田三成は、大坂にある自らの屋敷で、以前から三成を快く思っていなかった加藤清正・福島正則等武断派七将の襲撃をうける。かろうじて災難をかわした三成は、常人離れした深い狡知から、なんと敵であるはずの家康の屋敷に逃げこんでしまう。家康は三成を殺さなかった。野望の成就のため、三成を殺すより生かしておくことの利益を優先したのだった。むろん三成も家康の腹を読んで、自らその懐へ逃げ込んだのである。

 三成は危機を脱したが奉行職を解かれ、居城佐和城へ蟄居を余儀なくされる。こうして家康の野望を阻む者は消えたかにおもえた。だがそれは新たな戦乱の序章にすぎなかった……。


 そうした中、伏見の家康の屋敷に、肥後の加藤清正の家臣から清正を経由して、家康のもとに一通の奇妙な書状が届いたのは、前田利家の病が日毎に深刻になり始めた、二月も中頃のことだった。書状の差出人は島津家家臣伊集院幸侃とあった。

「清正の家来が、領内で不振なそぶりのものを発見し詮議したところ、このような書状を隠しもっていたということじゃ。さらに問いつめると、どうやらこの伏見に逗留している伊集院幸侃から、息子の忠真宛ての書状だったとか」

 と家康は、その巨眼で一通り書状に目を通してから、かたわらに控える謀臣本多正信に語りはじめた。

 書状は幸侃が亡き秀吉の恩に報いるため、三成等五奉行の前で、豊臣家への変わらぬ忠節を誓ったこと。徳川家康を豊臣家に対する謀反人とはっきり決めつけ、家康の専横目に余る時は、島津家の動向に構わずいつなんなりと合力すること。また島津家に家康に味方する動きあれば、例え武力に訴えてでもこれを阻止すること等が書かれていた。

 伊集院幸侃は、島津家が秀吉に降伏した後、中央政権と島津家とのパイプ役として重要な役割を果たしたばかりか、秀吉に気に入られ、八万石もの大封を与えられていた。また島津領検地においても一役買ったが、その結果領地を減らされた者等からは、深い恨みを買うことにもなった。さらに江戸時代に編纂された『庄内陣記』によると、主君の屋敷にも及ばない贅を尽くした屋敷を、伏見に構えていたともいわれる。こうした驕りもあり、いつしか幸侃は、島津家内部から獅子心中の虫とされていたのである。


「この書状に書かれていることが真なら、ただちに島津殿に事を伝え、手を打たねばなりませぬなあ」

 と正信が、家康の様子をうかがいながらいう。

「いや実はの、ここに以前伊集院幸侃がわしに宛てた書状がある。筆跡はほぼ同じ、なれど花押をよく見ると……似せて作ってあるが同一のものではない。恐らくこの書状の真の差出人は、伊集院幸侃ではあるまい」

「なんと偽手紙でござるか、ならば真の書状の差し出し人は?」

 正信が驚くのを尻目に、家康はかすかに低く笑った。

「島津龍伯め家中の曲者一人成敗するのに、よほどわしの墨付きが欲しいとみえる」

「拙者には、いかなることかわかりかねますが?」

 正信は家康の腹の底がわからず、思わずたずねた。

「そなたにわからずともよい。まあよいわ伊集院幸侃はともかく、今島津に恩を売っておいて損はあるまいて」

 そこまでいうと家康は、再び低く笑った。


  その頃京伏見の島津屋敷では、島津龍伯から忠恒への本宗家伝来の重物の譲渡が行われていた。重物は島津家始祖忠久が源頼朝から拝領したとされる軍旗、島津家伝来の十文字旗、貴久以来の時雨軍旗等である。これは龍伯から忠恒への島津家の家督相続を意味し、この時から忠恒は正式に、島津家第十七代当主としてなったのである。

 厳かな譲渡の儀式が終わると、家臣達には酒がふるまわれ祝いの宴となった。だがこうした宴の中にあっても、龍伯の目は油断なく、一際派手な服装をした一人の男へむけられていた。伊集院幸侃にである。

