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【豊臣政権編其の九】文禄の役~島津家の叛乱

 朝鮮宣祖王は、逃亡して遠く平壌に至っていた。一方日本軍は臨津江にとどまったまま動こうとしない。

臨津江は漢江の支流馬息嶺山脈を発源とし,江原道北部を経て京畿道に入り,漢灘江を合わせて南西に流れ,河口で漢江と合流する全長二五四キロにも及ぶ大河である。現在では韓国・朝鮮国境に近く、朝鮮戦争の最中中国軍と国連軍の激戦の舞台となった場所である。また河口には江華島もあり、かって高麗朝が、モンゴルの侵攻により一時遷都し、抵抗を継続した歴史ももつ。

 宣祖王は日本軍を討滅すべく、北方の遊牧民族の戦いでしばしば手柄をたてた韓応寅という将軍と、金命元を一万二千の兵とともに現地に急行させた。

 両軍は臨津江を挟んでにらみあったまま幾数日、やがてしびれを切らしたのか、日本側の将加藤清正は夜半陣所を焼き、撤兵する様子を見せた。金命元はこれを絶好の好機と見た。

「待たれよ、敵は退却すると見せかけて、罠かもしれませぬぞ」

 発言したのは韓応寅だった。

「それに我が軍は、北方より昼夜兼行でかけつけて疲労しておりまする。また武器もまだ全て到着しておりません」

 と韓応寅は日本軍の追撃に異論をとなえたが、金命元は、

「黙れ! 戦とは機である。今日本軍を討たずして、いつ討つというのだ。わしは王命を奉じてここにきた。あくまで異をとなえる者は、陛下の名において成敗する」

 と聞く耳を持とうとしない。

 かくして朝鮮軍は江を渡ることとなった。


「恐れながら、朝鮮軍が追撃してまいります」

 物見に知らせに清正はほくそえんだ。

「よし、しばし手合わせして後、わざと負けたふりをして撤退せよ。日本兵の手強さを思い知らせてくれよう」

 と静かな口ぶりで命をくだした。

 果たして清正の部隊が退却を始めると、金命元はなおも追撃を命じ、ついには深追いしすぎた。やがて鍋島直茂、相良頼房の伏兵部隊が左右に出現し事態は一変する。鉄砲の威力、そして国内の戦乱で鍛えられた日本軍により、朝鮮側の部隊はたちまちのうちに壊滅し逃げ出した。だがそこに待ちかまえていたのは川である。多くの朝鮮兵は日本兵に斬られ、生き残った者も、ある者は溺死し、ある者は捕虜となった。金命元、韓応寅の両将も逃亡した。

 

 この勢いで平壌に迫れば、あれいは宣祖王を捕虜にすることも可能だったかもしれない。だが江を渡って地点で、またしても日本軍は行軍を停止し動かなくなった。

 ここでも小西行長は和平交渉をこころみていた。平壌の宣祖王に一書を送り、日本側の意図は朝鮮の制圧に非ず、明国に攻め入るため道を貸してほしいという旨を伝えていた。結局和平はならず、日本軍は好機を逸してしまうのである。


 朝鮮在陣諸侯は、臨津江を渡って地点で十日とどまった後、前進して開城に入る。そこで軍議を開き、くじ引きによりそれぞれの担当地域を決定した。すなわち黒田長政が黄海道、毛利吉成が江原道、毛利輝元が慶尚道、福島正則と長宗我部元親が忠清道、宇喜多秀家が京畿道、そして加藤清正と小西行長は、それぞれ咸鏡道と平安道を担当部署とした。世にこれを八道国割という。

 一方、諸将の中で最も遅い着陣となった島津義弘は、毛利吉成に従って江原道に赴くこととなる。そこで日本からの便りにより、信じられない悲報を耳にすることとなった。


 さて、島津歳久の死についてふれなければならない。


 秀吉が愛児鶴松を失った悲しみまだ覚めやらぬ天正十九年九月、島津家に関する一つの風聞が流れた。龍伯のもとで、長年に渡って侍医をつとめてきた明人許三官が、秀吉の唐入りの野心を福建に停泊していた明国の商船に通牒したというのである。許三官は秀吉の詮議を受けることとなり、龍伯は思い悩んだ末、すでに豊臣政権下で絶大な力をもった徳川家康に、秀吉へのとりなしを頼むこととした。

