【豊臣政権編其の七】秀吉の野望~大陸制覇の夢
朝鮮使節一行は、三月朝鮮国都漢城を発し、七月下旬ようやく京都に入った。正使黄允吉・副使金誠一・副使兼書状官許筬、他二百余名からなる大がかりな使節団だった。九月秀吉は京に戻っていたが、使節団は酷暑の中都に留め置かれ、ようやく聚楽第にて念願の秀吉との謁見を果たしたのは、十一月に入ってからである。
『秀吉の容貌は小さく卑しげで、顔色は黒っぽく、ただかすかに眼光がきらめいて、人を射るがごとく……』
と、使節団の一人は後に記録に記している。
秀吉は三重に設えた席に南を向いて座り、秀吉の席の前には小卓が置いてあった。その上には焼いた餅と、濁った酒が置いてあったが、使節団にとっての不満は、いわゆる拝揖・酬酢の儀式が行われなかったことである。拝揖とは、身をかがめ、両手を合わせながら行う拝礼。酬酢とは、主客が互いに酒を酌み交わすことを意味する。中国・朝鮮では、当たり前のように行われる社交辞令であるが、秀吉は知らずにいた。
やがて使節団一行を驚かせる事態がおきた。突然別室へと姿を消した秀吉は、ほどなく、一歳になる愛児鶴松を抱いて戻ってきたのである。使節団が茫然自失したのはいうまでもない。
ともかく、この朝鮮使節と秀吉との謁見は、たいへんな不首尾に終わった。使節が持参した書状には、秀吉の望んだ朝鮮王の服属という内容は、どこにもなかったからである。秀吉は、いよいよ朝鮮への武力侵攻を現実にものとするわけだが、日朝両国の狭間にある対馬国主宗義智の苦悩は、並たいていのものではなかった。
この会見に先立って、秀吉は何通か朝鮮宣祖王に手紙をしたためている。手紙は対馬・宗氏の家臣が仲介人となり漢城へ届けるわけだが、最初の国書の内容に宗義智は仰天した。
『朝鮮国王は日本に来たりて、我が朝廷に伺候せよ。もし聞き入れねば、ただちに出兵あるのみ』
むろん朝鮮と日本との国交が悪化することは、対馬にとっても不利益のみで、絶対に避けなければならない。熟慮の末宗義智は、漢城へ至るまでの間に国書を当たり障りのないものに改竄してしまう。朝鮮側では、秀吉が何を欲しているのかわからず、国書への返答もなかった。その後も秀吉は、二度、三度に渡って書をしたためるが、ことごとく宗義智により改竄されてしまい、事態は思うように進まなかった。
これは対馬宗氏の瀬戸際外交であり、このような大胆な策の裏には、豊臣家の奉行石田三成と、小西行長の入れ知恵があったといわれる。行長にとり宗義智は大事な娘婿でもあった。
さて、なにゆえ秀吉は朝鮮出兵という暴挙を画策するに至ったか?
東アジアの国際関係は、古来より中国正統王朝を主とあおぎ、他がこれに事実上臣属するという冊封関係の中にある。殊に韓半島では李氏朝鮮も、それ以前の高麗・新羅王朝も中国皇帝を主とし、自ら小中華を名乗ることにより国家的プライドを保持してきた。両者の関係は親密で、もし朝鮮に事があった場合、中国の王朝は軍をもって朝鮮を助けるという、いわば今日の日米安保にも似た関係も暗黙の了解であった。
だが日本の場合いささか異なる。かって日本も律令国家を造るにあたり、中国の大唐帝国を範とした。しかし唐は衰え、九世紀末遣唐使も廃止される。その後国家として大陸との正式な国交はなくなり、関係は専ら私貿易のみとなる。日本の歴代の政権は、朝鮮ほど中国の歴代王朝にへり降ることはなかった。室町幕府の三代将軍足利義満だけは例外で『臣源道義』と自ら称した義満の勘合貿易により、陶磁器を始めとする唐物趣味が日本で横行し、中国の永楽銭までもが国内で流通したりもした。
むろん義満は特殊な事例である。日本の歴代の為政者が、大陸の国家を恐れなかったのは、いうまでもなく、海で隔てられているからでもある。しかも日本列島周辺は海流が激しく、夏には台風、冬には低気圧が列島の上空を去来する。いわば海は天然の防壁なのである。現にユーラシアを席巻したモンゴル帝国でさえ、日本列島を守る海という壁には敵しようもなかった。
