【豊臣政権編其の六】天下統一成る
天正十七年九月(一五八九)、島津義久こと龍伯は二度目の上洛を果たし、聚楽第を拝観した。聚楽第は豊臣政権の新たな政庁として山城国京都の内野に、わずか六ヶ月で完成した建造物で、本丸の他に北の丸・西の丸・南二の丸などの曲輪を持つ平城である。また周辺には諸大名の屋敷がずらりと立ち並び、大坂城同様、秀吉の威光を天下に知らしめるのに十分な代物だった。龍伯を驚嘆させたのは、聚楽第の部屋という部屋、広間という広間が、ことごとく純金で塗装されていたことだった。
むろん龍伯にとり、この上洛はただの物見遊山の旅ではない。豊臣政権下の大名にとって避けられないことは、大名自身の上洛と妻子を人質にだすこと、そして軍役である。島津家では、龍伯と義弘が一年おきに上洛する決まりとなっていた。当然龍伯や義弘が上洛するに際しても、軍役にしても、多額の金銭が必要となった。秀吉に屈服し、九州の覇者から薩・隅二国の一大名に逆戻りした島津家にとり、この負担は耐えがたいものだった。
一方で、豊臣政権に常に忠義であることこそ、島津家の延命の道であると考える義弘と、中央政権との間にできるだけ距離を置きたい龍伯との確執もまた、次第に露わになりつつあった。天正十六年上洛を果たそうとしていた義弘は、その費用を賄うため反銭・屋別銭等の徴収を命じたが、島津家老中達の反発により一銭も集まらなかった。老中達は皆、龍伯の息のかかった者達ばかりだった。島津家に新たな危機が迫っていた。龍伯もまた躊躇せざるをえない。
「島津殿、今日は関白殿下の命により、詰問に及ぶがよろしいかな」
豊臣政権下の奉行人である石田三成は、例の感情を面に出さない青白い、むっつりした表情で、龍伯に覚悟をうながす。
「まずは杉や檜の件じゃ、関白殿下の方広寺大仏殿建造のため、諸国の大名はいずれも、領国内の木々を伐採して上方へ登らせているというに、島津殿の領地からの音沙汰はない。また刀狩の件も然り。島津殿の領地から上方へ到着した刀は、皆短いものばかり。よもやその方、長刀を隠し謀反に及ぶ腹か?」
「いや天地神明に誓って、そげな腹はござりもうはん」
龍伯は、額に脂汗をうかべながら弁明につとめた。
「また琉球の件も然りでござるぞ島津殿。先年ようやく琉球より使いの者が上方に登ったが、その後進展がない。このままでは、いずれ軍勢を琉球に派遣せねばならぬやもしれぬ。さすれば貴殿の面目は丸つぶれでござるぞ。さらには、聞き及ぶに薩摩には、明国沿岸で盗賊稼業に精を出す者の出城多くあるとか。関白殿下におかれては、明国との交易を望むにあたり、海賊船の取り締まりはさし迫りたるもの。されど島津殿は見て見ぬふりをされておるとか。いずれにしても島津殿は、あまりに手緩い。遊山ばかりで御油断あそばれれば、御家の滅亡あるのみでござりまするぞ」
「仰せのこつ、龍伯しかと承ってござる」
龍伯は、かすかに無念を噛みしめながら頭を下げた。
豊臣政権下の島津家は、すでに狭い薩・隅二国や九州といった枠組みのみならず、広く明国を中心とした東アジア情勢の只中におかれていた。
秀吉は天下統一後を見すえ、博多にいたころ、早くも玄界灘に浮かぶ対馬の主・宗義智の使者を迎えている。秀吉は対馬一国を宗氏に安堵するとともに、朝鮮国王を自らのもとに参内させるようにという、実行不可能な命を下している。秀吉は朝鮮を対馬という、玄界灘に浮かぶ小さな離島の属国程度に考えていたのである。恐るべき国際情勢に対する無知といわざるをえない。対馬は土地が狭く、良田がなく、米もとれない。生活の糧は専ら朝鮮との交易に頼らざるをえないのである。窮したあまり、島民の多くが倭寇となり、朝鮮や中国沿岸部を荒し回った歴史もある。秀吉の厳命が対馬にとり、死活問題だったことはいうまでもない。
そして琉球に対しても、島津家を仲介者として服属を求めた。琉球に統一国家が出現するのは極めて遅い。按司とよばれる豪族達の争いの中、尚巴志という名の英傑が出現し、第一尚氏琉球王朝が成立するのは一四二九年、日本でいえば六代将軍足利義教の正長二年のことである。その後一四六九年クーデターがおこり、伊是名島の農夫出身の金丸が王朝を乗っ取る。金丸は尚円王と称し、尚王朝の正当な後継者を名乗るのである。それ以前を第一尚氏琉球王朝、それ以後を第二尚氏琉球王朝という。
