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【豊臣政権編最終章】慶長の役~露梁海峡の戦い

 島津義弘は漆黒の闇の中にいた。眼下には海峡があり潮が渦を巻いている。海鳴りが雄叫びをあげ、潮の香りが心地よい。不意に義弘は一匹の巨大な龍がとぐろを巻きながら、眼下に飛来する光景を目撃する。その着地地点に炎があり、炎の中に一人の筋骨隆々たる武人の姿があった。

「汝が李舜臣か!」

 義弘は本能的に刀の鞘に手をかけた。

「汝、祖国のため数限りなく功をたてながら、俗人どものため命すら失いかけたと聞く。かような国のため尽くすことにいかほどの意味があるか。刀を捨て、国をも捨てれば、そなたは命永らえよう。戦するは無意味ごわんと」

 義弘は李舜臣を哀れむかのようにいった。

「笑止! ならば汝は何故に戦するか。汝の国の主は、己の欲を満たしたいがためだけに我国土を犯し、それがため汝は数多くのものを失った。汝こそ国に帰るがよい。この異国に屍をさらすは、汝の本意ではあるまい」

「己許せん!」

 義弘は刀をぬき、炎の中にある武人を斬ろうとした。

「かような刀さばきでは、わしを斬ることはできん!」

 李舜臣は同じく刀をぬき、軽々と義弘の剣を受け止めたかと思うと、再び飛龍と化し天へ消え去った。


 李舜臣は武装を解くことなく戦鼓を枕に、船上でしばし横になっていた。気がつくとそこはすでに露梁海峡だった。月灯りが実に鮮明に海峡を照らしている。すでに帰るべき地はなく、ほどなく自らの墓場となるであろう海峡を照らす月明りに、李舜臣はかすかに笑みさえ浮かべた。

 李舜臣にとっての痛恨事は、郷里忠清道の牙山での戦闘で、最愛の三男を失ったことだった。『乱中日記』には、

『天は何故かくも不仁なるか。臓腑みな煮えくりかえる。我死し汝生きるこそ理の常である。汝死し我生きるとは、なんぞ理にそむけるや。天地は暗黒となり、白日は光を失った……』

 と無念のほどが書き記されている。とにかく李舜臣は世のことごとくに絶望していた。今となっては李舜臣を支えるもの、それは日本軍に対する復讐の一念のみだった。

「見えましたぞ敵艦隊が……」

 と側近が、やや声をこわばらせながらいう。

 

 李舜臣は船上に祭壇をもうけて香を焚き、

「我死すとも、敵を殲滅すればまた怨まず」

 と必勝を祈願する。

 日朝両軍の水軍が激突したのは寅の刻(午前四時)のことだった。

 頭頂に玉鷲をいただく鉄冑をかぶった李舜臣は、自ら水軍の先頭をいく船の舳先に立つ。その号令一下、亀甲船が水上を滑るように、日本水軍の先陣を担う立花宗茂の部隊に襲いかかる。

「鉄砲隊射撃用意!」

 立花水軍の鉄砲部隊が、露梁海峡の潮の流れをもろともせず攻め寄せてくる敵亀甲船に、鉄砲を雨あられと浴びせる。その時突如として敵亀甲船が火を放ち、一個の炎上する海の悪霊と化し、立花隊の船に襲いかかった。亀甲船は火薬を大量に搭載しており、立花隊の射撃により暴発し、船もろとも炎を放ったのである。船が敵艦隊に激突し鈍い音をたてると同時に、格軍は一斉に海中に身を投じる。中には逃げ遅れる者もいたが、格軍もまた李舜臣とともに海峡に散る覚悟を決めており、死を恐れなかった。さしもの宗茂も半ば戦慄し、恐れを抱かずにはいられなかった。


「構わぬ敵は小勢ぞ、敵の大将船を狙え」

 素早く宗茂の命令が、各戦艦に伝令されていく。李舜臣は目立つ鎧で船の先頭に立ち、旗指物がきらびやかであったため、即座にそれが大将船であることが明らかになった。立花隊の戦艦が殺到するも、ただちに数隻の亀甲船が大将船の護衛にまわる。非常な接近戦となり鉄砲、火薬壺、まき束双方あらゆるものが攻撃手段として動員された。立花家家臣池辺彦左衛門は敵の船に飛び移り『一番乗り』と名乗りをあげると同時に、槍で内股から脳まで串刺しとされ絶命する。

「わしはここじゃ、見事わしの首を討ち取って手柄にせい!」

 激戦の最中、李舜臣は大音声をあげた。

「己、鉄砲隊前へ!」

 宗茂の号令とともに、鉄砲そして弓が李舜臣の大将船めがけて放たれた。そのうち数発が李舜臣に命中した。

「うぬ、わしは死なぬぞ! これしきのことで死なぬぞ」

 李舜臣は血反吐をはきながら絶叫し、そして倒れた。

「敵の大将討ち取ったり!」

 宗茂が李舜臣の討ち死にを確信し、勝ち鬨をあげた時だった。突如として予想外の事態が待ちかまえていた。

『どこを見ている小僧!』

 油断していた立花水軍の虚を突くかのように、一隻の亀甲船が弓の射程距離まで迫り、鉄の鎧に身を包んだ武人が弓を構えていた。宗茂は自らの命を狙う敵の武者の眼光に、一時死神を見た。次の瞬間武者の放った矢が命中し宗茂はその場に昏倒した。勝利を確信していた立花水軍の将兵達は瞬時にして沈黙する。死んだはずの李舜臣は影武者だったのである。


 大将が重傷を負った立花隊は非常な混乱に陥った。だがその時、丸十字の新手の船団が出現し朝鮮水軍を翻弄した。大将島津義弘はしばし潮の流れに耳を傾けていたが、静かに矢倉から立ち上がると、

