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【豊臣政権編其の十八】慶長の役~泗川城の戦い

 戦局は泥沼化し始めていた。朝鮮の国土の多くが焦土と化しただけでない。日本でも農村は働き手を奪われ生産力が激減し、船舶の大量動員は商業と物資の流通を妨げた。また兵糧と軍需物資が大量に朝鮮に運搬されたことにより、物価騰貴が至るところでおこった。豊臣政権の財政の悪化もまた深刻だった。

「あきまへんな、このまま明国・朝鮮との戦があと三年も続けば、豊臣政権は破綻してしまいますがな」

 と豊臣政権五奉行の一人石田三成は、算盤をはじきながら溜息をつくのである。

 この時代の日本は、いわば『黄金の世紀』であった。日本国中各地から金銀が大量に産出し、特に中国から伝来したアマルガム製法は、豊臣政権が大坂城・聚楽第・名護屋城等、巨大建造物を次から次へと造りだしても、なおあり余るほどの金銀を秀吉のもとへもたらす。 

 だが朝鮮戦役が長引くにつれ、豊臣政権も一昔前ほど財政に余裕がなくなっていた。それが石田三成という経理に秀でた官僚には、我が身にことのように痛切であった。豊臣政権の財政が傾き始めた背景には、一五九〇年遠くメキシコで大銀山が発見され、世界の銀価格が暴落し価格革命がおこったことも影響していたが、むろん当時の日本人の誰もが、そこまでは知る由もない。

 財政面から傾き始めた豊臣政権であったが、それでもなお新たに当時の豪奢な桃山文化を象徴する巨大建造物をもって人々を驚嘆させた。京都木幡山南西、指月の森に建設された伏見城である。

 伏見城は、慶長元年(一五九六)におこった慶長大地震によって一度全壊している。翌年ただちに再建され、それ以前を指月城、それ以後を木幡山城ともいう。金箔瓦葺きの五層大天守はむろんのこと、西に二の丸(西の丸)、東に名護屋丸、南に三の丸、増田曲輪、山里丸、北に松の丸、出丸、これを囲む御花畑曲輪、長束大蔵曲輪、弾正曲輪など十二もの曲輪を備えた堅固な要塞であったといわれる。そしてこの城塞はまた、太閤秀吉終焉の地でもあった。


 慶長三年(一五九八)秀吉は病んでいた。秀吉の死因については肺結核とも喘息ともいわれているが、くわしいことは定かでない。六月胃痛を患い床に伏す日が多くなり、八月には、もはや誰の目にも回復の望みがないとわかるほど衰弱してしまった。この一代の風雲児の泣き所は、成り上がり者の哀しさで、譜代の家臣をもたぬばかりか、後事を託すに足る親類縁者すらいないことだった。唯一頼りとした弟大和大納言秀長にも先立たれ、関白職を譲った甥の豊臣秀次には、その素行不良から文禄四年(一五九五)七月切腹を命じていた。後に残されたのは、まだ幼児に過ぎない秀頼ただ一人だった。

「何卒……秀頼君のことお頼み申す。秀吉それ意外に……思い残すことござらぬ……」

 死が近づくにつれ、秀吉は幾度も家康の手を握り哀願したといわれる。そして家康は目にうっすらと涙をうかべた。

「見え見えの空涙を……」

 と、もはや臨終近い秀吉の側近くに座す三成は、胸をかきむしられるような思いで、この光景に見入った。なにしろ家康の現在の所領は関東八カ国、石高にして二五五万石、豊家の日本全土の所領二四〇万石をも上回っているのである。そしてその率いるかっての三河武士団は、天下に精強をもって並ぶ者なしと恐れられてもいる。むろん秀吉が死ねば、国政の一番の実力者は家康をおいて他にないのである。

 秀吉はこうして家康始め五大老の面々に、哀訴ともとれる悲痛な叫びを繰り返す一方、突如として大坂城の拡張工事を命じたりもしている。大坂城の新たに拡張された城壁は、三里にも及んだといわれる。あれいは老衰が進んでいるとはいえ、秀吉ほどの人物のことである。自らの死後におこる何事かを予期したのかもしれない。

