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【豊臣政権編其の三】秀吉の九州進出~島津家の戦後

 秀吉は佐敷(肥後芦北郡)から船で出水に入り、泰平寺に本陣を定める。すでに島津方の諸将は八代まで撤退していた。

 島津方では、まず伊集院忠棟が、交流のある上方の安国寺恵瓊や木食上人らに導かれて、自ら人質として秀長に降った。さらに佐土原の島津家久も秀長の軍門に降る。

 

 家久は、病をおして野尻の陣所に秀長を訪ねた。秀長の御座所を前にして、体調六尺二寸(約一九〇センチメートル)はあろうかという大男が、まず家久をでむかえた。

「藤堂高虎にござる。以後お見知りおきを」

 家久は、長く戦場を疾駆してきた者の感で、高虎が只者でないことを一目で見抜いた。

 しばらく平伏して待つと、やがて秀長自身が姿を現わした。

「おおそなたが家久殿か? 武勇はかねがね聞き及んでおる。ささ顔を上げられよ、遠慮はなしじゃ」

「滅相もない、こたびはそれがし関白殿下に対し無礼の数々、死をも覚悟で参上いたした次第」

 家久は病のためか、やや元気がなかったが、秀長がいかにも屈託もない笑顔で出迎えたので、かすかに安堵した。やがて話題は、島津家の所領配分にうつった。


「日向の国割りについてであるが、兄者は、そなたが佐土原の領地を明け渡す必要は、ないと仰せじゃ」

「誠でごわすか?」

 家久は、かすかに驚きの色をうかべた。

「ただしじゃ、それには条件がある……」

 秀長は、やや言葉を濁らせた。

「そなたがわしのもとへ奉公いたせばの話と……兄者はこうおおせられた」

 有力大名の家臣を、自らのもとへ引き抜くことは、秀吉が最も得意とするところで、これにより大名の力を弱らせるとともに、譜代の家臣というものを持たない秀吉にとり、得がたい名士を得る機会でもあった。後年徳川家康の臣石川数正は秀吉のもとへ出奔し、また奥州の伊達政宗の臣片倉小十郎等にも、誘降の手をのばしている。

 むろん家久にとり、この誘いにのることは義久に対する裏切りを意味する意外、何者でもなかった。家久はしばし悩んだ。

「恐れながらそれがし、喜んでその儀うけたまわりましてござりまする」

 家久がやや重い声で返答すると、付き従っていた家久の側近は、かすかに驚き、秀長もまた、予想と違った返答にしばし驚きの色を浮かべた。

「そうかそうか、そなたほどの者家臣にいたすは、わしのような者にはもったいない気もするがの、これで兄者にも、よき知らせをもたらすことができるというものじゃ」

 と秀長は例の屈託のない笑顔をうかべた。家久にしてみれば、御家危急の時である。他に選択肢はなかった。将来はともかく、今はいかにしても島津家に、佐土原のみは残さなければならない。むろん島津家中から、裏切り者の汚名を着ることは覚悟の上だった。


 この間薩州家の島津忠辰は、戦わずして秀吉に降伏する。また川内川南岸の平佐城を守る地頭桂忠昉は、わずかな手勢で徹底抗戦を試みるが、豊臣本軍の先鋒小西行長、脇坂安治等に激しく攻められ、さらに九鬼嘉隆の水軍により海上封鎖されるなどしたため、ついに泰平寺の秀吉のもとへ出頭した。

義久は決断を迫られた。そこへ、人質として秀長のもとへ赴いていた忠棟が、突如として戻ってくる。忠棟は、これ以上抵抗を続けることの無意味を、義久に強く説いた。事ここに至り、義久は秀吉に降伏する覚悟を決め、母親の墓前で髪を切り、出家し入道名を龍伯とした。島津義久五十五歳の決断だった。


 五月八日、龍伯は伊集院忠棟、島津忠長等譜代の重臣、及び七十余人の腕の立つ者等とともに、泰平寺に秀吉を訪ねる。黒染めの衣装に身を包んで、神妙な面持ちで平伏して待つ龍伯を驚かせたものは、まず秀吉の奇怪な容貌と、いかにも目立つ派手な道服といった、秀吉の衣装だった。