 

「なんとこれは!」

 宴が終わり龍伯と忠恒は二人きりとなった。そこで忠恒は龍伯から一通の書状を渡され、驚き顔色を変えた。書状は家康が届けてきた、問題の幸侃から息子忠真宛てのものだった。

「己奸臣めが! すぐに呼びつけ手討ちにしてくれる!」

 若い忠恒は興奮し、今にも幸侃を呼びつけんばかりの憤りを露わにした。

「まあ落ち着け忠恒、まだおはんに告げていないことがある。実はの……この手紙は幸侃ではなく、おいが書かせたものじゃ」

 忠恒がさらに驚いたのは、いうまでもない。

「こん手紙を使者に持たせ、使者には途中肥後の加藤清正の領地を通るであろうから、そん時はわざと捕らえられるよう命じた。むろん使者には捕らえられたときは、ただ役目を与えられただけで、手紙の内容などは一切知らぬで通すようとも命じたので、命まで奪われてはおらん」

「なるほど幸侃を征伐するにあたり、徳川殿のお墨付きを得るわけでごわすか。じゃっどんこげなまわりくどいことをせずとも……」

「おはんはまだ若い。例え幸侃が死んだとて一族は健在、必ずや戦となろう。さすれば庄内に広大な領土を持ち、決して侮れん。それに亡き秀吉から直々に領地を与えられた者を成敗するは、豊臣家への反逆でもある。こいを滅ぼすには、どうしても相応の大義名分が必要なのじゃ」

「お言葉なれど、確かに今、家康殿は日毎に力増しておりもうす。なれどこん勢いいつまで続くか、豊臣恩顧の者の中にも家康殿に反感持つものは、すんばいおり申す」

「いや、豊臣の天下など秀吉が死んでしまえば泡沫のごときもの。こん日の本の天下は最後には力ある者のもとに転がりこむ。家康殿がなに一つ手を降さずとも、ゆくゆく天下はあん御人のものになるだろう。おいは家康殿とじかに接したこともあるが、あいは只者ではない。おはんも間違っても徳川殿に刃向かうようなことだけはなきよう、そうしかと心得るがよか」

 忠恒は、しばし龍伯の顔をまじまじと見た。国主に就任して早々、前国主の凄みとでもいうべきものを見せられたような気がした。島津家中においても、弟二人を亡くして以降、龍伯が以前に比べて何事かが変貌したという者がいた。忠恒は龍伯から、島津家を背負う意味を一つを教わったような気がした。

 むろんその龍伯も、後年九州で対峙することになる家康との心理戦が、この時すでに始まっていることを知らずにいる。

 

 三月九日、伊集院幸侃は島津屋敷に茶会のため呼ばれた。その最中、茶を一服口にした幸侃は、突如として苦しげなうめきとともに倒れた。

「己、おいに毒を盛るとは……こいはいかなる存念か……」

 絞り出すような声で幸侃がいうと、茶会に列席していた忠恒は、

「当家に仇をなさんとする奸臣伊集院幸侃! 徳川殿からも当家に詮議がまいっておるぞ!」

 と問題の書状を、地にはいつくばっている幸侃の目の届くところに落とし、驚愕する幸侃に向かって刀をぬき、とどめの一撃を加えた。伊集院幸侃の最期の言葉は、

「こげな書状、覚えがなか……」

 という悲痛なうめきだった。


 伊集院一族は、本拠の都城を中心に日向、大隅に十二の砦を構えていた。いわゆる庄内十二外城である。都城の西南四里半に恒吉、南一里ばかりに梅北、一里半に末吉、東には梶山、勝岡、山之口、北には高城、志和池、野々三谷、北西に山田、安永、戝部の各砦があった。庄内への通路の要所要所に砦が置かれており、都城はその中央南方にあって懐が広いので、安易に攻め込むと戦線が延びきり、砦を守る兵に分断され挟撃される。伊集院家のかかえる十二砦は小規模ながら要害の地が選ばれ、その城主は伊集院家の有力家臣達であった。