 慶長三年八月十八日、太閤秀吉死去享年六十二歳。秀吉の死は、朝鮮に知られることが憚られ、石田三成始め五奉行相談の上、翌十九日密葬されることとなった。夜明け前秀吉の遺体は赤い松明に導かれ、五奉行前田玄以等わずかな供につきそわれ、伏見城本丸から北に向かい、松の丸から名護屋丸に向かい、山里丸の方角に向かって移動した。日本史上最も成功した人物にふさわしくない、寂しい葬儀の列だった。

 

 筆者は何故秀吉が朝鮮出兵という、暴挙を画策したかということを延々考えてきた。戦国時代とは、単純にいえば土地争いの時代である。それが例え人道に反していようと、他国を攻め力をつけなければ、やがて他の何人かが強大となった時、降伏か滅亡しか道は残されていない。むろん秀吉もそのような時代に生を受け、成長し、やがては天下人にまでなった。

 だが秀吉は自らが支配者となった土地が、実は世界の中で極めて微小であることを、南蛮の宣教師などとの交流から知っていた。戦国の常識からしてみると、狭隘な土地を支配する者は、より広大な領土を持つ者により滅ぼされるより他ないのである。おりしも当時西欧列強は、勢力をアジアにまで拡大しつつあった。秀吉は滅ばされないため、日本国の領土を拡張するより他なかったのである。

 むろん晩年の秀吉に、信長の死から天下人にかけ上がった頃の頭のきれは失われていた。だが秀吉意外他の何人であれば、島国日本の国防という難題に立ち向かうことができたであろうか。有史以来、日本は幾度か国をあげて対外戦争に乗り出している。いずれも戦略的に狂気とも無謀ともとれる愚劣なものばかりで、それほど島国日本の国防とは難題である。興味深いのは、日本が他のいずれかの国と交戦するに及び、その多くに島津家及び薩摩人が関わっていることである。


 徳川家康は、秀吉の死と同時に朝鮮在陣諸侯の総引き上げを決定した。石田三成はそれ自体異論はないが、家康の命により撤退が決定されたことが気にくわない。そもそも元をただせば朝鮮戦役は、諸将の多くが反対する中、徳川家康が同意したことにより開戦が決定したといわれる。そして当の家康は西国大名が疲弊していく中、関東の地でぬくぬくと勢力をたくわえ、今また総引き上げの命を下すことにより、一人諸将の人気を得ることになる。つまり全てが家康の計算通りではあるまいか、豊臣家の行く末を思う時、三成は不安を抱かずにはいられなかった。


 秀吉の喪を秘し、在陣諸侯はじょじょに朝鮮から兵を退いていく。だが不幸なことに、日本側の諸将もまた知らぬうち秀吉の死は明国・朝鮮側の知るところとなる。むろん諸将の撤兵を、黙って見ているわけがなかった。

 島津軍は、この時慶尚南道の泗川倭城にいた。泗川倭城は三方海に囲まれた丘陵端部に築かれた。この城郭の奇妙さは、谷間をまたぎつつ丘陵上を横断して城域が区画されていることで、唯一丘陵続きとなる東側には、三重の堀が設けられていた。明らかに朝鮮側城郭の倉城を意識したものと思われる。城郭の北西には天守台そして黒塗りの三層天守があり、その他発掘調査により家臣屋敷、船着場、兵士小屋、井戸等の存在が明らかになっている。

 この城塞に明軍の将薫一元率いる二十万の兵が攻め寄せたのは、天正三年九月のことだった。対する島津軍は五千ほどしかいない。泗川城の前線の晋州城・永春城等の諸城はたちまちのうちに陥落し、守将の川上忠実は撤兵した。歴戦の将島津義弘も今度ばかりは死を覚悟した。主だった将を集めると、