第一・第二王朝ともに首里城を都とし、北は北京から南はジャワ島に至る、実に広大な交易圏を保持していた。秀吉がこれを配下に置こうとしたのも、いわば当然の成行きだった。
島津家は琉球との地理的位置上最も関係が深い。また倭寇とも、ある時は討伐に乗り出し、またある時はこれを保護し、見返りに利益の一部を吸い上げ、いわば硬軟とりまぜ巧みに共存関係を築いてきたのである。だがそれらは今、秀吉により一手に掌握されようとしていた。
むろん豊臣政権にとっても一島津家の存在は、九州の南端にあるとはいえ、決して軽視できぬものがある。だからこそ島津家は、九州の役の後も生かされたのかもしれない。それが同じ地方政権でありながら、東国の北条家と島津家の違いであった。万を持しての秀吉の北条征伐は天正十八年三月のことである。この戦国最後の城攻めには、島津義弘の次男久保も参陣する。衰亡の一途をたどる島津家の数少ない希望は、若武者久保の成長だった。十八歳の久保にとり秀吉の北条征伐は初陣でもあった
すでに秀吉は、前年十一月に小田原北条家の五代目北条氏直に宣戦布告していた。三河の徳川家康に先鋒が命じられたのを始めとして、東海道北上軍及び北国勢が続々と関東を目指し進発する。主な将は東海道北上軍が、蒲生氏郷・石田三成・織田信雄・細川忠興等で、北国軍が前田利家・上杉景勝・真田昌幸等である。総勢二十二万にも及ぶ大軍勢だった。
島津久保は島津氏が降伏した際、秀吉のもとに人質として送られた経緯を持つ。人質の身であったが秀吉に才気を愛され、この陣でも秀吉の御太刀の役を拝する栄誉をえている。
九州南端の地からはるばる参陣した島津軍は東進し、ついには駿河富士川まで達する。大雨で川が増水し島津軍の行く手を阻んだ。
「こいはまた大変な大雨でごわす。しばし軍を休め、雨が止むのを待ったほうがよかごわすな」
といったのは初陣の久保の供をつとめた、帖佐彦左衛門だった。
「いや、こたびはただの戦ではない。天下の武士が一同に会する大戦じゃ、他の隊に遅れをとってはならじ!」
そういうや否や、久保は秀吉から拝領した秘蔵の名馬をもって、激流を一気におし渡った。
「皆若殿に続け!」
彦左衛門の下地に従い、島津勢は次から次へと激流に身を委ねていく。こうして薩摩隼人は若武者久保に率いられ、ついに箱根の険を越えたのだった。
小田原城は三層の天守をもち、本丸を丘の上、平地に二の丸・三の丸を配し、城下町ををすっぽりと包む総延長約九キロもの外郭をもつ平山城である。いわば都市そのものが城なのである。城塞都市というのは、西洋や中国には当たり前のようにあるが、日本では極めて珍しい。さらに北条氏は関東各地に防衛の要となる支城を配置し、完璧なる迎撃体制をしいていた。それが山中城・韮山城・松井田城・岩付城等の諸城である。
この中で、最初に秀吉の大軍勢の標的となったのが山中城(静岡県三島市)である。豊臣方の大将は秀吉の甥豊臣秀次で、その数およそ七万。一方城将松田康長以下城方は約四千。圧倒的な兵力の差がありながらも城方はよく奮戦し、攻手の一柳直末は討ち死にしている。だが物量の差はいかんともしがたい。
午前十時に豊臣方の攻撃は開始され、昼過ぎには本丸が危機にさらされる。結局半日で山中城は陥落し、これにより箱根峠の防衛線は破られた。
これに続いて下野・下総・武蔵にもうけられた支城も、豊臣方の各将により次から次へと陥落していく。特に六月二十三日、八王子城が前田・上杉等の軍勢により一日で陥落したことは北条方に深い衝撃を与えた。
やがて小田原城そのものが、豊臣方の各将によって取り囲まれる時がきた。筆者はこの項を書くにあたり、小田原城にじかに赴いてみた。小田原城の規模は、やはり予想をはるかに越えていた。
城の西半分には、早川口・上方口・湯本口・水尾口と並んでいるわけだが、早川口は池田輝政が、上方口は掘秀政、湯本口は細川忠興が、水尾口は宇喜多秀家がそれぞれ配置される。
駅からまず最初に幸田門に赴いてみる。すると目についたのが、武田信玄・上杉謙信という、かって小田原城攻略に着手しながら、ついにこれを陥落しえなかった両雄の絵柄が入った巨大な看板だった。両雄はかって、この幸田門から小田原城攻略に着手した。この周辺には当時の石垣、土塁、水堀りが今も残っている。恐らく両雄も、この石垣や土塁から小田原城をのぞみ、難攻不落の堅城にさぞ歯ぎしりしたことであろう。
