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【豊臣政権編其の十】文禄の役~加藤清正の咸鏡道侵攻

 八道国割りの後、加藤清正は北方にルートをとる。咸鏡道への道に立ち塞がったのが、難所中の難所、馬息嶺山脈だった。

『行程三十里、深谷の人の声なきに、行き迷い、行き向く、朦朧として雲遮り、霧覆う、従卒前後に迷惑せり、この時肥前・肥後の人馬、先陣・後陣、行伍乱れて、衆口喧々たり、軍卒兵糧乏しく、上下気疲れ、足なえて、ようよう山下に下る』

 というのは、加藤清正に従い、この難所を越えた鍋島勢の記録である。やがて一行は、ようやく咸鏡道・安辺府に至った。ここで久方ぶりに酒肉を口にする機会を得たと、鍋島勢の記録にある。


「まったく、いかに太閤殿下の命とはいえ、かような難所を越えねばならぬとはのう」

 酒が回るにつれ、上座の清正は愚痴が多くなり始めた。

「わしも肥前の草深い地に生まれ、よもや異国で、このような危難にさらされようとは、夢にも思わなんだわい」

 と、まだ疲れがまだ完全にいやされてない様子の鍋島直茂がいった。

「それはそうと、貴公には礼を言わずばなるまいて」

「礼とは、何のことでござるか?」

 直茂がいぶかしんだ。

「先日の忠州での軍議のことよ。あの時、そなたが止めに入らねば、わしはあの薬売りを斬っていたであろう。さすれば太閤殿下の命に背くばかりか、わし自身腹切って詫びても、なお詫びきれぬほどの過ちとなっていたであろう」

「なに当然のことをしたまで、かって拙者が仕えていた主君は、激情にかられやすい方で、拙者が諌めても、諌めても、なお人に冷酷な処断や誤った仕置きを繰り返し、ついには身の破滅をむかえてしまわれた。清正殿、将たる者常に堪忍が大事でござるぞ、人間時として、一度の過ちが命取りになるものでござる」

 と五十五歳の直茂は、三十一歳の清正に説教じみたことをいった。

「うむ、わしもまだまだ未熟であるな。血の気が多いこと反省せねばなるまいて、そなたもわしくらいの年の頃は血気盛んだったのであろう。今山の合戦のおりのことは聞いておるぞ、わずかな兵で敵本陣に斬りこんだとか」

「いや、なに語るほどのことではござらん」

 直茂は、やや照れくさそうな顔をした。

「わしは是非とも聞きたいものよ、そなたの武勇をのう」

 清正がどうしてもというので、直茂は今山合戦の際の様子等を詳しく語って聞かせた。この夜両者は、合戦のことや昔話などを遅くまで語り合うのである。


「飲んだのう、今宵はよき知己を得て実に満足じゃ」

 清正は、赤ら顔をさらに赤く染めていった。

「実はの、朝鮮国の王子臨海君と順和君と申す者が、この咸鏡道の奥地へ、逃げ込んだという情報を耳にした。わしは両名を捕らえて、是非とも太閤殿下への手柄にしたいと思っておる。どうじゃ、共に二王子の後を追うつもりはないか?」

 直茂は、しばし黙考した。

「拙者は、ここに残り申す。我が主政家様は、お世辞にも賢い方ではござらん。わしがおらねば龍造寺家は立ちゆかんのでござる。故に拙者、これ以上奥地に赴くわけには参りませぬ」

「そうか、主君のため何処へでも赴くも忠義、命を惜しむも忠義。なにぶん遠い異国の地のこと故、我等明日をもしれぬが、生きてまみえる機会があったら、また共に酒を酌みかわそうぞ」

 かくして清正は直茂等と別れた。

 

 手勢一万を率い、清正はさらに咸鏡道の奥地へと進む。やがて城津に至り、海汀倉(現在の咸鏡北道大津市)に森本儀太夫を大物見にだした。大物見とは、現代でいうところの武力偵察で、儀太夫は三百ほどの小部隊を率いていた。

「申し上げます。前方に敵らしき軍勢が集結しております」

「うむ、して数は?」

「およそ五千にござりまする」

「しまった!」

 儀太夫は思わず声をあげた。清正の部隊は、ここに至るまで敵らしき敵に出会うことがなかったため、油断してわずかな手勢で大物見を決行したのである。それは北道兵使・韓克諴という者が率いる部隊だった。

「いかが致しまするか? 敵は五千、我等は三百」

「致仕方あるまい。なんとしても本隊の到着まで時をかせがぐしかあるまい。わしに策がある。倉庫の米俵を山と積み上げ防塁を作るのじゃ。そして一刻も早く、このこと清正様の本隊に伝えるのじゃ」