「今日こそは皆死ね、おいも死ぬ。よかか今日こそ薩摩の軍法骨髄に徹せよ。一つみだりに隊を離れる者斬首、敵に背を向ける者も斬首、各隊各々の将が討ち取られた時は、その場にて腹を切れ」

 不意に義弘の脳裏に、すでに世にない弟歳久・家久等の顔をうかんだ。そして薩摩の山河を思ったが、今となっては帰郷もかなわぬ望みと思いを瞬時にして振り切った。


 一方明軍は泗川城の眼前まで押し寄せていた。一際大柄な体躯をした敵の将の一人が、銃口の射程距離こそおいているものの、大手口近くで大声で何事かを叫んでいる。ときおり城を囲む明兵の間から笑い声もおこった。言葉はわからないものの、島津方を挑発していることは明らかだった。

「己、許せん!」

 まだ若い島津忠恒は、敵に愚弄されていることが我慢ならない。

「恐れながら、殿はみだりに城から討って出るなと仰せでごわす」

 と側近が忠恒を制止する。

「なれど、ごげん屈辱は我慢ならん!」

「恐れながら、それがしに一つ策がござる」

 と申し出たのは、忠恒の剣術指南役でもある東郷重位だった。

 やがて重位は、わずか五十騎ほどの手勢で城から討ってでて、雲霞のような敵兵の前に立ちふさがった。

「面白い、かような小勢で挑みかかってくるとは、よほど命がいらぬと見える。その首もらった!」

 重位も大柄であるが明将はさらにそれを上回っていた。槍を高々と振り下ろすと、重位が頭上でそれを受け止める。両者は馬上渡り合うこと数合、やがて重位は馬を降り、俗に蜻蛉の構えといわれる左足を前に出し、剣を持った右手を耳の辺りまで上げて、左手を軽く添えるという八相に似た構えをとった。これに応じるかのように、明将もまた馬をおり刀を抜き殺気を露わにする。明軍数万、そして泗川城の島津兵も固唾を呑んで見守る中、

「覚悟!」

 と明将が刀を振りかざした時だった。暫時重位の姿が明将の前から消えた。神業に近い踏みこみの速さで重位は全身の毛を逆立てて、

「チェストォォォ!」

 と叫び、同時に明将は鉄の鎧ごと胴体から真二つに割れた。明兵は稲妻のような重位の剣さばきに瞬時にして沈黙した。これが後の世に伝えられる薩摩示現流の極意だった。

 示現流の理念は、初太刀にただひたすら己の『意地』と言われる気合いの全てをかけ、相手の反撃を一切考慮せず、ひたすら示現流独特の叫び声『猿叫』をあげて切りかかるものである。重位の剣術の師となった善吉禅師の伝書によると、一呼吸を分と呼ぶ。分を八つに割ったものを秒といい、秒の百分の一が忽、忽の十分の一が毫、そして毫の十分の一を雲燿といい、実に脈拍一回の八千分の一といわれる。

 明兵を驚愕させたのは、明将の返り血をあびた重位の剣が、もうもうと煙をはなっていたことだった。


「己かかれい! かかれい!」

 明軍の総大将薫一元は、ややむきになりながら全軍に総攻撃の命をくだした。重位は大柄な体躯に似合わない、素早い動作でただちに馬上の人となる。やがて明軍が銃口の射程距離まで迫った時、

「今ぞ! 放てぃ!」

 と、この光景を静かに見守っていた義弘が、鉄砲隊に射撃命令をくだした。

 明軍は怒涛のように城に迫るも、泗川城の守りは堅固で、狙いすました鉄砲隊の射撃によりいたずらに犠牲者が続出した。やがて島津忠恒が靼鹿毛の馬に乗り討って出る。本田与兵衛・鎌田次右衛門などもこれに続く。明兵二十万といえど島津軍はなかなか怯まなかった。

