【豊臣政権編其の十一】文禄の役~閑山島沖海戦
この時代、太平に弛緩しきった朝鮮王朝を蝕んでいたものに、東人党と西人党の対立というものがあった。これは李氏朝鮮が生んだ二大儒者、すなわち主理派の李滉と主気派の李珥、いずれの教えと正しいと信じるかの問題である。両者の対立は根深く、突如降ってわいたかのような日本との外交問題で、朝鮮側が後手、後手にまわったのも、両者の対立がからんでいる。だが朝鮮両班階級の中には、いずれにも染まらず、ひたすら国難に立ちむかおうとする無骨な軍人もいた。全羅左道水使李舜臣もまた、そのような無骨な軍人の一人だった。
朝鮮王朝の水軍の編成を見ると、三面海に囲まれた朝鮮半島の南部に、四つの水営が置かれている。すなわち、東萊に置かれた慶尚左道水使に朴泓が、巨済島加背浦に置かれた慶尚右道水使に元均が、海南に置かれた全羅右道水使に李億祺が任命されている。そしてもう一つ、麗水にある全羅左道水使のポストは、永らく太平の世が続いたため空席となっており、ここに左議政柳成龍の強い推薦により、李舜臣が異例の特進でおさまった。これは実に柳成龍の慧眼といわざるをえない。
だが異例の大抜擢を受けた李舜臣であったが、日本の水軍と干戈を交える前に、悩みの種が味方であるはずの朝鮮水軍内部にあった。
慶尚右道水使元均は、実に酒好きな男だった。夜毎宴会を開き、朝鮮両班階級のお抱え芸者である妓生に舞いを踊らせ、まるで軍務のことなど眼中になきがごとき有様であった。
ある夜、李舜臣は突如として元均を訪問し、宴会の席上に姿を現わした。元均は大食漢で肥満していた。そして人一倍臆病であったといわれる。酒が回り前後不覚の元均が気がつくと、そこに甲冑に身を包んだままの、体格のたくましい武人が立ちはだかっていた。
「李舜臣ではないか、真面目一徹もよいが、たまには軍務を解いて酒でも飲まぬか?」
元均がいうが早いが、李舜臣は刀を一閃、差し出された杯を両断してしまった。
「未曾有の国難でござる。これを職務怠慢といわず何と申されるか! 陛下に対して不忠と思われぬのか!」
この李舜臣の大喝に元均は萎縮し、座は瞬時にして静まりかえった。舞っていた妓生達も一斉に平伏した。
李舜臣という武人の奇妙さは、自らが勇気・知略・胆力のいずれにも優れていたばかりでなく、いかに精神が虚弱な者の勇をも、奮いおかさずにはいられなかったという点にある。大喝された元均も翌日から酒断ちし、真剣に軍務にとりくむこととなった。
李舜臣はこの年四十八歳。すでに一度日本の水軍と刃を交えている。文禄元年五月のことで、場所は巨済島周辺。巨済島は約三九〇平方キロメートルの巨大な島で、周囲はリアス式海岸となっている。
五月七日、朝鮮水軍の先頭をいく見張りの船が、突如として合図の神機箭を天高く打ちあげた。白い煙が瞬時天空を横切る。そこには藤堂高虎の軍船約五十艘が停泊していたのである。おりしも高虎の部隊は、巨済島東岸の玉浦に上陸し、同地で放火、略奪等を繰り返していた。そのため李舜臣の水軍に気付きはしたものの、兵員全てが陸から上がり、戦闘体制に入るまで時間がかかった。李舜臣はこれを好機と見、ただちに全艦隊を一列に連ねる一字陣を敷く。時を経ることなく、朝鮮側の凄まじい艦砲射撃が開始された。虚を突かれた高虎の水軍は壊滅し、二十六艘の船を失い夕刻逃げ去った。
さらに李舜臣は帰路、熊浦の洋上で偶然日本の大型軍船五艘を発見、そのことごとくを撃沈した。そして八日未明には、固城郡の赤珍浦でも大型軍船九艘、中型軍船二艘を沈没させる。
これが李舜臣の第一次出兵といわれるもので、快勝した李舜臣が大きな自信をもったことは確かである。