「砲撃用意!」

 と気迫に満ちた声で号令を下した。不意に朝鮮水軍は、予想外の日本水軍による大砲の攻撃に動揺した。島津義弘は明人の技術者を捕虜とし、密かに仏郎機砲を製造させていたのえある。その威力は絶大で、朝鮮水軍の船は激震し、戦闘不能に陥るほど甚大な損壊をこうむる船が続出する。水兵達の多くが錯乱したかのような悲鳴をあげながら、露梁海峡の波に消えていった。李舜臣の不覚は、すでに死を覚悟しての出征であったため、敵の大砲に応戦する砲を積んでいなかったことだった。

「恐れるに足らず、見たところ大砲を積んだ船は三隻ほど、それらの船に構わず他の船を沈めよ」

 李舜臣の沈着な指示により、朝鮮水軍は動揺から立ち直った。

 

 やがて潮の流れが日本側にとって逆流に変わった。島津隊の水軍は次第に離散し、義弘の船はわずかな味方の船とともに敵中にとり残された。幾度が浅瀬に乗り上げそうになり、朝鮮側の水兵が義弘めがけて熊手を打ちかけ、投げ鎌を放ってくる。

「我こそは島津義弘なり! 敵の大将はいずこか!」

 死を覚悟した義弘は、抜刀して船頭に立った。

「日本の侍よわしはここじゃ!」

 義弘の声に応じるように、一人の黄土色の鉄製の鎧をまとった武人が、船頭に姿を現わした。だが同じ声は、義弘の船を取り囲む左の船からも、さらに右の船からも聞こえた。いずれも同じ鎧を身にまとっている。

『果たしていずれが影武者で、いずれが真の敵将か……』

 しばし躊躇した義弘だったが、この時軍旗に宿る鋭気と、李舜臣を取り囲み護衛する水兵達の緊張感から、中央の船の先頭に屹立する者を敵の大将と確信した。

「種子島久時はおるか」

「ここにおりまする」

 と島津家中において、鉄砲の名手として知られた種子島久時が片膝をつく。

「あれに見えるがまっこて敵の大将じゃ、あん者を狙撃せよ」

 久時は銃を構え着火する。義弘の指さす方角に狙いを定めると、失敗が許されぬため一呼吸してから引き金をひいた。次の瞬間鈍い音がした。同時に噴出する血潮がはっきりと見てとれた。明らかに致命の一撃だった。


「将軍!」

「将軍しっかりなされませ!」

 李舜臣側近達は一斉に集まり、すでに血の気のない李舜臣の体を抱きあげた。

「うぬ! 見事だ日本の侍よ……。国王に伝えてくれ、わしは敵に寸土たりとも与えなかったと……。わしはここに眠る。人は必ず死ぬが、わしの魂は……」

 さらに何事かいおうとしたが、すでにその力は残されていなかった。李舜臣はそのままゆっくりと、眠るように息を引き取った。李舜臣享年五十四歳。不意にその目に宿るものは、血の涙であった。

 李舜臣の甥にあたる李莞は、まるで本物の李舜臣が生きているかのように戦闘を継続し、やがて島津隊は海峡の出口にさしかかった。ほどなく勝利の太鼓と笛が狂ったように響いたが、手旗信号で各艦隊に李舜臣の死が知らされると、全ての船が沈黙し、慟哭が海鳴りをも打ち消した。


 ようやく夜明けをむかえようとしていた。島津義弘及び日本側の水軍は海峡をぬけ、ようやく外洋に達しようとしていた。

「命の心配なか、養生すれば治る」

 医学の心得もある義弘は、戦の最中負傷した宗茂の手当てを自らして、完治するのに多少時間がかかるが、生命の危険がないことを確信した。

「それにしても、討ち死にしたんはまっこて敵の大将でごわんしょうか?」

 種子島久時が疑念をていした。

「いや間違いなか、あれを見い」

 義弘とその側近達は一斉に東の空を仰ぎみて、思わず驚嘆の声をあげた。天空を朝日を浴びて、一匹の龍が昇っていく光景が目撃されたからである。

「李舜臣、敵ながらあっぱれといわざるをえまいて……」

 義弘は手を合わせ、龍が消えていった方角にしばし祈りをささげた。


 七年にも及んだ朝鮮戦役は終焉をむかえようとしていた。宣教師ルイス・フロイスは『日本史』の中で曰く、

『もっとも信頼できるかつ正確と思われる情報によれば、兵士と輸送員含めて、十五万人が朝鮮に渡ったと言われている。そのうち三分の一に当たる五万人が死亡した。しかも敵によって殺された者はわずかであり、大部分のものは労苦、飢餓、寒気、および疫病によって死亡したのである。朝鮮人の死者は知り得なかったが、死者と捕虜を含め、その数は日本人のそれとは比較にならぬほど膨大である……』


 島津隊は巨済島を発し、安骨浦、天城等を経由し十一月二十二日釜山に到着した。無事博多に帰還したのは十二月十日のことである。十二月二十七日には五大老にも謁見している。

「もし貴殿がいなければ、日本の軍兵十万余は、外土の枯骨となっていたことであろう。いやはや、まこと稀代の大功、異国・本朝に類がない」

 と徳川家康がいえば、他の大老達も義弘を絶賛した。

 島津家は朝鮮戦役での大功により、特別に五万石の加増まで得ている。だが義弘は素直に喜ぶことができなかった。島津家が払った犠牲はあまりに甚大で、義弘自身も最愛の息子久保を失ったばかりか、ようやく帰還した薩摩では、弟歳久の慰霊と対面しなければならなかったからである。義弘は戦うことの意味を改めて思わずにはいられなかった。



 

 

 



 

 

 



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