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【豊臣政権編其の十四】和平交渉の破綻

 晋州城攻防戦の後、朝鮮在人諸侯は南岸一帯に沿って相次いで城を築く。朝鮮倭城の出現である。島津氏は巨済島城の在番を命じられた。

 その頃日本では、亡き久保に代る島津家後継者として、島津義弘の三男島津忠恒が、文禄三年三月には聚楽第で秀吉への謁見も許されている。そしてその席で、新たに朝鮮渡海を命じられることになる。一方朝鮮から帰国した石田三成は、十八歳の忠恒のお目付け役として島津家中から人を選び、共に朝鮮へ渡らせる手筈を整えた。すなわち鎌田政近・伊集院久治・比志島国貞の三人だった。いずれも龍伯の信任厚い『鹿児島衆』である。

 忠恒は即座に朝鮮へ渡る予定であったが、その前に縁談があった。相手は亡き久保の未亡人で、龍伯の三女亀寿である。龍伯に男子はいない。義弘も久保を失った。いわばこの縁談は、島津家の後継者として忠恒の地位を、確固たるものとする狙いがあった。

 八月忠恒は名護屋に到着した。ここでまず忠恒が家臣に命じたことは、巨大な蹴鞠の庭を造らせることだった。九月には義弘の待つ巨済島に到着するが、ここでも講和交渉で停戦中であることもあり、忠恒はおおいに蹴鞠を楽しんでいる。後に島津に名高い暗君として名を残すこととなる忠恒は、実に蹴鞠数奇であった。


 石田三成が忠恒のお目付け役として、龍伯側近中の側近ともいえる三人の鹿児島衆を選んだのは、いよいよ本格的に島津領の検地を実施するにあたり、これら龍伯側近を遠ざける意図もあった。財政難にあえぐ島津家では、朝鮮への軍役も思うにまかせず、本格的なてこ入れを行わないことには、御家の将来すら危ぶまれる。これは巨済島の義弘のたっての願いでもあった。

 検地の結果、公表二十一万五千石とされてきた島津領は、五十七万九千石であることが判明した。それまで地侍や寺社が勝手に横領してきた年貢が一切廃止され、全てを島津家が統一して取り立てることとなった結果、実に三十万石以上の増加となったのである。一方で年貢徴収権を失った地侍の多くは、島津家家臣団に自動的に組みこまれることとなった。

 むろん島津家中からは多くの不協和音がおこる。太守龍伯からして、極めて非協力的であった。島津家と中央政権とのパイプ役ともいえる伊集院幸侃(忠棟)、さらには京都出身で島津家家臣として新参者ながら、かって義久が泰平寺の秀吉のもとへ赴いた際も同道した長寿院盛渟は、半ば孤立無援の中、強制的に検地を実行した。この三人はいずれも、島津家中から深い恨みを買うこととなり、後日の運命に大きく影響することとなるのである。

 太閤検地により、島津家はようやく近世大名として脱皮への第一歩を踏みだす。それが慶長の役での島津家の活躍を土台から支えることになるが、一方で義弘と龍伯との関係は、島津家の路線をめぐり、以前よりさらに冷却してしまう。これも後年の島津家の行く末を、大きく左右するのである。


 明国と日本との講和交渉は難航していた。先に秀吉は明国皇帝に対し、朝鮮四道の割譲、朝鮮王子が人質として日本へ赴くこと等、明側としては到底受け入れられない講和条件を提示していたが、これを明側の沈惟敬は、当たり障りのないものに改竄して、明朝廷に公表した。ここに不幸な行き違いが生ずる遠因ができあがった。

 慶長元年九月二日、秀吉は明使節を大坂城で引見した。秀吉は明国皇帝から国書と金印を賜り、冠服を着用して謁見の式場にのぞんだ。秀吉が明の官制に通じていれば、明国皇帝から送られてきた赤の官服が、秀吉の望む明国皇帝のものではなく、国王の官服であることを承知できたであろうが、むろん秀吉は、そのようなことは知るよしもない。

 謁見では明国使節が中央の右に座り、徳川家康・前田利家等が左に着座した。盃が出された後、猿楽が演じられ、肝心の明国皇帝の国書の朗読が始まった。国書は鹿苑僧録(五山の長官)で、外交プレーンでもある西笑承兌が読み上げる。ところが『茲に特に汝を封じて日本国王と為す』というくだりに至り、秀吉の顔面はみるみるうちに紅潮した。実はこの箇所は講和交渉の大半を司った小西行長が、承兌に対し、『明国皇帝』と読むよう念を押した箇所であった。さらに秀吉の要求はことごとく無視されており、秀吉の我慢も限界に達した。

「小西はどこだ! 小西を呼べ!」

 秀吉は拳を震わせながら、小西行長を呼びつけ、今にも手討ちにせんばかりの剣幕をしめした。行長は危ういところであったが、この時、石田三成以下三奉行同意の上であるという証拠の書状を差し出したので、かろうじて事なきをえる。