「龍伯はわしへの反逆を企んでおる。いかに九州南端の地にあろうと、この日の本でわしの耳に入らぬことがあるとでも思っておるのか!」

 秀吉は興奮気味にいったが、家康はそれを軽くいなすかのように、

「反逆とは、また異なことを、今の島津家に殿下の天下を覆すだけの力があるとでも? それに、この日の本に居住する明国人は、許三官とか申す者だけではござりませぬ。もし許三官とか申す者を処罰されるなら、国中の明国人を詮議し、一々取り調べねばなりませぬな」

 秀吉は沈黙した。家康のいうことは筋が通っている。

「しかし噂によれば、龍伯は明国から兵を借りて、このわしを打倒しようと謀ったとか……」

 秀吉がまことしやかな噂を口にすると、突然家康は声をあげて笑いだした。

「それはまた奇怪な噂でござりますなあ。我が国のわずかに薩・隅二国を所領とする龍伯殿に、大明国を動かす力があるとでも?殿下ほどのお人が、よもやそのような根も葉もない噂を本気になさるとは」

 秀吉はまたしても言葉を失った。結局許三官の件は不問にふされ、龍伯は危機を脱した。


 後日龍伯は、礼をのべるため家康の屋敷を訪ねた。

「こたびは太閤殿下へのとりなしの件、ほんのこつ龍伯御礼の言葉もござりもうはん」

「顔を上げよ龍伯殿」

 やや言葉をどもらせながら、型通りの礼をいう龍伯に家康が声をかける。龍伯はこの時、初めて徳川家康という人物を間近に見る。家康はでっぷりと太っていて、表情は笑みをたやさない。巨眼で、耳たぶは常人ばなれして大きかった。いかにも長者の風格とでもいうべきものが備わっている。

「いやなに、太閤殿下は昨今癇癪をおこすことが多くなった。道理に合わぬことで人を仕置きすることもあるのでなあ。太閤殿下の至らぬところを正すは、政道を預かる者として当然のこと」

 家康はあいかわらず笑みを絶やさずにいう。

「守成は創業より難しという。太閤殿下は一代にして、あれほどの成功を為したお方なれど、近頃なにやら様変わりなされた。昨今は太閤殿下の外征に対して、不満をもつ者も数多いると聞く。よいか龍伯殿、水はよく船を浮かべるが、また覆すこともある。龍伯殿の身を危うくする者があるとすれば、それは国の外ばかりとは限りませぬぞ。くれぐれも殿下の機嫌を損なうことなきよう、そうしかと心得られよ」

 と家康は、中国唐王朝の事実上の建国者・太宗李世民の貞観政要から言葉を引用しながら、龍伯に注意をうながした。家康は実に学問好きな人物で、特に鎌倉幕府の正史吾妻鏡や貞観政要を愛読し、次第に自らの帝王学を築き上げていったといわれる。

「仰せのこつ、龍伯肝に命じて忘れもうはん」

 龍伯は低頭すると、ほどなく家康の屋敷を辞去した。


「龍伯と申す者、いやはや噂通りの田舎侍でござりましたな」

 と龍伯が去った後、家康のかたわらでじっと様子を見守っていた謀臣本多正信が、ぼそりと本音をいった。

「いや、わからなんだか? あれはただの田舎侍ではないぞ」

「と、申しますると?」

「うむ、わしも東国生まれの東国育ち故、ついぞこの前まで西国の事情など知るよしもなかったが、西国に住まう者は愚直に見えても機に応じるに素早く、時流をつかむことにたけておる。根っこからの愚直者が多い東国武士とは、また違って手ごわい」

「さすがは殿、天下の津々浦々まで目を光らせてござる」

 と、正信が相槌をうった。

「なれど、こたび太閤が始めた無謀な外征で、傷つくのは主に西国の者達ばかり。わしが見たところ太閤も先行きそう長くはない。太閤が死ねば再び乱がおこるやもしれぬ」

「我等、西国に出兵することになりましょうや?」

「わからぬ、なれど万一の時のため戦の備え怠ることなくば、外征で多くの傷負った西国を平らげるは、いとたやすきこと」

 秀吉の朝鮮出兵は、参陣した多くの将に他国と相対して、日本国というものを意識させることとなった。そして今まで互いを知るよしもなかった多くの大名が顔見知りとなり、いわば大名間のネットワークとでもいうべきものを構築させる機会ともなった。だがそれらにより最も多くの利を得たのが、徳川家であることは疑いない。