 伊集院忠真は事件後、舅にもあたる義弘に龍伯・忠恒への仲介を求めたが、はかばかしい成果が得られず本拠都城に立てこもり、紀州根来寺出身の僧白石永仙の説得で、合戦の準備にはいった。この白石永仙なる奇怪な人物は、天正十三年豊臣秀吉により本拠根来寺を焼き討ちにされ、遠く薩摩まで落ちのびてきた者である。軍略に長じ、伊集院幸侃に特別に召され侍大将をつとめていた。

 一方中央政権と島津家の取り次役でもある石田三成は事件後、一時は忠恒に高野山への蟄居を命じたが、家康によって許される。また家康は島津家が忠真を討伐するにあたり、高齢の龍伯にかわり合戦の指揮をとるため、特別に忠恒の帰国まで許した。


 すでに忠恒は庄内への通行を封鎖していた。一方伊集院方も福山から財部に通じる現在の国道十号線の往還を、関所を設けて通行禁止とした。そのため鹿児島城を発した忠恒は、東霧島山の勢多尾を越え、東霧島金剛仏作寺を本陣とする。従う将は伊集院宗右衛門・寺山久兼・柏原有国・島津忠長・入来院重時・伊集院久信・上井秀秋・新納忠元等、そうそうたる顔ぶれがそろい、この合戦が島津家の総力戦であることをうかがわせた。

「恐れながら敵の侍大将白石永仙は軍事だけでなく、なにやら奇怪な術を使うと聞き申した。くれぐれも用心を」

 と忠恒に忠告したのは、この合戦に騎馬で旗本備えに加えられた東郷重位だった。忠恒はかすかにうなずく。

六月二十三日未明、都城盆地周囲は濃い霧に包まれていた。諸将が息を飲む中、ほら貝の音とともに島津勢は都城の北西二里半にある山田城に殺到した。大手口の大将は島津豊久、搦手口の大将は入来院重時である。

 城方は力戦奮闘するも、この城攻めは予想外の決着を見ることとなる。巳の刻過ぎ(午前十時頃)、島津豊久が大手の木戸口まで攻め寄せたところ、誤って旗差し物を奪われるという事件がおきた。旗は高々と城にかかげられるが、これを見た攻め方は、島津豊久の一隊が城に一番乗りしたと思い違いする。これに勢いを得、北郷勢や新納忠元等が城に殺到、城主長崎治部少輔は支えきれず逃走した。

 

 島津豊久は山田城に潜入し、敵の残党処理に明けくれていた。自ら刀をぬき群がる敵兵を斬りふせていたところ、不意に襖の向こうにただならぬ殺気を感じた。

「己何奴!」

 豊久は刀で襖ごと刺し貫く。手ごたえがあった。次の瞬間悲鳴があがるも、それは女の声だった。襖を開くと肩のあたりから大量の出血をした一人の夫人がいた。夫人は青白い肌に、どこか猫をおもわせる瞳をしており、

「どうか命ばかりは……」

 とだけいうと、そのまま卒倒した。

「しまった! おいとしたことが女子ば手にかけるとは」

 豊久は後悔し、ただちに人を呼び手当てするよう命じた。親切心からだけではない。豊久は夫人を一目見た時、何か魅せられるような感覚におそわれたのである。この夫人が何者であるか気付くのは、後日のことであった。


 同日、図書守忠長、樺山久高、柏原将監らも兵を三手に分け、都盆地の南に孤立する恒吉城に押し寄せ、新手を次々に繰り出して攻め立てた。城主伊集院宗右衛門尉は、二日間にわたって懸命に防戦したが支えきれぬとみて、二十五日、夜陰にまぎれて都城に撤退した。恒吉城は寺山久兼が在番することになった。


 島津方は幸先よく勝利を得たが、その後次第に苦戦におちいる。南では忠真の次弟小伝次の守る末吉城を攻めあぐねた。北では六月二十九日、山之口城を守っていた倉野七兵衛尉が、東霧島の忠恒本陣を奇襲する。乱戦の末七兵衛尉は討ち死にするも、忠恒自らが刀を振るわねばならぬほど危険な事態となった。