「おおそなたが島津義久殿か、これへ、これへ」

 秀吉が手招きするので、龍伯は平伏したまま一歩、二歩前へ進む。

「苦しうない、面を上げい」

 龍伯はこの時、初めて秀吉の面貌をまじまじと見た。およそ礼儀作法というものにはほど遠く、甲高い声。龍伯のように、幼少時より鎌倉以来の名門島津家の跡取りとして、厳格な掟の中で育った者にとり、別世界に住む者にうつった。なにしろ島津家といえば、遠来の客人が龍伯に謁見するに際し、家中の者が蝿一匹尻に止まったのを忍び笑いしただけで、死罪を賜るほどの厳格さである。

『これが天下人か?』

 龍伯は呆れる思いがした。少なくとも、龍伯が思い描いていた天下人とは、全く異なっていた。

『一体何者であろうか?』

 このような人物を相手に己は苦悩し、戦場で苦渋をなめたかと思うと、龍伯は呆れるより他なかった。だがそれは、屈辱とよべるものではなかった。


「遠路はるばる、太守である汝自ら降伏を申し出に来るとは殊勝である。その格好では腰回りが寂しかろう。そちに格別にこれをとらす」

 というと秀吉は、龍伯に大小の指物である備前包平と三条宗近、それに小袖を与えた。この時龍伯は、初めて天下人秀吉の余裕とでもいうべきか、度量を見た。やがて盃が下賜される。だが龍伯は一時飲み干すことをためらった。

「盃に毒でもいれたと思うか? 案ずるには及ばんぞ」

 そういうと、秀吉はカラカラと笑った。


 会見は終始和やかな雰囲気のもとに進んだ。やがて秀吉は、

「おお、そういえば汝に特別に引き合わせたい者がおった」

 と、突然思い出したようにいった。

 龍伯は別室に通された。そこには、いかにも凛々しく、どこか涼やかでもある武人が控えていた。

「これなるは島津家当主龍伯殿じゃ、龍伯殿こちらは立花左近殿(宗茂のこと)でござるぞ」

 この秀吉の言葉に、龍伯は驚き言葉を失った。むろん宗茂もである。

「ささ龍伯殿今日はの、この関白秀吉を仲介人として、是非とも今までのいきさつを水に流し、両名互いに手を取り合い、わしのもとで働いてもらおうと、宗茂をここに呼んだのじゃ」

 両者に盃がだされた。むろん宗茂、龍伯ともに最初は相手を意識し、緊張していたが、酒が回るにつれ次第に打ち解けた。この会見で、両者が何を語り合ったか、記録に定かでない。だが互いに相手を認め合い、過去のわだかまりが少しは解けたことは事実であるようだ。


 秀吉は、表向きは龍伯に好意的に接した。だが後日島津家にもたらされた国割りは、案に相違して厳しいものだった。島津家の所領として認められたのは薩摩一国のみで、大隅国は長宗我部元親のものとしていた。さらに日向は大友宗麟に、その一郡飫肥は伊東祐兵のものとするというのである。

 龍伯は無念を噛みしめながら一旦薩摩へと帰郷する。時を置かず、秀吉の奉行人と称する者が、薩摩に乗り込んできた。その男は青白い顔をしており、体格も華奢である。鼻が高く、どこか傲慢不遜な印象を龍伯にあたえた。この男こそ石田治部少輔三成だった。

「関白殿下の御下命である。龍伯殿と、そのご息女一名、急ぎ上方へ出頭致すこと」

 いささかの感情も面に出さず、冷淡に言い放つ三成に対し、最初に反発したのは老中本田親貞だった。

「そいは余りの仰せ、太守様直々に上方に登れと、そげなことは納得できもうはん。かような仰せに従うくらいなら、もう一戦してもよかど!」

 と、親貞はやや脅し口調で三成にいった。百戦錬磨の兵揃いの薩摩隼人からしてみると、この三成という奉行人はいかにも小童といった印象でしかなく、関白秀吉の小間使い程度にしか思えなかった。そのため、つい親貞は言葉が荒くなったのである。

「仰せの儀、龍伯しかと承ったと、関白殿下にお伝えくだされ」

 親貞を制した龍伯が、かろうじて頭を下げた。だがその龍伯も、この小僧臭い奉行人が、後年あらゆる意味で島津家の命運を左右し、やがて関ヶ原で天下を二分する乱をおこそうとは、この時、夢にも考えていなかった。