 島津家の危機がこれで終わったわけではない。文禄元年(一五九二)六月、その頃肥前名護屋に詰めていた龍伯を仰天させるような報が国許から届いた。

 島津家の家臣で、大隅の国湯之尾城の主梅北国兼という者が、朝鮮渡海のため平戸にいたが、何を思ったか軍を返し、肥後にある加藤清正の支城佐敷城に、突如として襲いかかったのである。

「太閤殿下の命である。清正殿の御家来衆におかれては、速やかに城を明け渡されよ」

 梅北国兼が大声で佐敷城に呼びかけると、しばし時をおき城の内から、

「そのような話は聞いておらぬ、島津殿の御家来衆と存じるが、早々に城を退去されよ」

 と、佐敷城の留守を預かる安田弥右衛門という者が、同じく大声で返答した。

「応ぜずとあらば、武力を用いるが、そいでんよかか!」

 いうや否や梅北国兼はどっと城に押し寄せ、言葉通り佐敷城を武力で奪い取ってしまった。

 佐敷は加藤清正の臣加藤重次の居城で、肥後と薩摩の国境に位置する港町である。この梅北の叛乱について、ポルトガルの宣教師ルイス・フロイスは、その著『日本史』の中で曰く、

『兵士達が朝鮮国に渡った後、梅北と称する薩摩国の一人の殿が、かねてより(世相を)不快に思っていたところ、(突如)絶望した者のように己の運命を試そうと決意し、若干の配下を従えて肥後国に侵入し、そして薩摩国主の命で戦が始まり、老関白を打倒するため日本の全諸侯が叛乱をおこしたといいふらした。おりから日本国中の人々が、新しい事態が惹き起こされることを望んでいたので、肥後の盗賊どもは大挙して蜂起し、加藤清正と小西行長の居城を占拠しに押し寄せた』

 この梅北の反逆に、佐敷周辺の百姓・町人までもが応じ、乱は小西行長の八代や薩摩表にまで広まる気配を見せた。


「ただちに乱のことを細川幽斎殿を通じ、太閤殿下に言上せよ。わしが国許へ帰り、速やかに梅北一党を討伐したいと申しておったと、そげん伝えるのじゃ、早くにじゃ」

 龍伯は秀吉の気性から察して、速やかに事の仔細を伝えれば、島津家自体に疑いがむけられることを避けられると信じていた。

「恐れながら、梅北殿は殿の支援をあれいはあてになされておるやも。殿はこいを見殺しになされますか?」

 と龍伯の臣町田久倍が尋ねた。

「何を申す、こたびの一件は梅北が勝手におこしたこと。我等には関わりがなか」

 この言葉を聞き、町田は思った。

『この方は以前はもう少しお優しい方であられた。そう御舎弟家久様を失ってから、なにかが変わられたのだ……』


「今宵の酒は実にうまい。異国へ渡海などしてみろ、もうこげな酒を口にする機会もなかど」

 乱の首謀者梅北国兼は佐敷城を占領した後、日夜宴会三昧の日々を送っていた。

「近々龍伯様も我等に加担されよう。さすれば怖い者なしじゃ。太閤の首わしが討ち取ってくれようぞ」

 国兼がほどよい酒加減でいうと、側近の一人が、

「さりながら、龍伯様はまっこて我等に加担されますかな? あれいは太閤に乱の仔細を言上し、我等を討伐する側に回るのではござりますまいか」

 と不安を口にし宴席は一時白けた。

「なあにそん時は、歳久様をおし立てればそいでよか」

 国兼は、不安を吹き飛ばすかのように声をあげて大笑した。

「申し上げます。相良家の御家来衆の方々が、陣中見舞いのため目通りを願っておりまする」

 部屋の外で声がし、国兼はすぐに通すよう命じた。やがて相良氏の使いの者が、見舞いの品をもって横一列に並ぶ。と、その時だった。謙譲するはずの品々の蓋を御使い番が開くとそこに刃が納まっていた。国兼は声をあげる間もなく、左の胸に致命の一刺しを受け、空ろな眼光のまま斃れた。