秀吉は明国の強大さ、豊かさを知っていた。そして赤貧の出であるこの男は、自らが生涯かけて築きあげた版図が小さく、そして建前にすぎぬとはいえ、日本が明国を中心とする冊封関係の中にあるという事実に我慢がならなかった。
一方で秀吉に夢を見させたもの、それは世界的な大航海時代という、大きな、新しいうねりだった。かって西欧は貧しく、ユーラシアの辺境にすぎなかった。イスラムの特にオスマン・トルコ帝国には歯が立たず、そのことがスペイン・ポルトガルの両勢力をして喜望峰へ、新大陸へ、そして地球を周航してアジアへとかり立てた。秀吉は、むろんそのような時代の流れを敏感に感じとっていた。はるか後年十九世紀に日本は『脱亜入欧』というスローガンを掲げ、国際社会に船出するわけだが、秀吉の胸中に去来したものも、これとなにやら似ていた。
ただ秀吉は知らなかった。西欧を取り巻く海域は、大西洋であれ、地中海であれ、海流が日本周辺のそれと比べると極めて緩やかで、いわば外界へ延々と続く一本の通路の役割を果たすという事実をである。
そして西欧は、あまりに土地条件が劣悪で、食料の生産性となると、日本や中国などとは問題にもならない。勢い海の外へ活路を見出すより他ないのである。
だが日本は、特に戦国期には農機具の改良等もおおいに進んだ。そもそも戦国末期、生き残った有力な大名により国土が分割されるに至ったのも、それぞれが自立しうることが可能になった結果なのである。
一方で海は『通路』ではない。日本は根本において貿易より農業によってなる国なのである。海は外界を隔てる壁でしかない。後年、農業を国の基盤とする徳川政権が誕生し、長期間続くのは、秀吉のこの無謀な外征が仇となり、家康がそこから学んだからに他ならないのである。
この年天正十八年暮れ、秀吉は関白職を甥の秀次に譲り、自らは太閤となった。そして翌天正十九年(一五九一)、秀吉の周辺で不幸が相次いだ。まず一月には、弟の大和大納言秀長が五十二歳で世を去った。さらに二月、秀吉は突如として、茶人として権勢を極めた千利休に切腹を命じてしまう。そして八月、秀吉が愛してやまなかった愛児鶴松が、わずか三歳で急逝してしまう。秀吉は次第に孤立の影を深め、周囲には不気味な影が色濃く漂い始める。
秀吉が愛児鶴松の死後、いよいよ精神に安定性を欠き始めたことは、この人物がフィリピンのスペイン総督に服属を求める書簡を送ったことからもよくわかる。マニラでは、秀吉の書状のあまりに突飛で荒唐無稽な内容に困惑し、その意図を図りかねたといわれる。
一方、朝鮮では万一の不足の事態に備えて、国防が急務となっていた。まず朝鮮半島南部沿岸の慶尚道・全羅道・忠清道で堡塁の新設、古くからあった砦の修復が行われる。
また人事面の刷新も見られた。特に海軍においては慶尚左道水使に朴泓、慶尚右道水使に元均、全羅右道水使に李億祺が任命された他、全羅左道水使に、全羅道の井邑という片田舎の県監職に過ぎなかった李舜臣が起用された。極めて封建的といえる李氏朝鮮王朝において、実に異例の大抜擢だった。
事態は切迫した。秀吉は主に九州・西国の大名を初めとして全国の大名に陣触を出すとともに大船の建造が申しわたされる。さらに新たに大陸進出の前線基地として肥前名護屋が選ばれ、大規模な築城工事が行われることとなる。九州・西国の大名は否応なしに、秀吉の誇大妄想に巻きこまれていくことになる。
年が改まり文禄元年(一五九二)、秀吉より朝鮮渡海第一陣を命じられた小西行長は対馬にいて、玄界灘より、遠くそして近い朝鮮半島を臨んでいた。
小西行長はこの年三十八歳。堺の薬問屋小西隆佐の次男として生まれ、後に備前の宇喜多直家に仕えた。やがて当時織田家の中国方面司令官だった秀吉を知り、その家臣同様に仕え、ついには肥後半国二十四万石の主にまでなった。この人物もまた切支丹で、ドン・アゴスティーニという洗礼名まで持っている。