 海汀倉というのは、文字通り海浜の倉庫という意味で、ここには大量の米が保管されていた。やがて槍を構えた韓克諴の前衛部隊が静かに、そして殺気をたぎらせながら、ゆっくりと接近してくる。

「まだぞ、まだ撃つな、わしがよしというまで待て」

 儀太夫は、血気にはやる揮下の将兵達を制止しながら、時が来るのを待った。

「今ぞ撃てい!」

 儀太夫の合図とともに、鉄砲隊の弾幕が一斉に火を噴いた。韓克諴の前衛部隊は一時鉄砲の威力の前に崩れたが、次から次へと新手の部隊が弓矢を放つ。日本の弓と比較し、朝鮮兵の使用する弓は、はるかに短いが、そのため矢つぎは数等速い。まるで眼前の視界を覆い隠すかのような矢の嵐である。やがて夕暮れ時を迎え、韓克諴の部隊は一旦背後の山へと退いた。明朝期して総攻撃を開始するためである。

 

 そのころ清正率いる二千の本隊は、急ぎ海汀倉を目指していた。

「申し上げます。敵は一旦攻撃を休止し、山へ退いたとのことでござりまする」

「そうか、恐らく敵は夜明けとともに総攻撃をかける腹だろう。よし我等が接近していること、決して敵に知られてはならぬ」

 清正の部隊は鐙のみずきをしばり、くつわをしばり、馬の口にパイをふくませ、急ぎ海汀倉を目指す。やがて霧がでた。清正はしめたと思った。天が自らに味方したと思った。漆黒の闇の中、清正の部隊はついに敵の籠もる山の麓にたどりつく。麓から海に至る方角は泥沼、他の三面は小松林や草原である。黒革威の鎧に銀のたたきの長鳥帽子形の兜をかぶった清正は、夜明け前、槍持ちが差し出した槍に手をのばし、床机から立ち上がり、それを地に叩きつけると、

「今ぞ、かかれい!」

 と大号令を下した。

 むろん敵方の朝鮮兵は、まだ夢覚めやらぬ中にある。清正の部隊の奇襲という非常事態に、何がおこっているのかわからず、上下問わず混乱の極みに達した。逃げる者、慌てて槍を捜す者、やがて銃声が山に響き渡った。鉄砲の威力に慣れていない朝鮮兵は、それだけで戦慄する。こうなると、もう戦どころの騒ぎではない。

 清正は、海に通じる沼地の方角だけ兵を配置していなかった。逃げる朝鮮兵は一斉に沼地の方角に殺到する。そして押し合いへし合いし、深い沼地に沈んでいく。敵将の韓克諴は、かろうじて脱出に成功したが、後に味方の朝鮮人の裏切りにより、囚われの身となってしまうのである。


 清正はさらに、朝鮮二王子が太白山脈を越えて逃亡中という情報を手に入れ、自らも太白山脈を越えた。咸鏡北道の海岸線に沿って進軍し、やがて豆満江の東に位置する会寧に到達する。文禄元年七月のことである。

 清正は後に、朝鮮の人々から『鬼上官』と仇名され恐れられることとなるが、軍規に関しては朝鮮在人諸侯の中の誰よりも厳格だった。当時李朝による圧制で人々は苦しみ、むしろ清正の部隊を歓迎したといわれる。そしてついに会寧で鎮撫・鞠景仁という者が、朝鮮の二王子を捕縛し、清正に身柄を差し出すこととなるのである。

 清正は報に接し、会寧城に入り縄で後手に縛られた二王子と面会した。顔には殴られたらしい痣まであった。鞠景仁は、いかにもいかめしい面構えで清正を出迎えたが、その時、予想だにしていない事態がおこった。清正は剣を抜くと、両王子の縄目を切り裂き、

「ここにおわすは、そなたらの国の主であろう! 何故かような恥辱を与えるか!」

 と、鞠景仁の方角にむかって大音声をあげた。言葉は通じないが、鞠景仁は清正の怒りが自らに向けられていることを悟り、一時呆然とした。

 清正は二王子を丁重に扱い、さらに将兵達にも、二王子と共に会寧まで逃げてきた女官等に、指一本触れぬよう厳命したといわれる。


 清正は、なおも北上し、ついには豆満江をも越えて兀良哈オランカイに到達する。ここで日本の富士によく似た山を目撃し、拝礼したという言い伝えもある。

 兀良哈は女真族の土地である。そこはまさに未知の領域といっていい。清正は、秀吉の最終目標である明国攻め入りのためのルートを探るため、属に十三城といわれる砦を構え待ち受ける女真族とも、戦するより他なかった。