 同時に部屋の外に控えていた武者達が、一斉に梅北一行に襲いかかり、たちまちのうちに皆殺しにしてしまった。

 首魁を失い、乱は呆気なく鎮圧され、龍伯の迅速な決断もあって島津家は救われたかに思えた。


 だが秀吉は島津家のすべてを許したわけではなかった。ここで島津歳久が、かって通過する秀吉の輿に矢を射た事件が蒸し返される。龍伯が、島津家と中央政権との取次ぎ役である細川幽斎とともに、鹿児島に戻ってから時を経ることなく、秀吉からの朱印状が届いた。一読して龍伯は愕然とした。

 内容は歳久の慮外の働き、すなわち秀吉の輿に矢を射た件を今更ながら責め、今になってもまだ出仕しておらず重々不届きであるとし、今回の謀反に加担した者の首を、残らず差し出すようにとある。そして歳久についても、もし朝鮮に渡っているならよし、国許にいるなら即刻首を差し出すようにと書かれていた。

 秀吉は梅北の叛乱につき、歳久が裏で糸を引いていたのではないかと疑っていた。数日し歳久は弁明のため、龍伯と幽斎のもとに出頭する。この頃歳久はすでに、中風のため立つことすらままならず、側近に両脇を支えられながら二人のもとへ姿を現した。

「歳久殿、今はもうこれまでじゃ。太閤殿下の命は絶対でござる。そなたが腹を斬る意外、島津家が救われる道はござらぬ。ただしそなたの孫袈裟菊殿(島津忠隣と歳久の娘の間にもうけられた嫡子)だけは、太閤殿下に別儀なきよう取り計らうつもりじゃ、安堵せられよ」

「そいはありがたか、おいはもはや何の役にもたたぬ。おいの命で島津家が救われるのなら、喜んで死にもんそう」

 と今や立つことはおろか、起居もままならぬ歳久は覚悟するのだった。結局明朝をもって自害するということに決まり、その夜は龍伯と歳久の別れの宴となった。


「覚えておいでか兄上、我等の初陣のみぎり、おいは敵の将にあやうく討ちとられそうになり、兄者自ら助けてくれなくば、あの時すでに死んでいた」

「おう覚えておる。あの頃はおはんも血気盛んで、わしも怖い者知らずであったのう。あれから四十年以上も歳月が流れたがか」

 この年龍伯は還暦、歳久は五十六歳になろうとしていた。しばし往時を懐かしんでいた龍伯であったがやがて、

「歳久すまぬ。根白坂では忠隣を死なせ、今またそなたを死なせることになるは太守たるおいの不覚、ほんのこつなんと詫びたらよいか」

「いやもうよか兄者、兄者には他に返せんほどの借りが山ほどある」

 そこまでいうと歳久は、不意に沈黙した。

「兄者、来世また兄弟として生まれてきたならば、まつりごとはぬきで、おおいに酒を酌みかわしたいものでござるなあ」

 と万感の思いでいった。

「来世のことはわからん、なれどあの世で再開するのは、意外と早くになるかもしれんぞ」

「なんと申した兄者?」

「いや太閤は、あれいはおはんが自害するだけで、島津家の疑いを解くとは限らぬということよ。わしも十分長生きした。そろそろ潮時かもしれん。ここまで乱世を生きのびてこられたのも、ひとえにおはんの支えがあったからこそ。礼を申さずばなるまいて」