 小西にとっての不幸は、この人物が日本の一武将に過ぎず、外交を司るなんら強力な権限を保持していなかったことである。もし徳川家康か、あれいは前田利家が外交を担当していたなら、朝鮮戦役の行方も大きく変わっていたかも知れない。しかも行長は外交を司る一方、前線指揮官をも兼務しなければならず、ここに日朝の不幸の隠れた原因があった。


 和平交渉は破綻しようとしていた。九州・四国の大名等に再侵攻の命がくだされる。今回の遠征軍はおよそ十四万人。前回と異なることは、遠征の第一目標が、秀吉が『赤国』と呼んだ全羅道の攻略におかれていることだった。

 慶長二年(一五九七)一月、慶尚右兵使金応瑞のもとに、一通の奇妙な密書が届いた。

『清正七千の軍を率いて、初四日すでに対馬にいたる。順風ならばすなわち、不日まさに渡らん。前日約束のことすでに完備せりや否や。近日続けて順風、海を渡るにかたからず。舟師すみやかに進みて巨済島に泊し、清賊(清正のこと)渡海の日をうかかうべし』(宣祖実録・金応瑞報告書)

 手紙の主はなんと小西摂津守とあった。すなわち行長は、敵である朝鮮国に清正渡海の日時を密告したわけである。

「恐れながら、それはいかになんでも利敵行為ではござりますまいか?」

 さしも娘婿の宗義智も、義理の父のこの行動だけは容易に納得できなかった。

「むろん責めは私が負う。朝鮮の水軍を司る李舜臣が、もし清正と戦することになり、双方ともに傷つけば……」

「なるほど清正殿が滅べば我等の外交に都合よく、李舜臣が死ねば戦に都合よい」

 義智は相槌をうったが、なお義父のこの利敵行為ともとれる行動に疑念を払拭することができなかった。


 だが事態は、当事者の誰も予想しえない展開を見せ始める。金応瑞が小西行長の臣梯七太夫から密書を受け取ったのが一月十一日。金応瑞は宣寧にある元帥府にかけこみ、事の仔細を報告する。ただちに幕僚が召集され、会議が終わったのは深夜だった。金応瑞は馬上の人となり、李舜臣のいる閑山島まで約八十キロの道を駆けた。翌十二日昼前、金応瑞は李舜臣に会い事を説明し、国王の攻撃命令を伝えた。李舜臣はしばし目をつむり沈黙したが、やがて、

「密書の件、恐らく敵の謀略でござろう」

 とやや低い声でいった。

「小西行長と申す者、信用するに足る人物ではござらん。今までもちかけてきた和平交渉は、ことごとく時間稼ぎのための小策で、所詮小西は秀吉の忠実な僕」

「何を申すこれは王命であるぞ!」

 金応瑞は声を荒げたが、李舜臣は再び目をつぶり沈黙してしまった。

 

 李舜臣が、行長のある種の利敵行為に疑念をいだいたのは、無理のないことだった。だが李舜臣がこの作戦に反対した理由は、それだけではなかった。閑山島から清正が上陸するであろう釜山まで、海上往復約二百キロ。釜山を攻撃して、その日のうちに閑山島に戻ることは不可能である。船舶はすべて人力で動き、格軍という漕ぎ手が操作するが、むろん人力には限界がある。夜は格軍に休息をあたえねばならず、そのためには、どうしても中間拠点が必要なのである。

 李舜臣は、五年前の釜山浦作戦の失敗を思いだしていた。敵に勝利はしたものの、深追いしすぎて帰途についたのは夜のこと。格軍の疲労は極限に達し、手の平は血に染まっていた。陸地はすべて敵の占領地で、せんなく洋上にでたところ、強風のため艦隊は大混乱となる。ようやくたどりついた加徳島は、これまた敵の占領地となっており、中間拠点として使えない。

 もし釜山浦での作戦に失敗すれば、日本軍は制海権を握ることとなり、朝鮮への補給も容易になる。それよりも閑山島に兵を待機させ、日本水軍の南西海への進出を阻止し、補給を絶てば、やがて日本水軍は壊滅する。

 結局李舜臣は、この作戦に『諾』とはいわなかった。一月十三日、果たして清正は対馬を出港し、釜山西隣の多大浦に出現した。これにより李舜臣はたちまちのうちに窮地に陥る。朝鮮の朝議は李舜臣を職務怠慢とし、王命に背いた罪により、ついに逮捕・投獄とするのである。


 六月、都体察使の李元翼の命令により、朝鮮水軍は日本軍を討つため艦隊を出撃させた。だが李舜臣はすでにいない。朝鮮水軍は無能な将元均の指揮のもと、日本軍を迎えうたなければならなかった。



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