この頃すでに、陸の上でも朝鮮側の反撃が始まっていた。それは李氏朝鮮王朝の正規兵によるものではなく、民間が組織した義勇軍によるものであった。朝鮮の各地で民衆が山に逃げ込み、ゲリラとなって果敢に抵抗した。無人の田畑は荒れ果て、日本側の各諸将は、兵糧米の不足にも悩まされることとなる。
李舜臣は日本軍の大挙襲来という、この非常時が来るまで、実にうだつの上がらない軍人だった。それは生来の生真面目さから東人、西人いずれにも属さず、両班階級の上位にある者と、しばしば衝突したからでもある。彼は生涯で幾度か、腐敗しきった官界を後にし、隠遁して花鳥風月を愛でる日々を送る機会があった。特に四十四歳の時、全ての職を辞し幼少時を過ごした忠清道牙山に籠もった時は、山河の清らかさの中に、何やら悟りらしきものを開いた節がある。そして日本軍に荒らされた後の漢城を目撃し、拳を震わせた。そこは一面の廃墟で、血の匂いとともに、見るも無惨な死骸が山をなしていた。李舜臣が手にした剣に記された文字がある
三尺誓天 山河動色
一揮掃蕩 血染山河
李舜臣の第二次出兵は五月二十九日のことだった。日本側の部隊は、水陸並行で釜山から金海、金海から馬山、馬山からさらに泗川と進み、昆陽に迫っていた。昆陽から李舜臣の本拠地麗水までは、直線距離にして約五十キロである。李舜臣はなんとしても、日本軍の進出を食い止めなければならなかった。
その日、泗川周辺は深い霧につつまれていた。日本側の船は約十三隻。この時日本水軍の不幸は、見張りに出した偵察船が李舜臣に発見され、すでに海中に没していたことだった。未明霧が晴れた。そして日本側の将兵は思わず息を飲んだ。
「見ろなんだあれは! なんだあの船は!」
それは李舜臣がこの日のため、船大工に急ピッチで建造させた亀甲船と命名された、日本の将兵が今まで見たことのない奇怪な形をした船だった。
亀甲船は全長約二十メートル、幅四メートル、舳幅三メートル、艫幅三メートル、高さ四メートル。李舜臣と共に海戦に参加した甥の李芬は、『李舜臣行録』の中で亀甲船について、
『亀甲船は、板屋船(当時の朝鮮側の主力戦艦)とほぼ同じく上を板で覆い、その板の上には十字型の細道が出来ていて、やっと人が通れるようになっていた。そしてそれ以外は、ことごとく刀錐をさして、足を踏み入れる余裕も無い。前方には竜頭を作り、その口下には銃口が、竜尾にもまた銃口があった。左右にはそれぞれ六個の銃口があり、船形が亀のようであったので亀甲船と呼んだ。戦闘になると、かや草のむしろを刀錐の上にかぶせたので、敵兵がそれとも知らず飛び込むと皆刺さって死んだ。また、敵船が亀甲船を包囲するものなら、左右前後からいっせい砲火が浴びせられた』
と、書き記している。
亀甲船は船足が日本の船と比べて異常に速く、動きが流麗である。日本側は海上で翻弄され、さらには体当たりを食らい多くが座礁した。この時李舜臣は、日本船の致命的な弱点に気付いた。竜骨がない日本船は衝撃に弱く、船と船とのぶつかり合いに予想外に脆いのである。
李舜臣は沈没していく日本船をまの当たりにしながら、酒を口にしていた。李舜臣もまた酒を好んだが、それは戦場で勇を奮いおこすための酒だった。飲むほどに胸中の憂いが深くなり、不意に脳裏を、廃墟と化した漢城の光景がよぎった。李舜臣はついに激し立ち上がった。
「さあこい倭兵! 見事わしを討ち取ってみろ!」
楼上に姿を現わした李舜臣は、両手を広げ大音声をあげた。直後、一発の流れ弾が李舜臣の左肩を貫通した。李舜臣は片膝をついたが、なおも仁王のような形相で前方をみすえた。
この日、日本側は十二隻の船を失った。ほぼ壊滅といっていい。さらに六月二日、李舜臣は弥勒島の南岸唐浦というところで、亀井武蔵守率いる水軍を撃破、亀井武蔵守は討ち死にした。六月五日には、朝鮮本土と巨済島の間にある見乃染でも日本水軍を壊滅させ、大将の来島通之は全身に矢を受け憤死した。