「私は、あれいは武士には向いていないもしれません」
「なんと仰せられた?」
行長の意外な言葉に、背後に控えていた行長の娘婿でもある宗義智はかすかに小首をかしげた。
「私は幼い頃より、海を見るのが好きだった。海の向こうを知りたかった。やがて成長し明国を知り、朝鮮を知った。明国や朝鮮の民だけではない。南蛮、シャム、ルソン、この広い世界には肌の色も違えば、言葉も風俗も異なる多くの民がいることを知った。そして交易により、それらの多くと知己になることができた。
私は斬り合いより、やはり交易が好きだ。そして日の本の民も、いつかは己の小ささを自覚し、同じ日の本の民草同士斬り合う愚を知ることだろう。そう信じてきた。少なくともあの方なら、政争のない世を実現できるだろうと信じて、今日まで従ってきたのだ。なれど太閤殿下は変わられた」
そこまでいうと行長は、その色白い繊細な顔立ちに、憂いの色をありありとうかべた。
「戦は我等とて望まぬところ。なれど今や太閤殿下を引き止めることは、この玄界灘の潮の流れを逆さにするより難儀なことかと」
宗義智は、そういった後ため息をついた。
「朝鮮は、あまりに長い太平に慣れ、戦のことなどまるで忘れたかのごとき国だ。我等十度戦えば、そのうち九度は勝つだろう。なれど太閤殿下の命により、こたび朝鮮に出陣する武将等の多くは、朝鮮のことなどまるで知らぬ。朝鮮の民を知らぬ、道を知らぬ、言葉も知らぬ。この戦長びけば長びくほど、双方共に傷つくだけでなにももたらさぬ。日本は私にとって祖国、そして朝鮮は友の国、双方共に苦しむは耐え難いことじゃ。故にわしは、できるだけ早くに朝鮮国都漢城を陥れる。然るべき後に朝鮮国王を捕らえ、講和に持ち込むそれ意外に道はあるまい」
行長は、かすかに顔を紅潮させた。
「出陣に際し、加藤清正殿となにやら約束をなされたとか?」
と義智がたずねた。
「わしと、あの男が一日替わりで先陣をつとめるようにと、太閤殿下は仰せられた。わしは、あの男とそりが合わん。戦の前に釜山で今一度朝鮮側と交渉がしたいといって、今壱岐で待たせてある。戦を三度の飯より好むが思慮が足らぬ男よ。あのような男がいては、わしのもくろみも水泡に帰すだけじゃ。わしはあの男に無断で朝鮮に渡る」
「なれどそれでは、清正殿を怒らせてしまいます」
「構わぬ。責めは全て私が負う」
行長は断固としていい放った。
この日対馬は透き通るような晴天で、はるか目を凝らすと、朝鮮釜山の沖あいすら臨むことができた。
こうして、小西行長と宗義智、それに松浦鎮信・有馬晴信等からなる日本軍の第一陣は、ついに朝鮮へ渡海した。時に文禄元年三月のことである。これを知り後日加藤清正が激怒したのはいうまでもない。
第二陣もあわただしく海を渡る。第二陣は加藤清正に鍋島直茂(鍋島信生が天正十七年より改名)それに相良頼房等である。
一方、島津家もまた朝鮮渡海を命じられた。財政が逼迫する中のこの軍役は、島津家にとって耐え難いものだった。龍伯は苦悩し、ついには窮余の一策を講じることとなる。
「お呼びでございまするか」
龍伯に呼びだされたのは、あの許三官だった。
「うむ、今日は病のことではない。この島津家中でそなたにしか頼めないことじゃ。すでに聞き及んでいると思うが、太閤殿下は日本国を一つにまとめあげただけではあきたらず、そなたの国まで攻めいろうともくろんでおる。こいは我が日の本にとっても、そなたの国にとっても、我が薩摩にとっても生きるか死ぬかの問題じゃ。故にわしは一つ策を思いついた」
「と申しますると?」
「うむ、近こう寄れ」
三官は膝を進めたが、なおも龍伯が招くので、さらに二・三歩ほどいざり寄った。
「この手紙を、薩摩へ停泊する明国の船へ届けよ。よいか必ずじゃ、失敗は許されんぞ」
後日、この手紙の中身を見た三官は驚愕し身震いした。そこに恐るべき陰謀が託されていたことだけは間違いない。だがそれがいかなるものだったか、今となっては知る由もないのである。