 戦国期の島津兵の剽悍さの理由として、江戸期末期の薩摩藩の軍学者徳田邕興は、鉄砲の活用をあげている。すなわち島津家中において、諸郷に属する衆中といわれる武士達は、一人残らず五、六匆玉の鉄砲を携帯し、郎党には弓矢・太刀を持たせて、主人の死角にあたる右脇を固めさせたというのである。そして実際に開戦となると、武士達が繰り抜きで鉄砲を放つ。それが一段落すると郎党に持たせた武具をもって敵に突撃した。

 また島津軍の陣立てが他家と際立っていた点として徳田邕興は、地頭衆中制のもと軍団編成の大部分が、専業武士によって構成されていたことをあげている。すなわち他家に比較して、専業武士の比率が極めて高かったことが、島津軍の強さの秘密であったというのである。


 明将薫一元は、鉄砲で武装した島津軍の備えを中々崩せないことに、時間の経過とともに次第に焦りの色をつのらせ始めていた。それどころかおよそ死への恐れの色が見えない島津軍に、むしろ圧倒的大軍であるにも関わらず、押され始めているようにも思えた。島津兵は各部隊の将が討ち取られるや、義弘の言葉通り各々戦場に胡坐をかき、その場で腹を切った。その光景を見ただけで明軍は茫然自失となり、島津軍はさらに勢いにのった。

 頃合を見計らって義弘自身城から討って出た。すでに討ち死にを覚悟していた義弘は、自ら軍の先頭で白刃をふるい死兵と化す。やがて一本の矢が義弘の肩に命中する。さしも義弘も高齢であることもあり、しばし馬上で苦しみに顔を歪めた。だが次の瞬間には胸中の野生とでもいうべきものが目を覚まし、虎のような勢いで明兵を斬りまくった。

「恐れながら父上、危のうごわす。退いてたもんせ!」

 忠恒が、さすがに義弘に部隊の後方にさがるよう説得したが、義弘には聞こえないも同然だった。剣撃の音……敵の叫び声……気がつくと義弘のまわりには誰もいなかった……。

 

 義弘は、すでに身に無数の傷を負っていた。我に戻った時疲労からよろめき、馬から転がり落ちた。肩で息をし、大の字になり天をあおぐ。

『どげんしたがか兄者、いつもらしくなかと?』

 どこまども澄みきった天の彼方から声がした。

「おう金吾(歳久のこと)か、おいは疲れたぞ。今そちらにいくけん、待ってたもんせ」

 そういうと義弘は、かすかに笑みをうかべた。

『なんばいうちょる、兄者にはまだやらなければならんことが、すんばいある」

『武庫(家久のこと)もおったがか、いや戦のことはもうよか、後のことは全て兄者と忠恒に任せて、おいも天の彼方で島津家の行く末ば見守りたか……」

 義弘は大の字になったまま静かに目を閉じ、しばし故郷薩摩を思った……。


 結局この戦で、五千の島津兵は見事二十万の明軍を撃退した。これにはさしも徳川家康でさえ前代未聞のことといい、明人もまた恐れ、後に島津兵をして『鬼石蔓子』と称したといわれる。

 

 その頃小西行長の順天城は、明の西路提督劉綖・朝鮮の陸軍都元帥権慄・そして李舜臣等の軍勢に陸海から攻撃されていた。李舜臣の不幸は、またしても讒言する者があり、国王から召喚状が届いていたことだった。報に接し李舜臣は、しばし叫びとも嗚咽ともとれる叫び声をあげた。それにつられて李舜臣配下の水兵ことごとくが慟哭した。

「よかろう今はこれまで、この李舜臣見事討ち死にし、死に華を咲かせてくれようぞ!」

 すでに秀吉の死が知れわたり、明将劉綖は戦闘意欲がないまま撤兵していた。だが死を覚悟した李舜臣はあえて軍令を犯し、露梁沖に逃げる小西行長の部隊を追った。その頃島津義弘は、すでに泗川城を出て興善城に到着していたが、立花宗茂・宗義智等と協議し、行長を救うためあえて船を出した。朝鮮戦役の最後を飾る決戦が近づいていた。



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