相次ぐ敗報は、日本側の将兵に衝撃を与えずにはいられなかった。朝鮮水軍は竜頭をかざした奇怪な船をおし立て、水軍を操るのは李舜臣という、並々ならぬ将であるという。日本側の将兵は覚悟し、釜山基地の西方三十キロの熊浦という基地に、脇坂安治を急行させた。脇坂安治に続く第二軍は九鬼嘉隆、第三軍は加藤嘉明である。大型層楼船七艘を含む約七十艘からなる大船団であった。
脇坂安治の水軍は弥勒島の唐浦を目指した。そして巨済島の西方閑山島近くで朝鮮船団を発見する。この時朝鮮側の水軍は、全羅右道水使李億祺と慶尚右道水使元均の船を合わせて約六十艘、その中に十四艘の亀甲船が含まれていた。
脇坂安治は有名な賤ヶ岳の七本槍の一人である。だが同じ七本槍の加藤清正が肥後半国十九万石、福島正則十一万石に比べ、淡路洲本三万石の主でしかない。焦りがあった。そしてその焦りは、安治をして致命的な失態へと至らしめてしまうのである。
一方李舜臣は、日本軍来襲に際し素早く伝令をだし、六十艘の船のうち四十七艘を近隣の花島、大竹島等の島影に隠してしまった。
脇坂安治は前方の敵水軍を凝視した。そこには数えるほどの船しかいない。
「よし攻撃開始だ、あれしきの船たちどころに蹴散らしてくれよう」
「恐れながら、九鬼嘉隆殿、加藤嘉明殿の来着を待ってからにするべきでは」
側近が制止したが、安治は聞こうとしない。
「なにをいうか、あれしきの船隊わし一人で十分じゃ」
脇坂安治の水軍は先に攻撃を開始した。さすがに数の差は大きく朝鮮水軍は後退し、ついには逃げ出した。
「追え、一艘たりとも逃がすな!」
『輪違い』の旗をなびかせ、脇坂安治の水軍は十三キロもの距離を追走した。追撃しすぎたといっていい。やがて朝鮮水軍は、やや広い閑山島の沖合いに出た。李舜臣はこの時、花島の影に隠れた板屋船の楼上にいた。頭頂に玉鷲をいただく鉄冑をかぶり、黄土色の同じく鉄製の中国風の鎧をまとった李舜臣は、
「天よ我に加護を……」
と一言つぶやき、ほぼ同時に剣をぬく、
「全艦出撃!」
号令一下、大太鼓が鳴り響き、督戦旗や令旗が一斉に風になびく。その時島影に伏せていた朝鮮船団が一斉に出現し、あれよという間に脇坂安治の船団を取り囲んだ。謀られたと気付いた時はすでに遅かった。朝鮮水軍は、海上に鮮やかな鶴翼の陣を敷いたのである。
「大砲用意!」
再び李舜臣の号令が全船団に伝えられた。朝鮮国は陸地での戦いこそ、日本の火縄銃に歯が立たなかったが、大砲の技術では日本側をはるかに凌駕していた。天字砲、玄字砲、地字砲、朝鮮水軍の砲台が一斉に火を噴き、構造の弱い日本の船舶は激震した。着弾の際の衝撃で日本軍将兵の多くが宙高く放りだされ、そのまま海の藻屑と化す。そして多くの兵士が、逃げ場のない船の中を、必死に砲撃から逃れようとあがいた。やがて亀甲船が眼下に迫ってくる。日本兵は戦意を喪失しパニックに陥った。
脇坂安治は後悔し、全船に撤退を命じた。狭い海峡の水路に逃げ込むことさえできれば、朝鮮水軍の猛威をかわすことができるはずである。ところがこの時、李舜臣の待ちに待っていたことがおこった。潮の流れが変わったのである。むろん李舜臣は潮流まで計算済みだった。
逃れることができなくなった脇坂安治の水軍は、今はこれまでど必死の抵抗をこころみた。だが勝敗はすでに決したも同じだった。実に七十艘の船のうち、六十艘近くの船を失ったのである。脇坂安治もまた、命からがら閑山島沖を脱出するのが精一杯だった。
この閑山島沖海戦は、文禄の役の戦局を大きく左右することとなる。単に一戦場で大敗を察したというだけではない。以後日本側は制海権を李舜臣に握られ、日本からの兵糧・物資の輸送にも支障をきたすこととなるのである。日本の将兵は、この敗戦で水軍提督李舜臣の名を心胆に刻むこととなった。