 太守龍伯は秀吉に降ったが、島津家中にはまだ抵抗を継続する者がいた。その内の一人島津義弘は、龍伯の秀吉への帰参を聞くと、次第に態度を軟化させ、五月十九日秀長のもとへ出頭する。そして二十一日には真幸院飯野を出立して上方に登る。義弘には大隅一国が、長宗我部元親がこれを拒否したことなどもあり、新たにあてがわれた。むろんそれは、秀吉が知行地として与えるという形であり、これにより義弘は、龍伯と領国を分かち、事実上対等となる。さらに和平の斡旋に尽力した伊集院忠棟には、肝属郡が与えられ、これにより忠棟は、譜代の内衆の中で一頭ぬけた存在となった。

 九州全土を見渡すと、小早川隆景が筑前、黒田官兵衛が豊前、佐々成政が肥後にそれぞれ転封され、島津家は九州南端の一大名へと逆戻りしたのであった。


 義弘は態度を軟化させたが、そうはいかない者もいた。島津歳久である。

 歳久は、かっては豊臣家と和平の道を探っていたが、忠隣の死を知った以降、突如として抵抗の道を歩み始める。

九州の国割りをおおかた終えた秀吉は、帰路につくこととし、川内から薩摩郡の山地に入り、大口を経て肥薩国境を越えて、球磨郡に入る。やがて九尾の険といわれる、険しい山道に入った時事件はおこった。

 

 秀吉は例によって、己の余裕を見せつけるためか、警護する兵士はわずか三十人ほどだった。そのため秀吉を亡き者にしようとする歳久等にとって、格好の標的となったのである。

「きましたぞ! 秀吉が」

 側近がいうと歳久は、

「よし、秀吉には今日ここで死んでもらう。皆ぬかるな」

 山の上から秀吉の行列を見下ろす歳久は、鼻息を荒くした。

「それにしても、秀吉の警護にしては、取り囲む者は皆年寄りばかりでごわすなあ」

 確かに秀吉の輿の周囲を固める警護の武士は、皆貧相な体格をした年寄りばかりで、いずれも顔がすっぽり隠れるほどの巨大な兜を、深々とかぶっていた。

「まっこてやり申すか? もし失敗すれば我等むろん身の破滅。もし成功したとて、天下全てを敵に回すことになりかねもはんぞ」

 と側近本田四郎左衛門が、歳久の覚悟をためした。

「うんにゃ、所詮秀吉は譜代の家臣ちゅうもんを持たぬ成り上がり者。秀吉という一個人の力量に、かっては対等の立場にあった大名が、かろうじて従っておるだけじゃ。秀吉一人死ねば豊臣政権など、確実に瓦解する。戦国乱世に逆戻りするだけじゃ」

 四郎左衛門は息を飲んだ。やがて秀吉の行列が山の真下にさしかかった。

 

 歳久は終始目をつぶったが、やがて、

「今じゃ皆かかれい!」

 と号令を下した。同時に無数の矢が秀吉の輿めがけて射られ、供の兵士数名に弓矢が命中した。馬のいななき声が甲高く響きわたり、一行はたちまちのうちに狂乱状態に陥った。

「さらば兄者達、見ておれ忠隣、皆突撃!」

 歳久とその側近、配下の手勢は一斉に山を降り、秀吉の輿めがけて殺到する。この非常事態に、秀吉の供の者達は戦わず、あっという間に馬を蹴り退散する。逃げ遅れた者も歳久の手勢に討ち取られ、秀吉の輿は敵中に取り残された。

「もらった!」

 兵士の一人が輿めがけて刀を突き入れる。手ごたえがあった。さらに群がる薩摩武士達が一斉に刀、槍を突き入れる。

「もうよか!」

 歳久が兵士達を制止し輿を開いた。その瞬間歳久は愕然とした。そこに横たわっていたのはなんと、藁でできた人形だったのである。

「己謀られたか!」

 歳久は無念のあまり唇を噛んだ。同時に膝に激痛が走り地に伏した。中風の痛みが再び歳久を襲ったのである。と、その時だった。不意に山頂から、何者かが歳久等をあざ笑う声がした。