「あれが女真族の砦にござりまする」

 側近が指さす方角をみると、炊飯の煙がもうもうとたちこめ、砦の前には騎馬武者が数騎、辺りを警戒するかのように旋回している。

「わしはあまり詳しくないが、この北方に住まう者達は、しばしば唐土を侵し、その率いる兵は唐土の兵より強いと聞くが誠であろうかの?」

 そういうと清正は、しばし女真族の砦を凝視した。

 中国史は、一面北方に住む遊牧民との抗争の歴史でもある。荒涼とした北方に住む遊牧の民は、常に厳しい自然環境にさらされ、だからこそ鍛えられ、豊かな中原の地を紀元前の昔からしばしばおびやかした。女真族はトゥングース系の民族で、十一世紀中国でいうと北宋の時代、完顔阿骨打という名の英傑の出現により、隷属していた同じ遊牧民族契丹の支配から抜け出し、北宋と連携し契丹を滅ぼすに至る。さらに北宋をも攻め、ついには皇帝を虜とし、中国の北半分を占拠して金という国をつくった。女真文字といわれる、独特な文字をつくったことでも知られるが、やがて新たに興ったモンゴルと南宋に南北から攻められ、一二三四年滅亡をむかえる。それ以後女真は、野人女直、建州女直、海西女直にわかれ、半農半猟の生活を続けながら、十六世紀のこの時代まで、細々と命脈を保ってきたのである。

 

「あれいは今度の敵は朝鮮国の兵のように弱兵ではなく、相当手強いかも知れぬ。交渉をこころみようにも、我等の陣には敵の言語に通じた者がおらぬ。さてどうしたものか」

 軍議の席上、清正はまったく未知の敵に困惑した。

「恐れながら、我等この地にとどまっている限り、敵も黙っているわけにはいきますまい。まずは手合わせしてみて、それから強いか弱いか判断するしかござりません」

 と森本儀太夫が、精一杯の策を進言した。

 

 数日の間にらみ合いが続いた。やがて儀太夫の言葉通り、清正の部隊が自らの土地にどとまって動こうとしないことに、女真族の側ではしびれをきらした。城門が開き、騎馬武者達が槍を構え、攻撃の体制を整えるのを見た清正は、

「とうとう来るか、よし魚鱗の備えをとれ」

 と素早く命を下した。

 魚鱗の備えとは、中心が前方に張り出し、両翼が後退した陣形である。底辺の中心に大将を配置して、そちらを後ろ側として敵に対する。戦端が狭く遊軍が多くなり、また後方からの奇襲を想定しないため駆動の多い大陸平野の会戦には適さないが、山岳や森林、河川などの地形では威力を発揮する。全兵力を完全に一枚の密集陣に編集するのではなく、数百人単位の横隊(密集陣)を単位として編集することで、個別の駆動性を維持したまま、全体としての堅牢性を確保することから、魚鱗と呼ばれた。

 

 やがて太鼓の音を合図に、女真の騎兵達が迫ってくる。

「速い、なんという速さだ!」

 敵の騎兵隊が一団の黒い塊となって迫ってくる。それが驚くべき速度である。女真人達は物心つくと同時に騎乗する。いわば馬は体の一部といっても過言ではない。しかも平野をかけまわることに慣れた女真族の馬は、四百メートルほどの距離を無酸素呼吸で一気に走りぬける。清正の兵卒達が言葉を発する間もなく、女真人達は清正の前衛部隊の前まで迫ってきた。

「怯むな! 鉄砲隊前へ」

 号令一下、火縄銃の音が戦場に響くが、なにしろ敵の動きが俊敏で中々当たらない。玉込めに手間どっている間に、女真人達は騎乗したまま、弓矢を雨あられと打ちこんでくる。女真騎兵達は、腿につけた箙に挟んだ矢を扇のようにひらき、厚く織った黒色の麻の上着を着て、皮の長靴を履き、弁髪をなびかせ、旋回しながら断続的に攻撃を仕かけてくる。清正の前衛部隊が混乱したのはいうまでもない。

「己! 槍隊かかれい!」

 清正の部隊も力戦奮闘するも、まったく未知の敵に対する恐れもあって、結局はかばかしい戦果もないまま、この日夕暮れ時清正は一旦兵を退いた。


「予想外の強兵にござりますな。ここは一旦撤兵したほうがよいのではござりますまいか」

 と軍議の席上側近がいうと清正は、

「いや、敵にとって最強の武器はあの馬よ。あの馬さえなんとかすれば、我等に勝機はある」

「いかがなされる御所存か?」

 と森本儀太夫が問うた。

「儀太夫、この周辺で雌馬を集められるだけ集めろ。全て雌馬じゃ、牡馬はいらぬ」

 この言葉に、清正の側近達はその真意がわからずいぶかしんだが、清正はどこか自信ありげだった。


 数日して、清正は再び女真族の砦の前まで兵を繰り出し、女真族もまた、応戦のため兵をくりだした。再び女真騎兵達が驚くべき速度で迫ってくる。そのときである。清正は捕獲した雌馬を、敵の騎兵の方角にむかい一斉に放った。馬は実に敏感な生き物である。大量の雌馬の出現に、女真騎兵の馬達は、たちまちのうちに異常な興奮状態となり、ついには主を落馬させ、暴れ狂う馬が続出した。