早川口近くにも土塁が残されている。その構造は二重構造になっており、虎口や堀など城郭上の弱点を補うためだという。
水尾口近くには、御鐘台大堀切がある。幅約二十メートル、深さ約十二メートル、堀の法面は五十度ほどで、本丸へと続く八幡山丘陵の尾根を分断している。
城の東半分には、荻窪口・久野口・井細田口・渋取口・酒匂口とあり、それぞれ荻窪口を加藤清正・福島正則等が、久野口は織田信雄が、井細田口は蒲生氏郷が、酒匂口は徳川家康が守りを固める。
そのうち、ちょうど徳川家康が布陣していた近くには、蓮上院土塁が残されており、太平洋戦争中の爆撃跡が痛い痛しい。
天守閣に登り館内を見学し、屋上から小田原市内を一望してみた。まず眼前に映ったのが箱根の尾根である。ここに来るまでに私は、北条家始祖・北条早雲こと伊勢新九郎長氏の銅像を小田原の駅前で見た。前足を蹴り上げた騎馬にまたがった早雲の像であるが、奇妙なことに騎馬の横に牛が彫られている。それは北条家創業の頃、早雲が松明を角につけた牛を、箱根の山から一斉に落とし、小田原城に迫ったという言い伝えによる。もし仮にこれが事実なら、眼下にそびえる箱根の山から迫り来る牛の群れは、実に城兵を寒からしめたことであろう……。
相模湾も一望できる。北条家歴代の当主もまた、この相模湾を見ながら、遠大な謀計をたてたであろうことは想像に難くない。だが小田原北条家末期、この湾を埋めたのは九鬼嘉隆・長宗我部元親・加藤嘉明・脇坂安治等のおびただしい数の水軍だった。
そして石垣山も一望できる。その石垣山には、関白秀吉の一夜城が、まるで北条方を見下ろすがごとく建設された。
一夜城といっても、事実一夜でできたわけではない。石垣山城とも命名されたその城は、五層の天守の他に馬屋曲輪・北曲輪・井戸曲輪等を備えた、れっきとした城塞だった。秀吉がこの城に千利休や、淀殿までも呼び、将兵にも酒がふるまわれたという有名な話は、いまさらいうまでもない。
私は城周辺で、島津久保の活躍の後を捜そうとしたが、残念ながら手がかりを得られなかった。ただこの時の久保は敵の矢面で戦い、帖佐彦左衛門が負傷すると、自らの黒糸威の鎧と筋甲一刎を与えるなど、初陣とは思えない働きぶりをしたことは事実であるようだ。
北条方が秀吉の圧倒的な物量と軍勢に屈し、ついに降伏・開城したのは七月六日のことである。北条家の現当主氏直は高野山に流罪、前当主の氏政及び弟の氏照は切腹を命じられた。
私は旅の終わりに、氏政及び氏照の墓に詣でた。小田原市の商店街の片隅に、ひっそりと両名の墓はあった。氏政の墓の隣には夫人の墓もあり、三人の墓の前に生害石一個がポツンと置いてある。北条氏政は、この生害石の上で自害したと伝えられる。戦国時代は、北条早雲こと伊勢新九郎長氏の国盗りをもって始まったというのが通説である。そして北条氏政の自害をもって終焉したといってよい。だとすれば、この長さ百十センチ・幅七十八センチほどの生害石は、いわば戦国終焉の場所といっていいだろう。日本国中で多くの群雄が競った戦国乱世は、東海地方を出自とする秀吉により、ついに終わりを告げたわけである。
秀吉は軍を奥州まで進め、各大名を服従させた後、帰路、鎌倉鶴岡八幡宮に参詣する。
鶴岡八幡宮は康平六年(一〇六三)、源頼義が前九年の役での戦勝を祈願した京都の石清水八幡宮護国寺を、鎌倉の由比郷鶴岡に鶴岡若宮として、勧請したのが起源といわれる。その後源義家(八幡太郎義家)により修復を加えられ、治承四年(一一八〇)十月、平家打倒の兵を挙げ鎌倉に入った源頼朝により、宮が現在の地である小林郷北山に遷された。以後社殿を中心にして、幕府の中枢となる施設が整備され、代々の武家の棟梁の尊崇があつかった。
秀吉は境内で、鎌倉幕府を創設した源頼朝像と対面する。
「お互いに天下を取ったのだから、貴公とわしは今や友である。貴殿もわしも天下を統べるは実に難儀な仕事よのう。汝は名門の血筋に生まれたが、わしは元々草刈童であったわい。なれどわしは関白、貴殿より官位は上なので頭は下げんぞ」
そういうと秀吉は、盃に酒を並々と注いだ。
「どうじゃ、一献やらぬか」
というと、この小男は満面の笑みを浮かべる。この年秀吉は五十四歳、今がまさに得意の絶頂であった。
その頃都では、儒教風の衣冠装束に身を包んだ奇妙な一団が、秀吉の到着を今や遅しと待ち構えていた。秀吉からの度々の要求により、李氏朝鮮王朝から派遣された使節一行だった。