 歳久の表情がかすかに曇った。歳久がこの時ある決意をしたことを、龍伯はまだ知らずにいる。


 翌未明、予想外の事態がおこった。歳久は自害するどころか三十人ほどの供を連れて、錦江湾から船で出奔してしまったのである。

「どういうことだ歳久……」

 龍伯はあまりのことに、驚きの色を隠せなかった。

「恐れながら殿、早々に討伐の兵を送らねば、取り返しのつかぬことになりもんそう」

 と町田久倍がいう。龍伯は決断を迫られた。ふとこの時龍伯の脳裏をよぎったのは、初陣のみぎりの祖父日新斎忠良の言葉だった。

『例え弟であろうと臣下であることに変わりはない。そなたは島津家の主ぞ』

 初陣の際の忠良の言葉が、還暦をむかえた今、重く龍伯にのしかかった。

「構わぬ! 討伐の軍を送れ。謀反人どもを征伐せよ!」

 龍伯は決断した。断腸の思いの決断だった。


 一方、沖へ漕ぎだした歳久主従であったが、前方に船の灯りが多数見え、陸地にも篝火が灯っているのが目撃されたため、詮なく鹿児島城下から四里ほどの竜ヶ水に上陸した。

「みなすまん、こいからはおはん等の好きにするがよい。おいの身勝手に、これ以上付き合う必要はなかど」

 側近に両脇を支えられた歳久は、付従ってきた家来衆に、解散するよう命じた。

「何を申されます。かような痛々しい姿の主を置いて逃げるなどと、百度いや千度同じことを申されても、おい達はここを去るつもりはごわはん。冥途の果てまでも、お供つかまつるぞ」

 家来衆はそういって、誰一人そこを去ろうとする者はいなかったという。

 やがて追撃の兵が押し寄せてきた。町田久倍と伊集院久治に率いられた一隊だった。

「おはんら来るなら来い! 我等例えこの身を微塵に砕かれようと、歳久様をお守りいたす」

「己、かかれい! かかれい!」

 久倍が攻撃の命を下したが、なにしろ薩摩人同士の争いである。敵味方顔を見知っている者も多く、久倍配下の兵士達は一時躊躇した。

「なにをしておる! かかれというておろうに!」

 ついに薩人同士の殺し合いが始まった。歳久の家来衆は数は少ないながら頑強に抵抗し、全員討ち死にの覚悟を決めていることをうかがわせた。

「鉄砲隊前へ!」

 町田久倍は鉄砲隊に射撃命令を下した。歳久を護衛する兵士達は、おり重なるようにして倒れ、歳久自身も右肩を撃ちぬかれてしまう。歳久は覚悟し脇差を腹にあてたが、病のため力が入らない。

「誰ぞ、早くおいの首を取って手柄にせよ」

 歳久は敵の方角に向かって呼びかけたが、謀反人とはいえ主君の弟である。一人も手をくだそうとしない。やがて原田甚次という者が進みでて、

「お苦しゅうござるか、今楽にしてしんぜる」

 といい刀を高々とかまえた。次の瞬間、ついに歳久の首は地に転がり落ちた。

 一方歳久の居城宮之城では、家臣達が抵抗の構えを示したが、袈裟菊とその家族一族郎党を救済する旨の起請文を、龍伯と細川幽斎の名で差し出されたので、ようやく開城に応じた。


 やがて歳久の衣類からみつかった遺書ともとれる文が、龍伯のもとに届けられた。文はまず謝罪の言葉から始まり、自害することなく出奔した事実につき、自らが正真正銘の反逆者となり、龍伯が討つ手をさしむけることにより、これ以上島津家が秀吉に、疑いをもたれることはないであろうという、歳久の深い読みが書き記されていた。そして末尾で龍伯に対し兄弟であれたことを誇りに思うと一言書かれ結ばれていた。龍伯は一読して言葉を失った。

 歳久の首は遠く都まで運ばれ、一条戻橋に晒された。だが留守居として在京していた島津図書頭忠長が、家臣に命じて首を密かに取り戻し、歳久は龍伯と無言の対面をした。

「歳久……不憫な奴よ……」

 その場にいた龍伯の家臣達の多くが泣き崩れ、龍伯もまた家臣等に背を向け、唇と拳をわなわなと震わせた。

 

 一方、朝鮮の陣にある義弘もまた歳久自害の報に接し、地に伏して泣き崩れた。

「恐れながら父上、ここは敵地、悲しんでばかりはおられませんぞ」

 といったのは島津久保だった。

「わかっておる。旗を上げい」

 義弘の命により朝鮮の野に、島津の丸十字の旗がひるがえった。家久が死に、今また歳久も冥途に旅立った。島津四兄弟も残るは龍伯と義弘のみとなってしまった。義弘は自らの手で、島津の旗を守りぬくことを改めて誓うのである。

 



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