『おのれらごときに、やすやすと討ち滅ぼされる関白殿下と思うたか! 見ておれ、いずれ天罰が下ろうて!』

 こうして歳久の、秀吉暗殺計画は失敗に終わった。むろん秀吉は、歳久が己の命を奪おうとしたことを忘れなかった……。


 数日の後秀吉は曾木に出て、天堂ヶ尾に陣を敷いていた。大口地頭の新納忠元は、大口城で秀吉に対し抵抗を継続していたが、龍伯、それに義弘からも開城するよう申し渡され、不承不承ながら秀吉のもとへ出頭した。

「親指武蔵というは、その方のことか?」

 秀吉は平伏した忠元に、やや冷厳な口調でいった。島津家では家臣の名をあげる際、必ず真っ先に忠元の名前があがるため、最初に親指を折るという意味で、親指武蔵といわれていたのである。


「その方、細川幽斎に攻められた際、幽斎が兵糧に困っていることを見越し、わざわざ米を送り届けたそうだな。実に見上げた心がけよ」

 と秀吉はかたわらに控える、武将というより文化人として一流の域にある、細川幽斎を横目で見ながらいった。

「腹が減っては戦はできぬとは、昔からよういうたもの。この武蔵痩せ衰えた兵など相手に戦する気毛頭ござりませぬ」

秀吉は忠元の言葉にさらに感心しながらも、

「どうじゃ親指武蔵、まだわしに敵対する意図があるか?」

 と重ねて問い正した。

「主君の命さあれば、今すぐにでも敵対してごらんにいれる。なれど主が降伏した以上、今はこれまで、この武蔵残念至極」

 忠元が、かすかに殺気さえただよわせて言い放つと、秀吉は天下人である己を前にしても、いっこうに怯む様子のない忠元を、さらに試してみたい衝動にかられた。とっさに刀を抜くと、かたわらに置いてあった魚の干し物を突き刺し、

「どうじゃ、そなたも腹が減ったであろう。食わぬか?」

 と秀吉もまた、かすかに殺気をただよわせる。一同が不気味な沈黙に包まれたその時、突如として忠元は干し魚に、そのままがぶりついた。


「何故手に取って食べぬ」

 さしもの秀吉も、やや呆れながらいうと忠元は、

「関白殿下の腕は伸びきっておられました。それ故某を突くことは出来ぬと考えたのです」

 としゃあしゃあと言ってのけた。これには秀吉も驚いたが、すぐに気をとりなおし、

「よきかな、よきかな気に入ったぞ親指武蔵。どうじゃその方余に仕える気はないか」

 と、またしても得意の敵方の家臣の誘降戦術にでる。関白秀吉の思わぬ言葉に忠元はしばし黙したが、やがて、

「お仕えしてもよろしゅうございます。ただし、いつ何時でも関白殿下の寝首をちょうだいいたしまするが、それでもよろしいかな?」

 と不気味に言いはなった。秀吉はかすかに恐れ、

「うぬ、その方こそまさに武人誇り、よって太刀をとらす」

 と自らの刀を与え、かろうじて天下人としての体面を保った。

 秀吉は、すでに薩摩武士の精強さと抵抗の恐ろしさを知っていた。飼いならすことの難しさを改めて悟ったのであった。


 その頃家久は、新たに主従の契りをかわすにあたり、羽柴秀長主催の歓迎の宴に招かれていた。

 家久には酒がふるまわれ、宴では猿楽が催される。笛や太鼓が、あれいは不気味に、あれいは悲しげな音色で響きわたる。曲目は『船弁慶』である。

 平氏を討伐した源義経が、頼朝に疑われて西国に落ちるところから話ははじまる。前段は義経の愛人静御前と義経の哀切な別れ、後段では平知盛の霊が、海上で義経主従を悩ます劇的な場面で構成されている。

 秀長は一通り家久に宴の意味を話して聞かせたが、猿楽というものに興味が薄い家久は、いまいち理解できないでいる。


「実はの、わしも今一つ理解できん。なにせ元は百姓じゃからのう。なれど兄者がのう、これからはただ刀槍振り回すだけではいかん。都人の前でも恥ずかしきことなきよう、茶の湯や猿楽などにも関心を持てと、こう仰せられてのう……」