 その後両軍一進一退で譲らず、早九月を迎えようとしていた。


「恐れながら、どこかお体でも悪かですか?」

 九月五日の軍議の席上、平田増宗は大将島津豊久の様子をいぶかしみたずねた。豊久は軍議の間中一言も発せず、焦点の定まらぬ眼光で虚空をみすえていた。

「いや、どこも悪いわけではごわはん」

 豊久はかろうじて返答したが、原因は山田城で誤って深手を負わせた、あの夫人だった。御鈴と名乗るその夫人を密かにかくまった豊久は、傷が回復した後も手放そうとせず、いつしか両者は情を通じるようになっていた。豊久は陣中の暇を盗んでは、山中の奥深くにかくまった御鈴と会い男女の関係をもった。

 御鈴は戦で親兄弟を亡くし、やがて舞を覚え、山田城に囲われて暮らしていたという。 若い豊久は幾度でも御鈴を抱いた。妖艶な香が豊久が魅惑し、御鈴は奇妙な紫色の髪を振り乱し悲鳴にも似た声をあげた。やがてその声も途切れ、細い腕を豊久に巻きつけてくる。豊久は、抱けば抱くほど御鈴が愛おしくなった。今までも幾度か夫人と情を通じたことがあったが、これほどまで一人の夫人にのめりこんだことはなかった。


 この日、島津方は一気に敵の本拠都城を突くため作戦を練っていた。そこへ突然物見があわただしくかけこんできた。

「申し上げます。敵の小荷駄隊らしき部隊が、山中の細い道を通り都城に接近中の様子」

「うむ、して数は?」

「およそ三百」

 この知らせに豊久は笑みをうかべ、

「よし、まずはそん小荷駄隊を襲い敵の補給を絶つ。皆出陣の支度にかかれ」

 と諸将に下知を下した。

「恐れながら、小荷駄隊にしても数が少なすぎまする。もしやなにかの罠ではごわはんか?」

 と疑念をていしたのは長寿院盛淳だった。

「なんばいうちょる、こげな機会はまたとなか、ただちに出陣じゃ」

 豊久は反対を押し切り軍勢を動かした。果たして小荷駄隊はおとりで、伊集院勢は伏兵を潜ませ待ち構えていた。不意の襲撃に島津勢は動揺し、たちまちのうちに崩れ始める。長寿院盛淳は敵の重囲の中で苦しみ、しかも他の部隊のいずれもが真っ先に盛淳を見捨てた。長寿院盛淳は、島津領検地において最大の貢献をなした人物である。だがその結果、殺された伊集院幸侃同様、多くの者の怨恨をかっていた。そのため誰しもが、危険を犯してまで盛淳を助けようとしなかったのである。結局盛淳は最後は自ら槍を奮い、かろうじて敵の重囲を脱する。島津勢はほどなく総崩れとなった。

「己! 小癪な奴腹め!」

 豊久は屈辱に顔を歪め歯ぎしりし、興奮のあまり馬上刀をぬいた。

「恐れながら、ここは我等にまかせてお立ち退きくださりませ」

 馬廻り衆の言葉も聞かず、豊久は馬をとって返し敵陣奥深くへと潜入。ついには鉄砲数発が当たり深手を負うこととなった。

 結局この日島津方は多大な犠牲を払いながら、何一つ得るものがなかった。島津豊久は命に別条なかったが、以後戦線離脱を余儀なくされる。


 その頃遠く上方では、徳川家康が亡き前田利家の後を継いだ前田利長に異心ありとして、問責使を送っていた。上方の情勢が日毎に不穏となる中、島津家だけが内乱に時を費やしている余裕はない。忠恒はなんとしても、できるだけ早くに庄内の乱を鎮圧しなければならなかった。

 

 


 


なお通説では島津家第十七代当主は島津義弘となっていますが、この件に関しては多くの学者から否定的な意見が出ており、恐らく事実でないと思われますので、この物語では第十七代当主は島津忠恒とします

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