「今ぞ鉄砲隊放てい!」

 騎馬が使用できないならば、鉄砲と日本刀の威力で、日本兵は女真族の部隊に勝る。一旦砦に退いた女真族の部隊に対し、清正はさらに夜襲をしかけ、ついに女真族の誇る十三の砦のうち一の砦を陥落させることに成功する。勢いにのった清正の軍は、さらに二の砦、三の砦と陥落させるのである。


「恐れながら、この砦の様子は今までの砦と、なにやら違うように思えまするな」

 側近が清正にいうと、清正もかすかに頷いた。

 清正の部隊は四の砦に至るも、伝わってくる殺気が尋常一様ではないのである。やがて太鼓の音が響きわたり、女真騎兵達が砦から姿を現わした。と、突然女真人達は馬から降り、一斉に片膝をつき、地に平伏した。

「どうやら頭の出現のようでござりまする」

 清正も注意深く敵の様子をうかがっていると、そこに姿を現わしたのは、なんと女武者だった。頭目らしい女武者は、旗袍すなわち、現代でいうところのチャイナドレスに近い服装に身を包み、背丈はかなり高いほうである。余談だがチャイナドレスは元をただせば、北方に居住する騎馬民族達が、婦人が騎乗するのに最も適した服装として考案したものである。

 女頭目は槍を片手にし、なにやら清正の兵達を挑発している様子である。

「女が頭とは面白い。わしが捕縛して手篭めにしてくれん!」

 清正配下の手練れの者が女頭目に挑んだが、騎乗した女頭目の動きは俊敏で、振りかざす槍も速かった。清正配下の武士は、ついに槍で肩を突かれて落馬してしまう。

「己! たかが女ごときになにを手間取っている!」

 今度は三人の手練れの者が一斉に襲いかかるも、女頭目に翻弄されるばかりで、討ち取ることができない。逆に三人のうち一人が、女頭目の槍で喉を突かれて落命してしまった。

「うぬ! 全軍突撃せよ!」

 業を煮やした清正は、全軍に突撃の合図を下した。女頭目は身をひるがえし、砦の奥へと素早く姿を消した。

 清正の部隊が砦に殺到しようとした時である。突如轟音とともに巨石が一斉に落下し、清正の兵の多くが下敷きとなり命を落とした。


「女子でさえかくも手強いとは、我等あと十もの砦を落とすは、並大抵のことではないかもしれぬ」

 清正はほぞを噛んだ。清正はすでにわかっていた。兀良哈は朝鮮よりはるかに広大な土地で、明へ入るには、モンゴル人の居住地域を通らねばならず、それは不可能であること。しかも兀良哈は畠地ばかりで雑穀しか取れず、兵糧米が手に入らない。清正が秀吉に送った書状には、兀良哈は日本の守護のような統率者がおらず、伊賀者・甲賀者のように要所に砦を構え、まるで一揆国のようであると書かれていた。

 清正は、ここで兀良哈攻略をあきらめ安辺まで兵を退く。後に女真族の中から、愛親覚羅ヌルハチという名の英傑が出現し、全女真族を統一し、さらには日本軍との交戦などにより衰退の一途をたどる明王朝をおびやかし、息子ホンタイジ、孫の順治帝の代になり、ついに明王朝を滅ぼすにいたるのである。女真族による清朝の中国支配は一六四四年のことで、以後三百年近く続き、中国はむろんのこと、日本を含む東アジア全域の近代史、さらには現代史にまで、重要な影響を与えることとなるのである。むろん清正は、そのようなことは知るよしもない。


 兀良哈攻略をあきらめた清正のもとに、島津家家臣敷根仲兵衛と猿渡掃部兵衛という者が訪ねてきたのは、文禄二年(一五九三)一月のことだった。両者は、朝鮮に秀吉のもとから派遣された石田三成・大谷吉継・増田長盛の三奉行の命を伝えるため、はるばる咸鏡道まで旅してきたわけである。清正はその時、初めて衝撃的な報を耳にする。清正が咸鏡道をも越え、兀良哈まで侵攻している間に、朝鮮本土の戦局は重要な転機をむかえようとしていた。連戦連敗を続けてきた朝鮮王朝が、一人の水軍の将の出現により、反撃に転じはじめていたのである。





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