 そこまでいうと秀長は、一つため息をついた。

「これも時の流れじゃのう。近いうちに日本全土は兄者によって統一される。百姓は畑のみ耕し、商人は商いの道のみに精を出す時代がやってくる」

「戦のなき世がやってくるというわけでごわすか? じゃっどん戦なき世は武士にとり、さぞかし退屈でごわしょうなあ」

 家久もまた、一つため息をついた。

「それよ、実はの兄者は、ゆくゆく日本国が統一されたあかつきには、明国・朝鮮にまで攻め入ると仰せじゃ」

 秀長は、やや深刻な表情をした。

「おお、そいはまた何の理由もなく攻め入られる明国・朝鮮の民には、迷惑至極な話でごわすなあ。じゃどんもしそいが本当なら、こん家久広大な明国で暴れてみるのは、悪い話ではごわはんなあ」

 家久は目を輝かせた。

「いやいや兄者は時として、たわむれが過ぎる時があるのでなあ」

 秀長はかすかに笑みをうかべた。


 この両者の会話を、隣の部屋で又聞きする者がいた。許三官だった。病重い家久は万一の時のため、義久から特別につかわされた、この明国人医師を同道していたのである。会話を聞いた許三官は背筋が冷たくなった。三官とて、家久の武勇のほどは聞き知っている。祖国で多くの民が、家久のため無残な骸をさらす様を、三官は想像したくなかった。そしてある決意をした。

 むろん秀吉の明国討ち入りは、ただの風聞である。そして今家久は、病で明日をも知れぬ身である。だが禍根は早めに絶つかぎる。島津家久を殺害する。もし自分が、そのような大それたことを実行したとしても、医師である自分を疑う者はいない。恐らく誰もが病死、もしくは秀長による暗殺としか考えないであろう。いや、それを決めるのは自分自身でもある。三官は瞬時身震いした。殺人行為は意志の道に背く大罪とはいえ、家久が快癒し、祖国の民が家久のため多く死ねば、それは自分が間接的に手を貸したも同然である。それは医師の道を問う以前に、人として最も許されぬ行為ではあった……。



 その日夜遅く、宿所に戻った家久の部屋の戸を三官は三度叩き、片膝をつき、うやうやしく薬湯をさしだした。

「ご苦労であった。さがってよいぞ」

 何も知らぬ家久は、かすかに笑みをうかべ三官をさがらせた。異変は薬湯を口にした直後におきた。突如として全身を激痛が襲い、目の前に広がる風景が逆さにさえ見えた。吐血し、七転八倒の末、家久はそこに不気味な幻を見た。

「己、龍造寺隆信……長宗我部信親……汝等また生きておったか!」

 家久は刀を取ろうとしたが、すでにその力は残されていなかった。

島津家久享年四十一歳。島津四兄弟の中で最も遅くに生まれ、最も早くに散った。その軍略の才は、数ある戦国大名の中でも、五本の指に入ったであろうことは間違いない。もし存命なら、望みどおり朝鮮・明国でその軍略の才を十分に発揮したであろうし、関ヶ原とその後の島津家の歩む道も、恐らく異なっていたであろう。こうして島津四兄弟の一角が崩れた……。


 その夜龍伯は、何者かが城門を叩く音で目をさます。激しい雨が降る中、近寄ると城門が勝手に開いた。そこに蓑を頭からすっぽりとかぶった何者かが、片膝をつき控えていた。

「何者じゃそなたは?」

 蓑で顔が見えない。男は一通の置き文を残すと、闇の中へ小走りに走りさった。後姿に見覚えがあった。

「家久!」

 龍伯は叫んだが、すでに男の姿はなかった。

『我天命に生き、天命に死する者なり。今はただ島津家の長久のみ願い候、お別れにござ候……』


 龍伯がこの奇妙な夢の意味を悟るのは、数日の後、日向からの早馬によってであった……。


 


 


 


 

 


もちろんここに書いた家久の死因はフィクションです。恐らく羽柴秀長も犯人ではないでしょう。何者かが、秀長の仕業と見せかけるため、あのタイミングで家久に手を降したのでしょう。それが何者なのかわかりませんが?

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